皆さんへ

今回はこれまで主に歩ませて頂いた某の過去を中心に書いていきます。
某の過去は決して格好良いものではなく、この世の中で磨り減りながら必死に自分の生まれてきた意味、心に火を付けて甦らせる眩しい光、帰る場所をずっと探し求めよったように思います。しかし、過去何度もそれを探すのを止めようとしました。周りにはそういったものを求める人はおらんかったので、自分はどこかおかしいのか、仮にあったとしても、こんな自分に与えられるのか、自分は一生何も見つけられずに虚しく死ぬんやなかろうか、周りと同じように生きることが出来ない自分の弱さを認めたくなくて、自分勝手な逃げ場を求めよるだけやなかろうかとも考えました。安定することの無いその迷い続きの人生の過程で、周りの多くの人から奇異の目で見られ、理解されない苦しみと苛立ちから自暴自棄になって更に周りを傷つけて遠ざけました。その罪悪感と自己嫌悪から何度も死にたいと思いました。もう綺麗さっぱり諦めて世の流れに身を任せようとも思いました。ただそれでも自分の魂に嘘をついて周りと同化することは絶対に出来んかったです。そうした紆余曲折を経てミカエル氏のブログに辿り着き、主イエスへの信仰に招かれるまでをこれから述べたいと思います。少しでも皆さんに何か与えるものがあれば幸いです。

某は物心ついた時から常に誰かに見られよるような、近くに誰か居るような感覚がありました。呼びかけるのは何だか躊躇われる少し恐ろしい、しかし、もしそれが失われると自分の存在全てが消え失せて、もう何も見えなくなってしまうように思える程の存在でした。苦しい時に絶望せずに済んだのも、どんなことがあっても自分は一人やないと思えたのも常にその視線を感じちょったからだと思います。もしかすると主が見ていてくださったのかもしれません。
某は昔からとにかく内気で泣き虫でした。幼い頃は保育園に通いよりましたが、そこの女子にも泣かされよった程のへっぽこやったです。
「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記 一章六節 拙訳)。この聖句を見ると心が引き締まります。聖書には、我が正しい者は信仰によって生きる。しかし、もし怯むなら、我が魂はその者を喜ばない。(ヘブライ 十章三十八節 拙訳)、臆病な者への報いは第二の死(黙示録 二十一章八節 拙訳)とあり、臆病は罪であることが分かります。主イエスはユダヤ人に命を狙われながらも、仮庵祭でエルサレムに集まった大勢のユダヤ人を前にして教えを説かれ(ヨハネ七章十~三十九節)、律法学者たちとファリサイ派の人々に対しても、恐れることなく公然と非難をなされ(マタイ二十三章一~三十六節、マルコ十二章三十八~四十節、ルカ十一章三十七~五十四節)、大きな苦しみを受けることをご存知でありながら、逃げることなくエルサレムに向かわれて十字架の贖いの業を成し遂げられました。主イエスは人間と同じ弱い肉体をとられながらも、常に強く雄々しく、臆病さとは無縁の生涯を地上に於いて送られました。キリスト者も、特に男性は正にそうあるべきであり、最近その大切さが少しずつ分かってきたんですが、信仰に招かれる前の自分には、幼少期だけでなく大人になってもそんな強さや気概はまったく無く、いつも人目を気にしておどおどしちょりました。今の自分にそういった所が一切無いかと言えば、そうだとはまだまだ言えません。今後も主イエスにあって強くならんといかんと思っちょります。
話を戻しますが、某が通いよった保育園は浄土真宗の保育園で、そこでは仏を讃える歌を皆で歌ったり、食事の前にあれこれと仏に感謝する口上を述べたり、親鸞像に礼をしたりと、創造主である神を侮辱する偶像崇拝の巣窟やったです。

旧約聖書 出エジプト記 二十章四節~六節 (ミカエル氏訳:引用元記事「真の聖書福音と預言」「カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘」)
あんたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあるもの、地にあるもの、また地の下の水の中にある、いかなる物の形を造ってはならない。あんたはそれらに向かって拝んだり、それらに仕えたりしてはならない。我は主、あんたの神であり、不信仰を許さない神であるからや。我を憎む者には先祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、我を愛し、我が戒めを守る者には、幾千代に慈悲を示す。

偶像崇拝は上記のとおり、神が明確に禁じられたことであり、罪です。聖書には偶像崇拝を禁ずる記述が旧約・新約聖書を問わず非常に多くあります。造り主であり、永遠の存在であられる神を差し置いて、滅びる存在であり、明日のことさえも分からん程に不完全で愚かな人間を拝んで一体何になるか。そして、そんな人間が作った像を拝んで祈るなど尚悪いです。それは命もなく自分で動くことも喋ることも出来ん、動物にも劣る物です。それをこの世の神(コリント二 四章四節 拙訳)である悪魔とそれに惑わされた人間の作り話を信じて神だなんだと拝むのは非常に愚かで虚しい行為です。神はアブラハム、イサク、イスラエルの神のみ(列王記上 十八章三十六節 拙訳)であり、神とは、父なる神・主イエス・聖霊です。それ以外の神と呼ばれちょるものと教えは全て偽りであり、行き着く先は悪魔です。仏教、イスラム教、ヒンドゥー教その他宗教と呼ばれるものすべてがそうです。

旧約聖書 申命記 六章四節 (拙訳)
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

旧約聖書 マラキ書 二章十節 (拙訳)
我らすべてに、唯一の父がいらっしゃるではないか。我らを創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、父祖の契約を汚すことで、人は兄弟を裏切るのか。

