小説と未来 -130ページ目

8. 人の心を読む女

 

 水道橋駅、新宿行きのホームの長椅子に女は座っていた。


 女の名前は玲香(れいか)、本当の名前かどうかは分からない。響(ひびき)にはそう名乗った。


「それってナンパしているの?」と彼女はストレートに聞き返した。

 響は微笑んだ。

「ああ、ただ、初めてなんだ。なんて声を掛ければいいかわからなかった」

 玲香は妖艶(ようえん)な瞳で響を見つめていた。響はうまくいったのかどうなのかその事が気になって仕方なかった。

「かわいいわね」

 そう言われて、響は不服(ふふく)に思った。


 玲香

 年齢はだいたい24,5、しかしその落ち着いた態度から本当は30を少し越えているのかもしれない。

 顔だけ見ていると、彼女は響と同じくらい(20くらい)にしか見えない。

 彼女は派手な青い柄のワンピースを着ていた。海のうねりか、太平洋の天気予想図か、そんなよく

 わからない模様のミニのワンピース。下には何も穿(は)いていないかのような露出感があった。

 胸の谷間はくっきり見えて、白い美脚が太ももの上の方まで見えていた。


さらに今回の登場人物とここまでのおさらい


上野響(うえのひびき)

 この物語の主人公。麻薬の運び屋。年齢20歳。身長190cm、すらっとしたいい男。それでも見た目はあまり目立たない大学生風。彼の輝きは彼を知ろうとすると見えてくる。普段は気配を消している。それは彼が幼い頃学校へも通わず、家にかくまって暮らしていたためである。

 13歳の時に家出。まさという男に引き取られ、麻薬の運び屋に。そして昨年まさが殺され、一人で仕事を。まさを殺したのは、親玉である政治家の嶋咲枝(しまさきえ)。ひょんな事から響は嶋を殺せる(まさの敵討ちの)チャンスを与えられるが、失敗に終る。またいつもの運び屋の仕事に戻る。


式羽(しきば)

 上野で風俗店を経営している。まさが常連だったために響も知り合いに。いろいろと下(しも)の部分で響が世話になっている兄貴分。背は低いが、ホスト風のいい男である。


 数分前の事。

 響と式羽(しきば)=風俗店の店長は、総武線沿いをうろうろしていた。

「今日は時間ないんだよ」と、式羽は言った。

 その日、響はいつものように何か抑えきれないムラムラとした感情を持っていた。

 17時に響は、MAKE LOVE 1 HOLE(式羽の経営する店)の前で式羽を誘い、一緒にナンパをしに街へ出た。今時、街で声を掛ける男も少ないが、式羽は十年来このスタイルを変えていない。それでも女はしっかり引っかかる。

 響はいつも式羽の裏でスタンバる。

 しかしこの日の式羽は、風俗店に女が面接にやってくるそうで、早く戻らなくてはいけなかった。


 式羽の声;「おお、運がいい響、よかったなあ」

 響と式羽は御茶ノ水方面行きのホームから反対ホームを眺めていた。

あそこに女がいるだろう(玲香の事)」

 時間は18時。夜のお仕事じゃなければ、間違えなく、ただの暇なやりたい女だ。

 俺が声を掛けるまでもない。自分で声を掛けろ、いいな」

「式羽さん」

「大丈夫だって」

 響は久々にたじろいだ。が、式羽は次に来た電車に乗って戻っていてしまったため、仕方なく反対ホームへと一人で駆けて行った。



 そして、最初に戻る。どうなんだ。飯をおごるから」

 玲香は響のその言葉ににこっと笑い 「いいわ」と応えた


 二人は水道橋の駅をそのまま出て、東京ドームとは反対側の道を歩き、途中にあるこじんまりしたダイニングバーに入った。

 お互いにほとんど会話はなかった。料理と酒の名前、それが好きか嫌いかという話だけした。

 酒が出てきたらグビグビと飲み、料理が出てきたら黙々と食べた。


 3,40分程度で二人はその店を出て、さらに歩いていったところにあったビジネスホテルに自然と入っていた。

そしてダブルの部屋に行き、玲香は服を脱いだ。「シャワーを浴びさせて」響が近づくと、玲香はそう言った。


 その後で二人は抱き合った。響は玲香を強く抱きしめ、玲香も響を強く抱きしめた。激しく口付けをし合い、一気に熱を増し、そのまま行き着くところまでいった。激しく短時間の求め合いだった。

