安息日(金曜日の日没~土曜日の日没まで)は、天地創造の時から永久に変わらない掟であり、神と神の民とのしるし(出エジプト記三十一章十三節、エゼキエル書二十章十二節参照)でもある非常に重要な掟です。安息日について詳しく知りたい方は、ミカエル氏の記事「安息日の重要性とモーセの律法」をお読みください。先のワクチンに関する画像に「ルシフェラーゼ (luciferase)」とあったように、黙示録の「獣」であり、支配層の頂点のローマ教皇らは悪魔たる太陽神、堕天使の長ルシフェル(Lucifer、「光を帯びた者」という意味)を崇拝しています。そして、ミカエル氏が仰っているように彼らは太陽神崇拝が由来の日曜日を神聖視しています。故に、支配層は二酸化炭素排出量を減らすためと称して人々に日曜安息を強制し、本来の安息日を否定したがっているんです。こちら(Green Sabbath Project)にあるとおり、「緑の安息日計画」なるものが既にあり、日曜日とは明言していないものの、「地球」のために週に一度は車を運転せず、何もしない安息日にしてくださいとこの団体は言いよります。そして、「安息日は来るべき世界の前触れであると言われている」、「最大の環境問題は利己主義、貪欲、無関心であり、これらに対処するには精神的および文化的変革が必要」とも言っており、これはローマ教皇が「ラウダート・シ」(THE HOLY SEE pdfファイル)で、「我らは文化的、霊的、教育的な重要課題に直面している」(二百二節参照)、「人は、自己中心的または自己完結的になる時、貪欲さを募らせる。心が空虚であればある程、購買と所有と消費の対象を必要とする。こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚も無くなる。」(二百四節参照)、「我らは自分の生活を吟味し、行いや怠りによって神のものである被造界を傷付けてきたことを認め、回心、心の変革を経る必要がある。」(二百十八節参照)、「主日(※日曜日のこと)はユダヤ教の安息日と同様、我らが神との、自分自身との、他者との、世界との関わりを修復するための日である。主日は復活の日、新しい創造の『第一日』であり、その初穂は主の復活した人間性、全被造物の最終決定的な変容の確約である。この日は神の下における人間の永遠の休息を告げる日でもある。」(二百三十七節参照)と言いよったことと同じなので、この「緑の安息日計画」もローマ教皇の息が掛かったものと思われます。いずれ、日曜安息を主張し始めるでしょう。また、こちら(THE JERUSALEM POST 太陽暦二千二十二年十二月の記事)にあるとおり、偽ユダヤ教のラビ(指導者)であるウォーレン・ゴールドスタイン氏が、偽イスラエルにおいて日曜日を平日ではなく休日にするべきだと主張しており、「多くの(偽)イスラエル人が安息日を愛し、感謝しているが、誰も自分の生活様式が侵害されることを望んでいない。日曜日を休みにして週末を延長することが、安息日を分裂ではなく団結の日にするための答え」などと意味不明で矛盾したことを言い、「土曜日の安息日を守っている分、買い物や遊ぶための自由な休日が必要だ」という世俗的な甘い言葉をもって、今まで「日曜日は週の第一日目で平日」としてきた偽イスラエルに日曜休日と「日曜日は週末」という概念をもたらそうとしています。ゴールドスタイン氏は、日曜休日を多くの(偽)イスラエル人が支持するだろうと言っており、国内の「安息日の日は我慢して何もしていない分、自由に買い物したり遊ぶための休日が我々も欲しい」と思いよる人はそれに賛同して、少しずつ偽イスラエルも太陽神崇拝に侵食されていくと思います。安息日を国全体で守ってきた偽イスラエルでこうした話が出始めたことからも、終末の時が近いことを感じます。