とあるとおりです。ではキリスト教を掲げているカトリックやプロテスタントが正しいのかと言えばそうではなく、世間一般でキリスト教の代表かのように思われちょるカトリックは、はっきり言って論外であり、異教と言っても過言ではありません。彼らはマリア像や十字架にかけられたキリスト像なんかを堂々と作ってそれに向かってよく礼拝しよりますよね。あれが偶像崇拝でなくてなんなのか。どう考えてもおかしいでしょう。その他にも聖書に反するクリスマス・イースター等の異教由来の祭を行なったり、悪魔である太陽神崇拝からくる日曜礼拝等の行為が数多くあります。故にカトリックはキリスト者の集まりではなく、神に逆らう反キリスト集団です。そしてプロテスタントも聖書の真理に反する律法廃止論を掲げる異端宗教です。主イエスを証する聖書(ヨハネ 五章三十九節 拙訳)のみに依拠し、主イエスの信仰と共に神の律法・掟・戒めを最期まで守り通すことが唯一の正しい道であり、それ以外はありません。人間の教えや正しいと思うことはどうでも良く、神の仰ることがすべてなんです。
詳しくはミカエル氏の記事「プロテスタントの致命的な間違い」を是非ご覧ください。そして、「動画二回目投稿 これぞ真の聖書福音」を是非ご視聴ください。

さて、そんな保育園に通いよった某は、泣き虫故に他の児童に目を付けられてよく保育園鞄の手提げの部分を切られたり、からかわれたり等の嫌がらせを受けよりました。気の強い母はその度に怒って保育園に訴えよりましたが、当の某は泣きはするものの、そこまで気にはしちょらんかったように思います。その時からどうも某は変わり者で周りと馴染むことが出来んかったみたいで、保育園の先生も「この子は何を考えているか分からない」と保育園手帳か何かに書いちょったらしいので、気味悪がられちょったんかも知れません。他の子たちと同じく戦隊物やアニメは良く見ていて、その玩具を欲しがりよりましたが、それも今思えば周りと話を合わせるためやったように思います。何処か普通の子供を演じようとしよったような、そうしないと排斥されることを無意識の内に理解しちょったんかもしれません。玩具を自慢したい気持ちもあったと思います。そういったものとは別に、生物の図鑑や宇宙の図鑑、恐竜の図鑑、歴史漫画、漫画(ドラゴンボール、ドラえもん等)、絵本、科学・化学の本、医学の本等、とにかく色々な本を読みよりました。今では恐竜とか宇宙とか歴史(表向きのもの)も進化論も地球球体説・地動説もすべて嘘であり、漫画も反聖書的な内容が多いことを知りましたが、その頃は只々夢中になって読みよりました。人一倍好奇心が強かったのもありますが、先述したとおり、自分の心を揺さぶるものを探しよったんだと思います。よく親に色々と質問しよったと思いますが、次第に自分の求めよることは両親も含めて周りは教えてくれんし、考えていないことを悟り始めました。その頃から人に対して壁を作って自分の本心を見せんくなったように思います。

月日が経ち、いつの頃からか両親の仲が悪くなって激しく喧嘩をするようになりました。その度に某は別の部屋に移されて、ひたすら嵐が過ぎ去るのを真っ暗な中で虚空を見つめながら過ごしよりました。「なんでこんな喧嘩を大声を出してするんやろ、もう止めて欲しい、いつになったらこんな日々は終わるんやろ」、子供の某にとって家が世界のすべてやったので逃げ場はなく、ただ我慢するしかない行き場の無い閉塞感の様なものに包まれちょりました。日本拳法の師範やった父は筋骨隆々でとにかく恐ろしい存在やったです。それまで父親とは何処か相容れん所を感じちょったものの、恐ろしいとまでは思っちょりませんでしたが、母と仲が悪くなってからは常に苛立ち、某に八つ当たりする時もありました。泣き虫の某が気に食わんかったというのもあったと思います。父が仕事から帰ってくるまでが某にとっての自由な時間であり、帰ってきた後は常に顔色を伺い、両親との間の険悪な空気の中で、何事も無く一日が終わって明日が来るのを待つ毎日で、本当に牢獄の様やったです。
そんなある日、恐らく小学校二、三年生の頃やったと思いますが、父が軽トラックに荷物を神妙な顔で積みよるのを見ました。母も同じく硬い表情で互いに一言も交わさんのを見て、「ああ、二人は別れるんやな、父さんは居なくなるんだ」と悟りました。某は嬉しくて仕方がなかった。やっと父がいなくなると。ただ、二人の間では色々思う所があるんやろうし、ぬか喜びの可能性もある。この別れが最後まで無事に完了するまではこの嬉しさを表に出したらいかんと思って、某も何も分かっちょらん振りをして黙ったままでした。その日は厚い曇り空やったのを良く覚えちょります。父が乗った車が見えなくなってから、父の行方を母に訪ね、予想通りもう帰ってこないことを知った時は喜びを隠しませんでした。父がいなくなってからは異常な程に母に甘えました。そして、怖いものが無くなり、今まで抑えつけられちょった反動で某は完全に狂いました。父親が座っちょった場所、父親がいた部屋や残していった物を自分の物にして、無意識の内に父親に成り代わろうとしちょりました。金銭感覚も狂って我儘放題になり、そして自分よりも弱い存在である妹に暴力を振るうようになりました。周りは当然某を責めて妹を庇います。某はそれが無性に腹立たしくて仕方がなく、「自分が何をしたんか、何でそんな目でみるんか、何で自分ばかり我慢せないかんのか」と周りを呪いよりました。自分が受けた苦しみを何も関係のない妹にも与えようとしよったんです。完全に悪魔に心を支配されちょりました。それと同時に「誰か自分の心を静めてくれ、苦しい、助けてくれ」とも思いよりました。
そんなある時にふと某の脳裏に、「自分がしているのは父親と同じ行為ではないか、あれだけ忌み嫌った父親そのものではないか」との考えがよぎり、堪らなく恐ろしくなり、それから妹に暴力を振るうことは無くなりました。異常な金銭感覚も随分と収まりました。今から考えると主が某を諭してくださったように思います。その頃からか、家族皆で食事に行って楽しい時間を過ごしても、「この楽しい時間は永遠には続かない、全ては過ぎ去っていく、決してこの楽しさに心を全て預けたらいかん。」と思うようになり、心から何かを楽しむことはなくなりました。そして平穏な毎日の筈なのに、常に何かに追われて急き立てられているかのような、この世が太陽が沈みかけている、色褪せていく終末であるかのような気持ちが消えなくなりました。丁度その頃起きた阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇聖斗の事件等もその思いを強くしました。死についても良く考えよりました。死んだらどうなるのかを考えると怖くなりましたが、人は死を意識したその時に裏表の無い思いと言葉が出てくるんやなかろうか、その混じりけの無いものにこそ、自分の知りたいことが秘められちょるかもしれんと思い、それが知りたくてよく学校の図書室で戦争に関する本を読みよりました。「はだしのゲン」もよく読みました。そこに期待する答えはありませんでしたが、自分がこんな極限状態の中にあったらどうなるかを良く想像しよりました。それとは別に、何かこういった酷い出来事を見て見ぬ振りをしたらいかんという思いもあり、大人になってからも戦争資料館に行ったり、本を買ったり、インターネットで戦争体験記を読みよりました。