 響の熱は20時前にはすっかり治まっていた。早い流れの出来事だった。


 ベッドの上で二人は終った後の余韻に浸っていた。

 玲香は響のへその周りをくるくると指でくすぐっていた。響は玲香の不思議な指の動きをただ眺めていた。


玲香:「本当に初めてなの?(ナンパね)」


  響:「いや、一人では初めてだ」


玲香:「彼女はいないの?」


 響:「いない」


玲香:「うそ!いないふりをしている。

    あなたの周りにはたくさんの女の子がいるのにあなたはその気持ちに応えようとしていないだけ


 響:「そうだとしても、彼女はいない


玲香:「あなたは何を隠しているの?」


 響は玲香の顔を見つめた。

警察?組織のもの?記者?恨みのある者?』

 響は逆に玲香の顔から彼女の正体を勘繰(かんぐ)ってみようとしたが、彼女の顔は響が想像する的に当てはまらることはなかった。

君は何の仕事をしているんだい?」

 響は一度だけ寝る女に、かつてそんな質問を投げかけたことは一度もなかった。それは響が初めてする女への質問だった。

 そんな質問をすれば余計な事を聞き返される。まさか自分が麻薬の運び屋だとは答えられない。余計な嘘をつくのも面倒なだけだ。だからなるべく関わらない。それが普段の響だった。だけど、その時に限っては別だった。


玲香:「ただのOLよ」


  響:「それはつまらない質問をしたな。そんな事は聞くべきじゃなかった」


玲香:「そうね。つまらない質問ね。聞くのなら、もう少し別の事を聞いて欲しいわ。

    私の質問にも答えていないのに


  響:「隠し事なんて、誰だっていくらでもあるだろう?」


玲香:「それはそうね。でもあなたはもっといろいろ深い何かを持っている。私にはそれが覗けない


  響:「覗けない?」


玲香:「そう、覗けない。私は意外と人の顔を見るだけでいろいろなことがわかるの

    その人の周囲の環境仕事、家族構成、その人の人間性。

    私は気の晴れない日にはいろいろな男に抱かれるの。

    出会い系とかじゃなくて、ちゃんと会ってその人の顔を見て決めるの


  響:「君を誘ったのは、俺の方だぜ


玲香:「あなたじゃなくても、誰かがどこかで私を誘ったわ

    自慢じゃないけど、私はいくらでも男を誘えるのよ。

     私はそうやって気に入った男にだけ抱かれるの。そしてその男を知るの。

    お金のある いい男、それから一度きりでもう二度と求めてこない男、

    私はいつもそういう男を求めているの

    あなたもその2つには当てはまっているはずよ

    でもたいていの男は、何処かの社長だったり、金持ちの小僧だったり、

    IT関係で稼いだ男だったりするの。でもあなたはそのどれとも違う。

     そういう男は家族環境もたいていマザコンに近いような男よ。

    でもあなたには親の匂いがしない。一人っ子っていうのは当たってる?」


  響:「もし当たってても、どっちでもいいだろ?」


玲香:「ええ、どっちでも構わないわ。ただ、私は人の事がわかる。そしてあなたの心も分かる

    あなたには好きな女性がいる。本当はその女の子を幸せにしてあげたい。

    でもあなたは何かのためにそれを避けている。そうでしょ?」


 響は何も答えなかった。全て当たっていた。

 響はさくらという女の子を好んでいる。そしてその子の事を本当は愛したい。でも運び屋というどうしようもない自分と、まっとうな仕事(さくらは神主(かんぬし)の孫娘で、いわば巫女(みこ)さんである)をしてる彼女とでは到底つり合わない。女を抱く事に抵抗はないが、響にとってさくらは特別な存在、唯一心より惚れている女性なのだ。