漫画の話になりますが、「終わりのセラフ」という作品があります。この漫画は、ある登場人物が死んだ自分の仲間たちを蘇生し、そのことが神の禁忌に触れ、天罰として殺人ウイルスが広まって子供以外の殆どの大人が死に絶えて滅亡した世界を舞台にしたものです(この登場人物は、滅亡後の世界において全人類の蘇生を計画している)。世界滅亡と同時に海が毒に染まって血のように赤くなったとか、罪を犯した人間を罰するためにヨハネの四騎士(見た目は怪物)を召喚するラッパ吹きの天使(全部で七人の天使が居てそれぞれ能力が異なる。第五の天使は悪魔アバドンを召喚する)が登場したりと、明らかに聖書(黙示録)を基にした漫画で、滅亡後の世界とは大艱難時代を意識したもののように思います。この荒廃した世界を統治しよるのが吸血鬼で、吸血鬼の祖(律法に逆らい、堕天した存在)が配下として直接選んだ者たちを使徒と言っていたり、天使が人間を罰することだけを考えた理性が感じられない存在になっていたりと、聖書に対する悪意が感じられる描写が多々あります。吸血鬼の他に鬼という存在が居て、取り憑いた人間の深層心理を探って心の闇を見つけたり、その闇を刺激して欲望を解放するように迫る等、やっていることが実際の悪魔そのものであり、また、題名の「終わりのセラフ」の「セラフ」は、ヘブライ語の「שָׂרָף」(意味は「(炎の)蛇、セラフ(複数形はセラフィムで、熾天使のこと)」)であったりと、作者がそうした知識を持った人物であることが窺えます。殆どの人が普段意識していないことだと思いますが、確かに人間の心には自分でも気付かない醜い自我、闇があります。この自我こそが最も厄介な存在で、その人間の悪い心を明らかにするのが神の律法と聖霊です。神の品性を表した律法は鏡のようなもので、この律法と自分を照らし合わせることで自分自身の罪(律法違犯が罪。ヨハネ一 三章四節参照。「原罪」は偽教義で存在しません)を認識することができます。人は、神の律法を守り、洗礼をして真理の霊である聖霊を与えられ、日々祈って律法を基に自己点検しながら悔い改めていくことで、主イエスによって罪を赦されて清められ、少しずつ主イエスの品性に近づいていきます。某も祈る中で思いも寄らなかった醜い自我を知り、驚いたことが何度もあります。その自我を掘り下げていくと、忘れていた幼い頃の嫌な出来事が基になっていることもあり、人間の心の複雑さと性善説が大嘘であることを実感しました。信仰に招かれて神の律法を知るまで、自分がこれ程悪い人間であるとは想像もしていませんでした。人間は、自分のことを良く知っているようでまったく知りません。故に、これから多くの人が先述した災いに直面して初めて自分の心に潜んでいた闇に気付いたり、悪魔や悪霊に唆される(魔が差す)ことで衝動的に取り返しのつかない過ちを犯してしまうのではないかと思いよります。終わりのセラフという漫画には、「人間は十分辛い思いをしている。これ以上苦しめる必要があるのか」と主人公が天使(厳密に言うと天使に取り憑かれた人間)に問いかけたり、こんな腐った世界で闇を抱えていない者は居ないと言う登場人物が居ます。また、進撃の巨人という漫画では、ある登場人物が「自分は人を何人も殺した。それが私の悪魔」と言い、それに対し別の人物が「それは自分の中にも居る。誰の中にも、皆の中に悪魔が居るから世界はこうなってしまった」と言う場面があります。巨人は創世記六章四節にあるとおり、堕天使と人間の女との間に生まれたネフィリムのことなので、この漫画も聖書の記述から取ったものです。進撃の巨人はアニメも含めて非常に人気が高い漫画で、海外でも人気を博しており、こちら(pony canyon NEWS)によると、アニメに採用された「悪魔の子」という曲が世界六十六か国で一位(Apple Music J-Popにおいて)を獲得していたようです。悪魔と支配層が支配するこの世で人気を得るアニメや音楽等は、彼らの息が掛かったものが多く、この曲もその内の一つである可能性があります(歌詞は人間の心の闇を思わせる内容のもので、世界「六十六」か国というのも露骨)。最近、人間の負の感情や呪い、鬼等を扱った漫画やアニメが大々的に宣伝されて人気を得ているのは偶然ではないように思います。こうした漫画やアニメによって、「人間は皆、心に弱さや闇を抱えており、故に罪を犯すのは仕方ない。それが人間であり、その過ちや心の闇を責めるべきではない。(お互い様だから)」といった感じのことが広められたのだと思いますが、それは間違っています。「堕落した者は、その心の中で言った。『神など居ない』と。彼らは腐敗し、忌まわしい業を為した。善を行う者は居ない。主は、悟って神を求める者が居るか見つけ出すために、各天から人の子らを見下ろされた。その誰もが背いて、共に汚れていた。善を行う者は居ない。一人も居ない。」