小学校四年生の三学期くらいから某は地元から離れた学習塾に通うようになりました。中学受験をするためです。某が通いよった小学校はこれまた悪く、掴み合いの喧嘩は日常茶飯事で、学校の窓ガラスはよく割られ、煙草や万引きをしよる者もおりました。口の前に直ぐ手と足が出る乱暴者が多かったんですが、そういった者たちの家庭環境は悪い所が多く、皆何処か寂しい目をしちょったように思います。食生活も原因やったでしょう。そして田舎育ち故か、根っこの部分は純朴で素直な所もありました。ただ母親はこうした環境に不安を持ち、せめて中学はここから離れた学校に通わせたいとの想いから、某を学習塾に行かせました。学校が終わって夜十時から十一時くらいまで勉強しよったと思います。今では心配する母親の気持ちも分からんでも無いんですが、当時は嫌で嫌で仕方なかった。皆から遊びに誘われても断って塾に行きよりました。あの無機質な白い壁の部屋の中に押し込まれ、同じく無機質な蛍光灯の光に照らされながら夜遅くまで勉強して、「また我慢せないかんのか、自分は皆と一緒の学校で良いのに。ここまでして行く学校って何なんやろ」と頭がおかしくなりそうでした。視力も一気に落ちて、晩御飯もマクドナルドばかりやったです。そして、良い点数を取れば喜んで、某をわざとらしく誉める母親に対して本当に自分を愛しているのか、条件付きの愛やなかろうか、自分が嫌がっちょるのが分からんのやろかと疑念を抱くようになりました。やめたくてしょうがなかったですが、気の強い母親が怖かったのと、女手一つで育ててくれよる事、我儘放題した後ろめたさと自分が離婚の原因になったんじゃないか等の思いからズルズルと小学校卒業まで通うことになりました。塾の生徒達も異質で皆ギスギスしていて、乱暴者やけど子供らしさのある地元の学校の同級生しか知らんかった某はかなり戸惑いました。ここまで合わん人間がおるんかと。いつも塾の教室に入る時に緊張しよったのを覚えちょります。塾の生徒の中には小学生の癖に色目を使ってきたり、某の母親へのお世辞を言っておべっかを使ってくる女子もおったりして、気の弱い某はその得体のしれなさに恐ろしくなり、自分の心を守ろうと距離を置くのに必死で友達は最後まで一人も出来ませんでした。心を歪にしてまで、無意味な勉強に貴重な十代前半の時間を費やすあの場は本当に異様で無味乾燥であり、人の生き方やなかったです。この経験で当時の某は大袈裟かもしれませんが、この世の殺伐さを初めて教えられたように思います。

結局、中学受験を嫌々受けて合格してしまい、第一志望のカトリック系の学校に通うことになりました。本来は合格する水準になかったんですが、定員が足りないとかの理由で入ることになったと記憶しちょります。朝六時半に電車に乗って一時間揺られ、降りた駅からまたバスに乗って学校に通う毎日が始まりました。校舎の近くの中庭にはマリア像があって、当時の某は「ふーん、やっぱりマリア像があるんやな」ぐらいにしか思っちょりませんでしたが、これは先述したとおり、決して許されない典型的な偶像崇拝です。教室にも十字架が飾っちょりました。「キリスト教の学校だから皆大人しいんかな、きっと世間一般の子達とは違うんやろな」と某は入学式の時に想像しよりましたが、そこの生徒達はそんなんやないでニヤニヤしながら性的に下品な話をしよりました。某にもニヤニヤしながらその話をしてきて、某が理解出来ずにそれに対して質問すると「信じられん、そんなことも知らないの、嘘だろ」と言いよったのを覚えちょります。カトリック内で性犯罪が横行しちょるのは有名な話で、こちら(ウィキペディア)に書かれちょることは氷山の一角でしょう。当時の某はそういったことをまだ知らず、キリスト教という物質的やない精神的な存在、それを信じる人たちの場やったら何か自分の期待するものがあるかもと、淡い期待を持っちょったんですが、それは見事に打ち砕かれ、完全な異世界に来てしまったことに対する戸惑いと不安が某を包みました。「キリスト教だなんだと言ってもやっぱり世の中こんなもんか」との落胆もありました。教師の人たちも悪い人やないんですが、至って普通の人たちやったです。一部、宿題を忘れた生徒に対してヘラヘラ笑いながら平手打ちを喰らわして幼稚な説教をする異常者もおりましたが。
その学校では国語、数学等の一般的な教科に加えて宗教という教科がありました。シスターと呼ばれる女性が教師やったです。

新約聖書 テモテへの手紙一 二章十一節~十三節 (拙訳)
女性は静粛に、すべてに於いて服従して学びなさい。女性が教えること、男性の権威を奪うことを、我は許可しません。そうではなく、静かであるべきです。なぜなら、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。

とあるとおり、女性が男性(幼い子供と年下の女性に関しては、その限りではない)に教える行為は創造の秩序を弁えない反聖書的な行為です。また、教師に関しては他にも、
わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。(ヤコブ 三章一節 新共同訳)ともあります。聖書の真理を知り、それを日々行いで示しちょる偽りの無い人こそが教師として相応しいのであり、異教であるカトリックに染まっちょる者が教師になって良い訳がありません。盲人が盲人を道案内して共に穴に落ちる事になるからです(マタイ 十五章十四節参照)。こういった所からもカトリックのおかしさが分かりますが、当時の某はシスターは仏教の尼さんみたいなものだと思って気にもしちょりませんでした。無知とは本当に恐ろしいです。