 だからむしろ、響は何も答えたくなかった。


 玲香は続けた。

「私は思うの。あなたは幸せを掴める可能性を持っているんじゃないかな?でもあなたは普通じゃない。だから私にはこれ以上何も言えないわ。一つだけ言うのなら、あなたは今まで会ったどんな男より興味深い男ね」

響は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、玲香を睨(にら)んだ。

 玲香は微笑んでいた。

「そんな怖い顔しないでよ」

 そしてずっと臍(へそ)の周りをクルクル指で撫でていた

 落ち着かない感情が響を包んだ。響は再び玲香に覆いかぶさった。形のいい、大きな乳房が揺れた。響はそいつを弄(もてあそ)び、おもいっきり先に吸い付いた。玲香は甘い吐息を上げた。

「ちょっとお、いきなり…」

 それから二度目に突入した。


『おまえはただの女だ。俺がナンパした女だ。偉そうに上から者を言うな!』

 響は心の中でそう叫んでいた。そしてその女を支配するように、響は玲香のたわわな体を嘗め回した。

 その全てに響は満足していった。

『俺の気持ちに触れようなどと、この女!』

 よくわからない苛立ちが響にはこみ上げていた。そしてその思いの全てを性欲に替え、玲香を抱きしめた。

『ただの女だ』

 さくらと彼女とに一線を置こうとしていたのだろう。響は玲香をただの女としたかった。

 そのただの女が人間味を持つ事が許せなかった。だから響は激しく、激しく、玲香を女にしていった。

 支配してやろうとした。『俺はただ、落ち着かない感情を抑えたいだけなんだ』

 その感情の全てが治まるまで、その激しい肉欲(にくよく)の行為は続いた。


 運び屋の仕事まではまだ数日ある。1ヶ月に一度程度のその仕事に全神経を集中する。

 だから今は全てを忘れていたい。性欲も食欲も全ての欲望をむき出しにして、その日その時に余計なものに誘われないようにしている。金を楽して稼ぐにはそれなりの力が必要なのだ。響はその事に自信を持っている。だから全ての欲望を吐き出す行為を肯定している。その日のために。


9話へ続く

7. 響の仕事

  

 五十嵐邸の失敗から、数日が過ぎていていた。


 響は毎日に近いペースで通っていた居酒屋『ふくちゃん』にさえ行かなくなり、毎日を家で一人の時間を過ごしていた。


 今はソファーに寄りかかり、グラスに注いだスミノフをツマミも取らずにロックで飲んでいた。この数日間、ただ酒を飲むだけの毎日が続いている。


 一丁の拳銃がガラステーブルの上に置かれたままになっている。殻になったビールの空き瓶の横にドテッと置かれている。


 嶋殺しを指示した斉藤は五十嵐邸での失敗以後は現れていない。単純に、ミスした響を使う事を諦めただけなのか、今は様子見でやって来ないのか、響は頭を巡らせるがその答えはまだ出てこない。どこか別の適材でも探しているのだろうと、決めて落ち着きたい気持ちにはなっているが。


『10万円も、拳銃も、斉藤にとってはどうでもいい代物。金はおそらく大量にあって、可能な限り、嶋を殺すための金を使っている。可能性の一端として俺に任せ、試みてみたが失敗に終った。もう俺は用無しとなった。いちいち俺を消すのも余計な手間だ。だから斉藤は俺の前から何も言わずに姿を消した』

と考えて、響は斉藤の事を忘れることにした。



 斉藤の替わりに響の住処を訪れたのは、木崎(きざき)だった。

 木崎は、響に麻薬の受け取り場所を指示する男だ。背が高く、無口。少し響に似ているが、木崎は30過ぎくらいで、体もがっちりしている。背広を着ていてわからないが、彼の体はプロレスラー並みの鋼の肉体を持っている。がたいのいい男だ。