(詩編十四編一~三節 拙訳)と聖書にあるとおり、すべての人が神の律法に違犯した経験があり、肉体から来る欲や罪への弱さから、律法どおりに善を為し得ずに悪いことばかり行っているのは確かです。しかし、そんな罪深くて弱い人間でも、聖霊を与えられることで神の律法、掟、戒めを神への愛と共にすべて守り、罪に打ち勝つことができると証明するために(模範を示すためでもある)、神である主イエスは受肉して人間の身にまで御自分を低くされ、人間としての弱さを持ちながらも、ファリサイ派の者たちや大衆からの迫害(命を狙われたことも度々あった)、直弟子たる十二使徒の裏切り等の苦難を耐え忍ばれ、十字架刑によって死に至るまで律法を完全に遵守されたため、我ら人間はまったく言い訳できません。神は、遥か昔から人間に律法を守るようにと繰り返し説かれており、また、「イエスは、彼らを見つめて言われる。『人間にとっては不可能であるが、神にとっては違う。どんなことでも、神にとっては可能であるからだ。』」(マルコ十章二十七節 拙訳)と、神に不可能は無いことを示されているのに神を信じず、聖書の教え(偽使徒パウロとその仲間ルカの偽福音、偽教義を除く)を無視して自分の力や神以外の存在を頼りにしたり、「神の律法は、人間には守れないものだ。だからイエスが無力な我らの代わりに律法を遵守して十字架の贖いを成し遂げてくださった。故に、我らはもう律法の下に居ないから守る必要は無い」というパウロ教を信じて従った結果、悪魔や支配層に良いようにされたり、自我に打ち勝つことができず完膚無きまでに打ち負かされてしまっても、それはすべてその人が悪いのであって、誰のせいでもありません。自らの選択の責任は、すべて自らが負うことになります。
上記が神の律法で、今の世界は律法と真逆になっています。繰り返しますが、神は何千年も前から人間に本当の善悪と為すべきこと、人間本来の生き方を明示されており、その教えが詰まった聖書も現代では世界中に普及して各人が簡単に手に入れることができるようになりました。それなのに、皆が聖書を無視して好き放題に生きた結果が今の世界です。この悪い世を作り上げているのは、神に地の統治者・神の似姿として造られた我々人間(創世記一章二十六節~三十一節参照)であり、一人一人にその責任があります。「神が存在するなら、この世がこんなに悪くなる訳がないし、悪人が何も裁かれずにのさばる訳がない」と言う人が居ますが、神は何をすべきかを遥か昔から十分に伝えられているのにそれを無視し続けよる人間こそが悪いこと、悪魔や支配層だけでなく自分もその悪人の一人であること、皆が悔い改めることを望んで神は忍耐されよること(ペトロ二 三章九節参照)、神はすべての人間を律法を基に裁く時(最後の審判)を予め定められていること等を何も分かっていません。聖書のことを何も知らない人が、「神や聖書は◯◯だからおかしい」と言いよることはすべて勘違い且つ有害無益な愚言です。「聖書にそんなことが書かれていたなんて知らなかった」、「こんなに自分が弱く、非常時に悪いことをしてしまうとは思わなかった」、「悪を行うよう強制した支配層や、人間の心の闇を刺激して唆す悪魔が悪いのであって自分は悪くない」、「そもそも、不完全で悪い心を持つ人間を造ったのは神なんだから神が悪い」等の主張は、今後この世界を生きる上で(または、最後の審判が始まって神の御前に立った時に)まったく通用しません。特に古代イスラエル人、古代ユダヤ人の末裔である純日本人は言い訳ができません。日本には神社や神輿、和服、言語や祭等、数多くの古代イスラエル文化が残り、聖書も十分に普及し、真の聖書福音と預言が宣べ伝えられているが故に、「知らなかった」は通じません。純日本人がイスラエル人、ユダヤ人であることは、ミカエル氏が動画「真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである BIBLE, JESUS CHRIST, THE TRUE BIBLICAL GOSPEL AND PROPHECY」(BitChute)にて確かな根拠を基に論証されているので、視聴を強く勧めます。以下の画像は、この動画から引用したものとミカエル氏の記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」を参照して作成したものです。