さて、そこで某は初めて聖書に触れました。正直な所、特に感慨はありませんでした。それどころか、こんな物を学んで周りの人間のように染められたくない、自分は自分だという反発心がありました。しかもその聖書は文語訳聖書で現代では馴染みの無い古い言葉で書かれちょるので、「うわ、何て言いよるのか全然分からん。凄い分量やし、こんなの自分に読める訳がない」と最初からつまずいて、それからまったくと言って良い程読むことはありませんでした。やる気も無かったので授業内容もまったく覚えちょりません。ただ、そのおかげでカトリックの偽りの教えに洗脳されずに済んだと今になってみれば思います。しかし、ここで聖書を自分で読んで学ばなかったつけを後に払うことになるんですが。

こうして始まった学校生活はこれまでなかった程に苦しいものでした。周りとどう接したら良いか見当もつかない、それでもこれから六年間(中・高一貫の為)ここで生きていかないかんとの思いから、自分を偽って常に周りを意識した振る舞いをしよりました。相手の反応を探りながらの毎日で、いつも心はざわついて完全に自分を見失っちょりました。下品な話にも合わせて笑いよりました。男女が別々の部屋に分けられて、同性同士が固まっちょったのもあってか、神の嫌悪される同性愛(レビ記十八章二十二、二十六節・ローマ一章二十六~二十八節・コリント一 六章九~十節)もありました。性的な行為があったかは分かりませんが、同性を意識するということはあり、某も大変愚かなことにそれにかぶれっちょった所がありました。友達も学校での時間をやり過ごすための話相手でした。交遊関係も適当にして、恥ずべきことに平気で約束を破ることもありました。勉強もまったくついていけなくなり、何もかも上手くいかなくなりました。自分に嘘をつく・隣人愛に欠けた行為・同性を意識する等の神に逆らうことばかりしよったので、苦しい思いをするのは当然なんですが、某にとってあの学校は何かの腹の中にいるような、何処までもまとわりつく逃げ場の無い刑務所のようでした。この学校に限りませんが、全体主義にも嫌気が差し始め、それらの現実逃避のために漫画やテレビ遊技にはまり込んじょりました。そんな毎日がいよいよ嫌になって高校二年の後半くらいから学校を少しずつ休むようになりました。母親を始め、周りからは犯罪者扱いやったです。無理して学校に行っても教室には入らずに敷地内をぷらぷらと歩きまわって結局家に帰りよりました。悪いことをしよると思いながらも、何処かこの世の中の定めと流れから離れることが出来たかのような開放感を感じちょりました。当然、学校に行きよらんことは母親にばれて叱責されました。学費がどうとかとそういう話やったと思います。別れた父親まで某を責めに来ました。他の人からは腫れ物扱いされ、侮蔑されることもありました。高校三年生からは学校に行くことは殆どなくなり、昼は部屋を閉め切って光を閉ざして時間を過ごし、家族の皆が寝静まった夜に恐る恐る部屋から出よりました。自分はどうして生まれてきたのか、生まれてこんかった方が周りのためにも良かったんじゃないか等と常に自問自答する毎日でした。この頃は死人も同然やったです。実際自分は早死にするとの勝手な思い込みから、随分と自分の体を粗末にしました。本当に何処までも愚かでした。
こうした無為の日々を送る中で、もうどのようにしてもあの学校には戻れんとの思いが強まり、高校三年生の中頃に学校を退学することになりました。当時もその後も「あと少しで卒業やったのに勿体ない」と周りから言われましたが、某はもう苦しくて仕方がなかったのと、高校から大学に進むのが当然といった世の常識とそれに疑いもなく倣う彼らから離れたかったのもありました。退学してからは高卒資格を取るために一年間、田舎の通信制の学校に通いました。こちらは時間も服装も割と自由で、生徒も色々と事情のある人が多く(五、六十代の方もいました)、学校に行かんということはありませんでしたが、ここでもぽっかりと空いた心の穴を満たすことは出来ませんでした。将来への不安が募る中で、自分は一体何処に行ったら良いんやろと良く思いよりました。正に八方塞がりやったんですが、ここまでなっても聖書を読もうとはしませんでした。聖書を見よると、あの嫌な学校生活を思い出すのもありましたし、何かずっと見られよるような気がして居た堪れなくなったので、ある日思い切って聖書を捨てました。祟られたりせんかなと阿呆なことを考えよりましたが、それもいつしか忘れていきました。

高卒資格を取った後は家に居続ける大義名分がなくなり、将来どうするかなんてまったく思いつかなかった某は、それが見つかるまでの時間稼ぎ、そして周りも納得しそうな公務員を目指すこととしましたが、こんないい加減な考えが上手く行く筈がなく、結局挫折して消去法で家業の菓子屋を継ぐことになりました。丁度職人の一人が定年になり、人手が足りなくなった頃でした。それから何年か過ぎた後、東京・代官山にある菓子屋、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの弓田氏の存在を知り、それをきっかけとして日本の食の真実を身を持って体験して、ようやくこの世の欺瞞に気付き始めていきました。
食の改善により、劇的に心身共に改善されはしましたが、某の根っこの部分は何も変わりませんでした。その頃は弓田氏の真似をして深夜まで自分独自の菓子を作ろうとしよりましたが形にならず、菓子作りは好きな筈なのに何だか苦しくなって次第に止めていきました。自分を大きく見せたくて熱中しちょった体の鍛練も、米国への海外旅行で彼らとのあまりの体格の違いを知って意気消沈し、それも熱を失っていきました。依存状態と言って良かった程にのめり込んじょった漫画やテレビ遊技も時間潰しのために仕方なくする感じになり、新たに買うことは失くなりました。自分はこの歳でもう枯れ始めよるのかと思いよりました。