 木崎はいつものように、無口。少し周りを気にしながら響の隠れ家(マンションの裏口を地下に下りていったところにある一室)に入ってきた。


 響は拳銃を机の中にしまいこみ、木崎を迎え入れた。

 木崎はいつもと変わらず、一枚の指示書と50万の束が入った封筒、その半分の金が入った封筒を響に渡した。指示書は麻薬の受け取り場所と日時が書かれていて、50万の束は響のもの、その半分の物は麻薬を運んできた別の男に渡す金だ。

 麻薬そのものの金は裏口座で取引されている。彼ら(裏組織の者たち)には裏口座どころか隠し銀行も持っている。だから金のやり取りはそこで行われる。響のような末端の仕事をしている人間にはその銀行に入らせないよう、現金でやり取りが行われるわけだ。

 銀行だけでなく、彼ら(裏組織の者たち)は金でない物のやり取りも上手い。一目では金になるのかならないのかわからない物も取引に使っている。彼らはそういう点に関しては最も抜け目なくやり取りを行う。


『じゃあ、よろしく』とだけ言って、いつもならすぐに立ち去る木崎だが、その日はめずらしく一杯のビールを望んできた。

「すまんが、むしむしとしていてねえ、喉が渇いて仕方ない」

 木崎は真面目にそう願った。響は冷蔵庫からバドの缶ビールを木崎に渡した。木崎はそいつを空けると、グビグビと一気に飲み干した。


木崎:「すまんな」


 響:「いえ結構ですよ」


木崎:「助かったよ。じゃあな」


 ど太い声でそれだけ告げると、木崎は大きな図体を悠々と動かし、玄関の外へと出て行った。

会話はそれだけだった。


 響はいつもと違う木崎の行動を疑ったが、去ってゆく木崎を見て意味のない行為だとその疑いを振り払った。

 嶋殺害に関する件。

『単純に喉が渇いていただけだな』と認める。

 木崎は周りを気にする様子もなかった。周りを気にするタイプの男である事を、過去の木崎の行動から響の知識として得ていた。

 響と違い、運び屋にはあまり向かない男、ただ信用はおける真面目な男だ。だから嶋の直属なのだしかし響は木崎が何も聞かされていないだけなのか、嶋自体が気づいていないのか、まではわからず決して不安を払拭するには到らなかった。

 この指示書に罠が隠されているのかを思えば、響は少し不安を感じた。でも響は落ち着いていた。

『きっとまたいつもの繰り返しに戻るだろう』

と思うと同時に、また変わらない日々が続く事に気を重くした。

『俺の人生は変わらない。気に入らない女の下で永遠と裏の仕事を続けてゆく。豚箱に入れられない自信はある。死ぬ事はない』

 響の勘は働く。だが今のままの毎日を裏切る事を望んでいる心も、彼にはある。その感情が響を揺らす。その虚しさが響の心を荒ませている。

 どうしようもなく行き所のないような日々が、響は大きな溜息をつかせた。


                               


 麻薬の取引をする指定の日までにはまだ一週間ほどの猶予ある。響はしばらくのんびりと過ごす事とした。


8話へ続く。

6. 五十嵐邸

  

 さて、物語は再び、上野 響(うえの ひびき)にを主人公とした物語に戻る。


 予定当日、大物女政治家嶋咲枝(しま さきえ)を殺すチャンスを与えられた日となった。


 上野響(20歳、職業麻薬の運び屋、背の高い、いい男)は通称まさ(育ての親)を、嶋咲枝に殺されたと勘ぐる(かんぐる)。嶋咲枝に死んでほしいと願う輩(やから)は数多くいるが、斉藤という謎のサラリーマン風の男が、上野響に嶋咲枝暗殺依頼にやってきた。響は拳銃とある予定地の紙切れ、10万を渡され、嶋咲枝殺しに、五十嵐邸までやってきた。五十嵐は、嶋咲枝が好む画家で、嶋咲枝は彼に投資をしている。