そんな折にある大地震に遭いました。震源地からは離れちょりましたし、過去にもっと強い揺れを経験しちょったにも拘らず、情けないことに夜も眠れなくなる程の恐怖を覚え、それから必死に地震に関する情報をインターネットで調べ始めました。酷い話ですがようやくその時になって、太陽暦二千十一年三月十一日に起きた東日本大震災の凄まじさと被災者の筆舌に尽くしがたい悲惨な経験と苦しみを知りました。同じ日本人があれだけの災害(当時は人工地震だとは知りませんでした)に遭って苦しみよったのに、自分はその時ゲームに熱中して完全に他人事にしちょったことがとても恥ずかしくなり、津波や放射能についても調べるようになりましたが、その深刻さから衝撃を受けてしばらく心の整理がつきませんでした。日本の食の真実を知った時もそうやったんですが、世の表の情報とその裏の真実とのあまりの乖離に戸惑うばかりでした。毎日思い悩むようになり、これ以上調べるのは止めようかとも思いましたが、このまま何も知らずに死にたくないという思いの方が勝りました。ただ、調べれば調べる程、日本政府が自滅しようとしちょるとしか思えんことばかり(津波や地震が予想される危険な土地に原発を建設しちょること、汚染土・汚染食品の全国への拡散、汚染水の放流等)しよることが理解出来ずにいました。日本政府が国民のことなど何とも思っていない、政府は頼る存在ではなく自分の身は自分で守らないかんことは分かりましたが、そこだけが解せませんでした。当時の某の考えは狭く、日本とその政府だけに囚われちょったんです。

そんな時にスピリチュアルに関するブログに出会いました。こういった類いのものは最初は信じてはおらず、スピリチュアルに関するもの以外の記事を読みよったんですが、そこでこの世界は政府や大統領以上の権力を持つ、ほんの一握りの者達によって支配されちょることをようやく知りました。ロスチャイルド家やロックフェラー家等の大富豪の存在、地球温暖化の嘘、そして新世界秩序(NWO)等、これまでの価値観がひっくり返る話ばかりでした。まさかこんな大きな話だとは思ってもみませんでしたが、これまで調べてきたことが繋がって疑問が氷解しました。「このブログの人は正しいかも知れん」。スピリチュアルに対する先入観を捨てて、一度は読まんといかんと思ってそれに関する記事を読みました。その中でライトワーカーという言葉が目に留まりました。ライトワーカーとは魂が地球ではなく別の星で生まれ、それ故にこの世で生き辛さを感じる、特別な役割(光を与える、愛を教える等)を持った人を指すスピリチュアルの用語で、それを見て「自分がこれまでこの世で居場所を見つけられず、何もかも上手くいかんかったのはこのためやったんだ」と当時の某は目が開けた思いがしました。「特別な存在」という甘い言葉にも、これまで挫折続きで承認欲求の強かった某はまんまと酔わされました。悪魔は人間の弱さと欲っするものを本当に良く知っちょります。この時点で某は悪魔の手の内に入ってしまいましたが、それと同時にいつしか忘れかけていた霊的な存在に目を向け直す機会にもなりました。
それから、前から調べよったものの有耶無耶になっちょった日航機墜落事件の真相や、ロスチャイルド家等の世の支配層のことをもっと知りたくなり、色々なサイトを見て回る内に、ラプトのブログに辿り着きました。「日航機墜落事件は悪魔への供物である」といったことを書いちょったと思うんですが、某はこの悪魔崇拝というものに強く惹き付けられました。幼児を火の中に投じたり、血や肉を食べるような儀式をしたくなった訳ではなく、怖い物見たさと霊的な知識を深めたかったからでした。彼の記事を毎日貪るように読みよる時は、得体のしれない恐ろしい寒気を常に感じちょりましたが、それでも読むのを止められませんでした。そしてラプトが聖書を読んじょる事を知りました。まさかここで再び聖書に出会うとは夢にも思っちょりませんでしたが、これまでの道が繋がったようにも感じました。サタンを恐れずに立ち向かっちょるラプトのようになりたい、自分も特別な存在になりたい一心で彼の聖書関連の記事を読んで実践を始めました。夜中に長々と祈るとかそんなんです。主イエスは「しかし、あんた方が祈る時は、異邦人のように無駄に繰り返してはならない。」(マタイ六章七節 拙訳)と明確に仰っており、長々と祈るなんてラプトの勝手な妄想であることは聖書を読めばすぐに分かるんですが、聖書をまだ買っちょらんかった某は愚直にそれを行い続けました。ラプトは聖霊を与えられると体が暖かくなるとか言いよったと思いますが、本当に暖かくなりました。膝の辺りやら背中の辺りです。某は遂に神から目をかけてもらったとの喜びから有頂天になりました。毎日世の讃美歌を聴いて歌いよりました。勿論これは聖霊の力ではなく、目に見える物や奇跡に弱い人間の心を的確に狙った悪魔の罠です。聖書の何処にも聖霊を与えられたら体が暖かくなるなどとは書かれちょりません。某がラプトが言いよるような、この世での成功や能力の向上、奇跡を望んだからこそ、この世の神である悪魔(コリント二 四章四節 拙訳)がそれを与えただけのことであり、本当の神とはまったく関係はありません。実際、それは日のある明るい時までであり、日が沈み暗くなった後は耐え難い恐怖に襲われ、ほんの少しの物音にも敏感になり、幻覚(誰かが横切ったように見えた等)のようなこともありました。電気を点けたままでないと夜を過ごせず、その不安を解消したくてラプトの読者対談を聞き漁ったり、二ヶ月分程有料記事も購入しました。これも悪魔の右の手から左の手に移っただけで、なお悪いんですが。読者対談で彼の声を聞いて「何かおかしい、思っちょったのと違う」と違和感を感じたり、有料記事も、「金を取るなんておかしい」と心の中で引っ掛かりながらも引き返すことはなく、酷く頑なになっちょりました。この状態が続いちょったら、某は狂い死にしちょったと思います。