 五十嵐邸は山霊園墓地のすぐ側にこじんまりと佇んでいた。響にはどこにでもありそうな家のように見えた。


 16時に下調べをしていた。その時、響は五十嵐の表札をちらりと確認しただけで通り過ぎて、再び時間が来るのを近くの喫茶店で待っていた。


 五十嵐邸ではパーティーが催される事になっていた。開催時間は18時~20時だ。パーティーの内容は、五十嵐卓人(いがらしたくと)の絵画展開催記念パーティーである。


出席者は8名


五十嵐卓人(39)=当人。

嶋咲枝(40)=響が恨みを持つ大物女性政治家で、五十嵐の絵を好み投資する女

片岡(30代)=嶋咲枝から情報をもらい、投資に成功している若手投資家。

         金と女にしか興味のなさそうに見える、いけ好かない雰囲気をかもし出す男である。


皇子原(おおじはら・27歳)=どこかの御曹司(おんぞうし)。片岡と同じく投資家である。

                  金持ちの子らしくお坊ちゃまだ。片岡と同じく人に好かれるようなタイプではない。


西山(50くらい)=髭をはやし、頭の禿げたおっさん。

           近くの資産家で、気に入った絵のためならいくらでも払う。

           これまたいやらしい顔つきのおじさんだ。


大崎(35)=嶋の秘書を務めている女。頭脳明晰(ずのうめいせき)だが、面倒事を大いに嫌う。

        今日はしかたなく付いてきているといった顔をしている。


大池(28)=ただの絵画好き。嶋咲枝の昔の部下で、今はただの主婦である。

        今回は嶋に同席させてもらった。この中ではまだ心落ち着く人だ。


 後一人は、嶋はこの日のために呼び寄せた、近くで創作懐石料理店を営む、髭の生えたシェフだ。


 パーティーにしてはざっと言い並べられるほどの人数しかいない。

 それは主催者である嶋のためだった。実際の出展パーティーは別途行われるが、そこに嶋が出席するとあまりに大きな騒ぎとなるため、五十嵐は嶋のために別途パーティーを五十嵐家で開催する事を持ちかけた。

 嶋は少々困ったが、その方が都合がよかったのでその事を承諾した。結果としては、いけ好かない面子(メンツ)ばかりが集まってしまい、つまらないパーティーとなりそうであったが、人の好い五十嵐は快く彼らを迎え入れていた。


 五十嵐邸は小さな一軒家だ。

 青山墓地のすぐ脇、左右も民家に囲まれていて、東側の板塀(いたべい)を潜ったところに玄関がある。


 間取りは次の通り。

 玄関を入ると、左手がトイレになっていて、正面に客間となる10畳ほどの部屋が覗ける。正面手前から廊下が右手に広がっていて、左側から脱衣所、風呂場、物置となっている。10畳の客間の右隣は同じく10畳ほどのリビングがあり、その奥には2階へ上る階段がある。廊下の一番奥はキッチンになっていて方角では西側となる。