その有料記事の中で、神にこれまでのことを懺悔する話が書かれちょったので、例の如く深夜に行いました。自宅では怖くて出来んかったので、二十四時間営業の店の駐車場に行って車内で祈りました。過去を振り返り、妹に暴力を振るったこと、周りを呪ったこと、人の物を盗んだこと、ああ、あれもある、これもある。一時間位、一つずつ思い出しながら懺悔を続けていると、途中で急に胸が苦しくなり、堰を切った様に涙が次から次へと溢れてきました。これ程涙を流したのは生まれて初めてやったです。

旧約聖書 詩編 五一編十九節 (新共同訳)
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

某はこの日までずっと、自分の罪に向き合うことを恐れて逃げちょりました。何処かで向き合わないかんと薄々思いながらも、積もり積もったままにして目を背けちょりました。今まで苦しい思いをしてきた自分が悪かっただなんて認めたくなかったんです。はっきり言って、これは人間の勝手な考えであり、酷い高慢でした
善のみを行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」(コヘレトの言葉 七章二十節 新共同訳)とあるとおり、人間は皆、神の律法・掟・戒めに背いた罪人です。自分は何も悪いことをしたことが無い、自分は悪くないだなんて勘違いも甚だしいんです。
この時はまだ聖書を読んでそのことを理解しておらず、罪に対してまったく不十分な認識ではありましたが、切っ掛けはどうであれ、某はようやく自分の罪に向き合い、神から憐れみを受けて心が打ち砕かれたんやないかなと思います。ミカエル氏の記事「憐れみ深い神が大変参考になりますので、是非ご覧ください。この頃から「聖書を読みたい、真っ直ぐになりたい」という気持ちが初めて芽生えて来て、自分の意思で聖書を直ぐに買って読みめました。それと同時にラプトがよく言いよる工作員とやらの反対意見も知りたいと思い、ネットで調べると直ぐに見つかりました。「真の聖書福音と預言」。ミカエル氏のブログをこの時に知りました。「"真の"と自分で言うとは凄いな、弓田氏みたいだ。そう言い切れる程に真面目に聖書研究しよる人なんかな」と最初は思いよりました。まずブログを見て気づいたのは、聖書に関する内容の記事しかないことでした。世や自分のことばかり書きよるラプトとはまったく違う。「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。」(ヨハネ一 四章五節 新共同訳)とあるとおりで、どちらが聖書に依拠して真摯に語っているかは一目瞭然でした。工作員だとか反対意見とかという考えは消え、ミカエル氏の最初の記事「目を覚ませ」から読み始めました。今まで明後日の方向を向いちょった自分が急速に正されていくのを感じました。ラプトに関しては、神ではなく悪魔に仕える者であり、聖書を悪用して人々を惑わし、信者集めと金儲けに勤しむ偽預言者であることは「RAPTは偽預言者であり、サタン崇拝者です」等のミカエル氏のラプト関連の記事を読めば直ぐに分かりました。もうラプトのブログを一切見ることはなくなり、毎日ミカエル氏の記事と聖書を読みました。悪魔への恐怖心もいつしか消えていきました。真の聖書福音と預言に基づいた数々の記事を読んで、今までNWO支配層の中堅くらいにしか思っちょらんかったローマ教皇こそが、後に地上のすべてを支配する黙示録の獣であること、憲法改悪に伴う基本的人権の喪失・緊急事態条項の危険性、FEMA、キリストの再臨が太陽暦二千三十一年頃にあること等を知って、これらの真実がこれまで心に持ち続けちょった焦燥感と重なり、一刻も早く「兄弟の集いの場」に参加せないかんと思うようになりながらも、何日か二の足を踏んじょりました。「人との会話は苦手やし、今まで一度もネットの掲示板に投稿したことも交流したことも無い自分が参加して良いんやろうか、足手まといになるんやなかろうか」と思っちょりましたが、今思えばこの迷いは人に自分の欠点を知られたくない、指摘されて恥をかきたくないという自分本位な考えからくるものでした。某からしてみれば雲の上の存在で、裏表なくはっきりと言葉を放つミカエル氏の真っ直ぐさが少し怖かったのもありました。ミカエル氏の記事を読みながら逡巡しよる中、記事の投稿欄にあった教会員のカズ氏の名前が目に留まり、そこから彼のブログ「聖書の学びと教えの実践」を知り、その記事の一つである「キャンプから学ぶ」の投稿欄で彼から背中を押されました。こうしてミカエル氏にアメンバー申請をして承認を頂き、「兄弟の集いの場」に参加させて頂くようになりました。内気で臆病な自分が人の輪に飛び込めたのは、カズ氏の後押しがあったとはいえ今でも不思議に思います。一度決断した後はトントン拍子で、いつのまにか「兄弟の集いの場」にいたような感じでした。
この記事を読まれている方の中には、もしかすると「兄弟の集いの場」に参加することをためらっちょる方もいるかもしれませんが、はっきり言って迷いよる暇はありません。現在、コロナ茶番を悪用してNWOへの動きがこれまでにない程、強権的かつ急進的に世界中で進みよります。欧州と豪州が特に顕著ですが、日本も例外ではありません。新型コロナウィルスの存在は太陽暦二千二十年十二月三十一日現在も確認されておらず(たとえ存在したとしても風邪以下)、それを開発者でノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリス氏自身が、感染症診断に用いるべきではないと言ったPCR検査によって、陽性者とやらを大量生産(それでも例年のインフルエンザ感染者に比べれば遥かに少ない)し、それを支配層の手先である報道機関が連日連夜煽って恐怖の新型コロナウィルス像を作り上げ、政府の傀儡組織である日本医師会等の嘘つき集団がこちら(カナロコ)のように医療緊急事態宣言を発表して、更なる感染症対策を政府に促す役回りを演じよります(売国奴である殆どの議員どもも同様)。そもそもウィルスが病気の原因だと証明する証拠は何もありません。多くの人が信じて疑わない細菌理論が、毒でしかない薬やワクチンを売りつけて接種させるために支配層が用意した嘘である可能性が非常に高いんです。詳しくはこちら(字幕大王)、動画ではこちら(MEGA、字幕大王)をご視聴ください。そんな大嘘を元に、太陽暦二千二十一年二月下旬からこちら(日本経済新聞)にあるとおり、コロナワクチンの接種が日本でも始まる見透しになっちょります。日本政府とワクチン供給の契約をしちょる米国の製薬会社ファイザー社とモデルナ社の開発したワクチンは、こちら(さてはてメモ帳 Imagine & Think!)にあるとおり猛毒・遺伝子組み換えワクチンであり、接種からまだ間も無いのに多くの被害が出ちょります。こんな物が医療従事者、高齢者、基礎疾患持ちの人の順に接種されれば、確実に医療崩壊と多くの死者が出ます。それをコロナのせい(コロナが変異した等と言う)にして感染症対策と称した大衆への締め付けを更に強化するでしょう。ワクチン接種は今の所は強制やないので、これはミカエル氏の教えになりますが、「ワクチンは有害無益であることを知っている、その思想を持ち、そのような毒物を接種することを強要されるのは自らの良心に反する」(日本国憲法の第十九条、思想・良心の自由)(第二十条、信教の自由)と憲法を盾にしてワクチン接種を断れます。ただ、こちら(長周新聞)にあるとおり、日本政府は憲法改悪へ向けて動きよるので、憲法改悪と共に基本的人権が抹消され、ワクチン接種が強制化されると断れなくなります。また、遺伝子検査をしちょると、先述した日本経済新聞の記事内にあった、基礎疾患持ちの人を示す内容の「慢性の心臓病や腎臓病、呼吸器の病気、糖尿病、染色体異常や肥満のなりやすさ」もバレてしまいます。遺伝子検査・解析の世界最大手は米国のイルミナ社であり、その取引先は主に製薬会社や政府機関なので、遺伝子検査をしちょる人はワクチンを断るのが難しくなるように思います。PCR検査、抗原検査、最新の癌検査(サリバチェッカー)は遺伝子検査とやりよることが同じなので、コロナ陽性者や癌患者にされるのも含めて百害あって一利なしです。ワクチンを打つ医療従事者が減らされて、それに伴った医療崩壊が十分に演出出来たら、現在の注射器型ワクチンと違って保管と輸送が容易で、医療従事者の手を借りることなく自ら簡単にワクチン接種が出来るマイクロニードルワクチンが出てくると考えちょります。マイクロニードルワクチンとマイクロソフト関連会社の特許番号WO2020/060606の仮想通貨を用いた奴隷機構と電子刺青(レビ記 十九章二十八節にあるとおり、刺青は神の律法に背く行為)は密接に関係しちょります。詳しくはこちら(YouTube)とこちら(同時多発テロはヤラセだよ!)動画内の黙示録の獣の数字と獣の刻印の考察はサタンの誤誘導なので無視してください。獣の数字六百六十六が人間を指しちょることと黙示録十三章一~七節の内容を無視した私的解釈だからです。正しい解釈についてはミカエル氏の記事神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」をご覧ください。獣の売買制度を担う可能性のあるマイクロソフト関連会社のこの技術は与太話ではなく、ヤフーニュースにも取り上げられちょりました。こちら(Yahoo!ニュース)になります。決済大手のVISAもそれに関係する特許を申請しちょります。詳しくはこちら(Walk in the Spirit)。身体活動の把握については、米国のアップル社がiPhoneの健康管理アプリで個人の身体情報を把握する仕組みを作っちょります。詳しくはこちら(字幕大王)。ちなみにグーグル社も同様のことを行なっており、フェイスブック社は仮想通貨「リブラ」を作り、アマゾンはあらゆる物品を支配して管理しようとしよります。これらGAFA等の極一部の大企業がコロナ茶番で倒産・廃業した中小企業・個人商店を吸収しながら更に肥太り、連帯して将来の獣の支配制度を築きよるんです。そして、「ダボス会議」で知られる世界経済討論会(WEF)とロックフェラー財団が協力して、世界共通のデジタル証明書「コモンパス」を立ち上げちょります。詳しくはこちら(note)。記事内にあるとおり、コモンパスは外国へ渡航する際に必要なデジタル証明書であり、将来的にはワクチン接種状況も情報として追加するとしています。そして、日本での試験運用もまもなく開始するともあります。デジタル庁、個人番号制度(マイナンバー)、ベーシックインカム、デジタルの双子(デジタルツイン)、テクノクラシー、大きな再設定(グレート・リセット)等、ここではこれ以上深く掘り下げませんが、本当にこの世界はNWOに向けて大きく変わりよります。グーグル、ツイッター、フェイスブック、ユーチューブは言論の規制を益々厳しくしよりますし、このアメブロも記事への投稿文を送る際に検閲のようなものが入るようになりました。また、こちら(JBpress)にあるとおり、この真冬の中、支那で大停電が起きたそうです。送電線の故障とか電力制限政策とか書かれちょりますが、意図的なものでしょう。昨年の米国カリフォルニア州でも山火事防止と称して、計画停電を実施しよりました。太陽暦二千二十年十二月三十一日現在、日本は異様な寒波の影響で、各地で低温と大雪に見舞われちょりますが、こちらも停電や物流停止の恐れがあります。これらは寒さと飢餓による人口削減とコロナウィルス患者拡大を演出し、大規模なワクチン接種への流れを作るため・昨今のこうした異常(人工)気象を招いた既存の旧世界の限界を演出し、「大きな再設定」とその先の新世界秩序こそが人類と地球を救う唯一の道だとして進めていくために行われよると思います。こんな状況ではインターネットもいつまで利用出来るか分かりません。正に戦時中であり、我らの言論・移動の自由も命も危機に瀕しちょります。故に迷いよる暇は無いんです。
某は集いの場、現在は教会でお世話になっちょりますが、本当に数え切れない程の学びを頂きました。一年半程の短い時間ですが、これまで生きてきた中で最も濃密で価値ある時間やったと断言出来ます。確かに恥ずかしいことを言って後悔したり、某の欠点や間違いを指摘されて深く落ち込んだことも何度もありました。もう駄目かなと思ったこともありますが、常に兄弟姉妹の励ましや行いに刺激されて踏ん張ることが出来ました。ミカエル氏と兄弟姉妹が居なければ、とっくの昔に某は道を逸れて脱落しちょります。信仰を保つのも、成長するにも、兄弟姉妹との励まし合いは必要不可欠です。主イエスが新しい掟として、兄弟姉妹同士で互いに愛し合うように仰られたからです (ヨハネ福 十三章三十五~三十六節)。そして、成長のためには時間が必要です。某も未だに出来ちょらんことや気付いちょらん欠点や罪がまだまだあります。こうした個人の成長も、神との信頼関係の構築も時間がかかります。これも迷いよる時間が無い理由です。