 2階は個人用の部屋が3部屋ある。一部屋は亡くなった父親の部屋で開いていて、真ん中が五十嵐卓人の部屋、奥は居候する五十嵐の叔父の孫息子が間借りしている。


 パーティーは10畳の客間で行われ、ここで簡単な会食が行われている。

 客間からの南側から庭に出られるようになっている。庭は塀に覆われているが、外から覗き見ることができるくらいの低い塀だ。

 響の狙い目はここにあった客間から庭に出てくる嶋を狙う。それが響とそれを指示する斉藤の思惑(おもわく)だった。


 しかし、運の悪い事にその日は雨が降っていた嶋が部屋の外に出てくる確率はだいぶ低くなってしまっていた。しかもどしゃぶりの大雨だ。

 窓もしっかり閉められていた。塀の外から客間を何となく窺う事はできるが、ガラス越しで狙いを定めるのはさらに難しい状況になっていた。

 響は霊園墓地に隠れ、時機(じき)を窺(うかが)っていた。

 雨は全ての悪要因(あくよういん)となるわけではない。雨のおかげで、人通りは皆無(かいむ)に等しかったし、響自身も傘を差して自分の容姿を自然と隠す事ができていた。

 唯一のチャンスは、運よく嶋が部屋の外に顔を出してくれることだけだった。


 時間は着々と過ぎていった。パーティーの終盤の方がむしろ狙い目だと、響は感じていた。

 帰る前に雨を確認する。その瞬間が一番の好機(こうき)だと響は想像していた。

 時間は着々と過ぎていった。もうすぐ午後8時を迎えようとしていた。響は薄汚いショルダーバッグに潜めていたリボルバーを手に取った。弾はすでに充填(じゅうてん)済みだった。後は安全装置をはずし、引き金を引くだけだ。

 しかし予想しない予感が響の脳裏によぎっていた。それは、どこかに誰かがいる、という感覚だ。そしてその感覚は決してただの予感ではない。響の勘は間違いのないものだった。

 響の勘はこういった時に確かに働く麻薬運びに捕まることなくも無事にこなしてこれた経験は伊達じゃない。響と別れた後にドジって、捜査官に追い回される運び屋を響は幾人か知っている。彼にとっては間抜け極まりない事にしか思えなかったが、常人(じょうにん)ならその程度のものだ。彼は特別に勘がいいのだ。

 自覚はないようだが、それは特殊な彼の能力なのである。

 何者かが五十嵐邸の玄関付近にいるようだった。それほどの距離ではないのだが、姿をかくまっている響は下手に顔が上げられずにいた。その何者かは五十嵐邸に興味を示していた。

 隣の家でも、奥の家でもなく、紛れ(まぎれ)もなく五十嵐邸を見つめていた。


 そんな事に気を取られていた瞬間、客間の窓が開いた。チャンスは今しかない

 顔を覗かせたのは五十嵐卓人だった。

「まだ降ってますねえ」

 響の耳には、よくは聞こえなかったが、五十嵐はそう言ったようだった。そして窓の隙間、五十嵐の向こう側に、嶋咲枝が顔を覗かせていた。テレビ以外で見る嶋咲枝はほとんど初めてに近かった。

 はかつてまさと一緒にいたのを見た事がある。響はその女の顔を確かに憶えていた。それはテレビの顔より、その時の顔に似ていた。

 チャンスはほんの少しの隙間にあった。射程距離は7m、ぎりぎりのところだ。それより何より五十嵐の姿があまりに邪魔をしている

 雨の音が様々な音を掻き消してくれている。思い切って飛び出し、塀際から狙えば3mの射程距離、的中率はかなりの確率になる。でもそこには謎の男がいる。部屋にはまだ何人かいる。

 チャンスは今をおいてはないだろう。もうすぐ嶋咲枝は車を呼び寄せ、家に帰るだろう。


 しかし、響は墓地の袖から姿を出す事ができなかった

 むしろ響は墓地の方へと逃げるように走っていった。自分でもなぜそんな行動をしたのか、響にはわからなかった。しかしいずれにしても狙いは定まりそうになかった。


 嶋咲枝を殺せるチャンスはきわめて薄かった。無我夢中で立ち向かえば殺す事もできるだろう。しかし響には自分を犠牲にしてまでやろうという準備はなかった。彼は着実に嶋咲枝を葬る事しか考えていなかった。そして今日はそのチャンスに乏しかった。


『チャンスは再び訪れるだろうか?斉藤は俺のミスを許すだろうか?』


 現実的な不安が響の心によぎった。

 霊園の中で響は黒傘を差し、拳銃を手にして突っ立っていた。

 奇妙な光景だった。墓場は、眠る人々が誰の死にも至らなかったことに安心しているかのようにひっそりと優しい雰囲気に包まれていた。


『やらずに済んだんだ』


 響にはそういった安堵感も訪れていた。

 それはやれなかっただけだが、するな!と、誰かが言っているようでもあった。響は不思議な心の落ち着きを感じ始めた。張り詰めていた空気が一気に緩和されてしまった。


『もう、チャンスはないのかもしれない』


 最後に響は再びそう思った。

 次の時があるように感じられなかった。この後どうなるかもわからなかった。響は考える事は止めた。向かう場所もなく、元に戻る気もおきず、響は拳銃をかばんに仕舞いこみ、外苑前駅があると思われる方へと帰っていった。


『もう終りにしよう』


 そう感じていた。



ここまでが第1章である。話は混沌としたまま、まだ先へ続く。

5. 女性大物政治家について

ここでは、今まで物語の主要人物とされながら、未だ名も語られていない女性大物政治家についての紹介をしよう。


女性大物政治家


嶋 咲枝(しま さきえ)  40歳  独身


 2003年衆議院選に初当


 2005年衆議院選に2度目の当選、その後、経済産業省を中心に活躍の場を広げる。



 彼女の生い立ち;


 大手電機メーカーの上層部である父親の次女として生まれる。


 幼い頃からおとなしい少女で、友達はほとんどいなかった。


 成績は優秀で、本ばかりを読んでいる少女であった。


 いじめなどに遭うこともなかったが、近寄り難い存在として周りの同級生からは距離を置かれていた。


 都内某有名私立大学経済学部に進学後も彼女は変わらない生活を送った。この頃独り暮らしを始めたが、同棲生活なども見られず、サークルに参加するような事もなかった。

 彼女は本を読んで、勉学に励む生活を送り続けていた。


 1989年、嶋咲枝は大手のメーカーに就職が決まった。そしてそこから人生が一転する。

 元来の父親譲りの有能な力が発揮されたといえばそれまでかもしれないが、彼女はまだ女性蔑視(じょせいべっし)の強い時代の中でスーパーキャリアウーマンとして立派な経歴を重ねてゆく。


 その話を始める前に、彼女が大学を卒業する数ヶ月前に起きた、不幸な出来事の話をしよう。

それは彼女の姉、由里佳(ゆりか)とその夫の中下 丈(なかした じょう)が難病により亡くなってしまったという出来事である。

 由里佳と中下は大学の同じサークルで知り合い、大学を卒業したその年の9月に結婚した。それから2年の生活の後に二人は亡くなってしまった。

 表向きは難病となっていたが、咲枝の聞いた噂話ではそれは性病の一種によるものだったということであった。そのため、その死はあまり表沙汰にならないように密葬として終った。


 嶋咲枝の人生は不思議とそこから一転した。


 彼女の仕事姿勢は、極めて単純明快で理に適っていた。彼女は数多くの、彼女を尊敬する後輩や彼女に惚れこむ男たちに囲まれるようになった。その反面、当然彼女をよく思わない者たちもいた。

 彼女は仕事においてはとても有能であったが、彼女の素顔を知る者は誰もいなかった。趣味、男関係を知るものも誰もおらず、その頃の嶋咲枝は仕事や同僚の幸運的出来事に笑顔を浮かべる事はあっても、心から何かを楽しんで笑うようなそぶりを見せることはないような女性だった。だから、中には彼女の人間らしさのなさに気持ちをよくしない者も多くいた。


 さらに彼女の人生が一転したのは、彼女の父親の紹介によるものだった。


 30を過ぎても結婚の相手が見えない娘を案じて、見合い目的にある政治関係の男と引き合わせた。もちろん最初はそのつもりであったのだが、話はなぜが政治の事で盛り上がり、あまりに政治に関して詳しい嶋に見合い相手の男は別の意味で惚れこんでしまった。

 機運な事にその年、政治界である大物政治家の汚職問題が発覚した。問題がうやむやのまま、その政治家が議員を辞職する事で決着がついたが、一つ空席ができてしまった

 クリーンなイメージを打ち出したい与党は様々な方面から次期候補を探そうとしたが、ほとんどが官僚上がりでこの人物こそという者は見当たらなかった。そこに出てきたのが、嶋咲枝であった。