コロナ茶番から世の欺瞞に気付いた人も、それ自体は良いことなんですが、聖書を読み、主イエスを知って最期まで信仰を守り通さなければ、結局は滅びます。世直しなんて不可能です。この世のほぼすべてを掌握するに至った支配層にどうやって大衆が立ち向かえるか。食料、燃料、電気、水道、医療、報道、教育、警察、軍隊、国家、通貨発行権等を奴らに抑えられ、これ程までにNWOの計画が進捗しちょる中で今からどうやってひっくり返すのか。殆どの者が金に目が眩んで良心を放棄して、支配層の犬になっちょるのに。殆どの大衆が深く洗脳されて、無知で無力な存在であるのに。国単位で支配層に逆らいよるのは白露西亜のルカシェンコ大統領と坦桑尼亜のジョン・マグフリ大統領くらいでしょうか。他にもいるかもしれませんが、極めて少数でしょう。ルカシェンコ大統領は国際通貨基金(IMF)の賄賂を受け取らず、検疫や隔離、ロックダウン等の支配層の計画を拒否した人物であり、また、こちら(Euro traveller)にあるとおり、白露西亜は犯罪が少なく、食品等の日用品を極めて安くする等の善政を彼は敷いちょります。故にNWO支配層からしてみれば邪魔であり、利比亜のかつての指導者カダフィ氏を独裁者としたように、ルカシェンコ大統領を「欧州最後の独裁者」と呼び、大統領選挙に不正があったと言いがかりをつけ、CIAとジョージ・ソロスが資金提供しちょる全米民主主義基金(NED)を使って、反対派を育成して抗議活動を起こし、白露西亜国内を混乱させよります。詳しくはこちら(マスコミに載らない海外記事)。ジョン・マグフリ大統領も大統領選で不正があったと言われちょりますがこちらも捏造やと思います。
利比亜がそうであったように、坦桑尼亜も一国だけではどうする事も出来ませんし、白露西亜は国内のガス管路を露西亜に買い取られてしまっちょります。白露西亜は元々資源に乏しい小国でもあるため、恐らくいずれはNWOに屈することになるかと思われます。国内の抗議活動が激化した時にルカシェンコ大統領は息子と共に戦闘服を着て、銃を持っちょったそうなので、戦って死ぬ覚悟を決めちょるんかもしれません。こうした散発的な反抗はあっても、NWO推進の流れは止まりません。なぜなら神がそのようにお定めになられたからです。

旧約聖書 ヨブ記 二十三章十三節 (新共同訳)
神がいったん定められたなら だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。

旧約聖書 イザヤ書 四十六章十節 (新共同訳)
わたしは初めから既に、先のことを告げまだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成りわたしは望むことをすべて実行する。

新約聖書 ルカによる福音書 二十四章四十四章 (新共同訳)
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

とあるとおり、必ず世はこれから悪化の一途を辿り、ヨハネの黙示録の預言のとおりに獣であるローマ教皇が地上を支配するかつてない程の大艱難時代が訪れます。それは終わりの時まで神の民を練り清め、純白にする為(ダニエル書 十一章三十五節参照)。マタイ 二十四章のとおり、疾病や飢饉や地震があり、民と民、国と国が敵対し、戦争も起こるでしょう。偽預言者が大勢現れて多くの人を惑わし、不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。しかし、最期まで堪え忍ぶ者は救われます。それほどの苦難を耐える力を与えてくださる方は誰か。救ってくださる方は誰か。それは主イエスただ御一人です。

新約聖書 使徒言行録 四章十二節 (拙訳)

「他の誰によっても、救いはありません。我らが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」


旧約聖書 申命記 八章三節途中から
(新共同訳)
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

新約聖書 マタイによる福音書 四章四節 (新共同訳)
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

某は今回過去を振り返って、やはり人間は聖書の、神の御言葉を知らなければ、主イエスに繋がっていなければ何一つ正しい道を歩むことは出来ないと改めて知りました。本当に迷ってばかりのガタガタ道で、主のお導きがなければ某はとうの昔に駄目になっていたことは、これまで読んでくださった方は良く分かると思います。そしてもう一つ気付いたことは、は人間の自由意思を尊重されちょることです。某が初めて聖書を手に取ったのは、他人から与えられたからでした。その時は何も実を結びませんでした。某が自発的に聖書を求めて学び始めた時から歩むべき道が用意されました。神は人間を型に嵌めて束縛されませんし、強制もされません。しかし、悪魔は違います。悪魔とその下僕であるNWO支配層は人間の自由意思を奪い、家畜以下の操り人形にしようとしちょります。先述した遺伝子組み換えワクチン、マイクロニードルワクチン、5Gでそれを行おうとしちょります。それは最早人間ではなく、そうなってしまえば、信仰を保つことはほぼ不可能になるでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十二章三十五節から三十六節途中 (拙訳)
すると、イエスは彼らに言われた。「まだ少しの間は、光はあんた方と共にある。闇があんた方を捕らえないように、光がある内に歩みなさい。暗闇の中を歩む者は、自分がどこへ行くかを知らない。あんた方は光の子らとなるために、光がある内に光を信じなさい。」

古代イスラエル人の末裔である日本人よ。自由がある内に、あんたにその心と命があるうちに、聖書を読んで光であられる神に立ち返りなさい。それしかこの世に希望は無いのですから。



最後に「『兄弟の集いの場』に関する告知 再掲」へのリンクを貼らせていただきます。こちらです。信仰の兄弟姉妹として共に歩みたい方は、必ず内容をよく読んで、ミカエル氏にアメンバー申請してください。



以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。