 見合い相手であった男が嶋を紹介するや否や上層部は承諾し、彼女を政治に担ぎ出した。そして2003年の選挙で、彼女は圧倒的に有利とされていた野党の議員に辛勝して政治の座に着いたのだった。



 五十嵐 卓人(いがらし たくと)について


 さて、ここからは五十嵐 卓人という人物について紹介しよう。この人物は、嶋咲枝殺害のために斉藤が選んだパーティーの主賓となる人物である。


 五十嵐 卓人(いがらし たくと) 39歳 独身


 五十嵐の父は大手証券会社のエリートサラリーマンであった。

 卓人はその一人息子として何不自由なく育った。

 母親は芸大出身で、その影響もあり、卓人は画家の道を選択することとなった。


 五十嵐の父親は会社を定年してまもなく、脳梗塞によりこの世を去ってしまった。

 卓人の母親は長年の夢であった、パリへの移住を決定し、学生時代の友人たちとパリで暮らし始めた。


 五十嵐卓人はその後も青山にある実家で暮らしていた。

 しかし2004年の冬、母親に呼ばれ、パリへと向かった。それは絵画展への出展の持ちかけだった。


 2004年春、パリでフランス国際絵画展が開かれた。

 五十嵐はその中に母親のコネとして、その年に書いた唯一の自信作である『水色の光景』を出展して、ブースで時を送っていた。


『水色の光景』:セーヌ川に佇む一人の少年を描いた水彩画である。

          少年のどことなく物悲しい表情が、人々の心を誘う一作



 一人の日本人が彼の絵を熱心に見ていた。

 この女こそが、たまたまその絵画展に招待された嶋咲枝だった。

「ご旅行ですか?」

と、五十嵐は日本人と思われる咲枝に声を掛けた。

 咲枝はクスクスと笑い答えた。

「いえ、本日は招待で伺(うかが)わせていただきました」

 咲枝はその頃、すでに日本で話題の女性となっていたので、私の事がわからないの?といった態度で、五十嵐にそう答えた。


五十嵐:「ああ、これは失礼しました。来賓(らいひん)の方でしたとは。

      すみません、どうも私、世の中に疎い(うとい)ものでして」


 そうテレながら答える五十嵐に咲枝は再びクスクスと笑った。それは全くといっていいくらい見たことのない咲枝の自然な笑顔だった。


 嶋咲枝はしばらくの間、『水色の光景』をじっくり眺めてから口を開いた。

「素敵な絵ですね。きっと、この作品はすぐに話題となるでしょう。そしてきっとあなたは成功しますよ」


五十嵐:「ありがとうございます。でもいかがでしょうか。

      お褒め頂き、こんな事をいうのも何なのですが、私はまだ一枚の絵を売った事もないのです。

      今回はあそこにいる母親のコネでやっと展示してもらう事ができただけなんです。

      画家とも言えない。日本に暮らしている、いわゆるニートっていやつですか?

      私の絵なんて、それほどの評価得る事はありませんよ」


 咲枝はもう一度クスクスと笑い答えた。

「評価は、出展して、人の目に触れるようになってから、もらうものです。

今までのあなたはまだその場にも立っていなかったのですから、ここからがスタートですよ。

私はきっとこの絵があなたの人生を変える第一歩になると思いますよ」


 五十嵐はそんな咲枝の回答に笑顔を浮かべた。


 そしてその咲枝の言葉通り、五十嵐の『水色の光景』はパリの厳しい目をした絵画ファンを唸(うな)らせた。

 彼の作品は一躍脚光を浴び、その情報は日本の絵画好きの耳にまで届いていた。

 いくつかの新聞社もその事は取り上げた。五十嵐の母親は、パリの絵画コレクターに『水色の光景』を25万程度の代金で売り、それが始めての五十嵐の作品となった。


 五十嵐は日本に帰って来ると、何人かの投資家に声を掛けられた。絵画展やギャラリーを開かないかという話だ。しかし、五十嵐はその良き話の全てをことごとく断った。


「私にはあの作品しかありませんでした。あとは全て到底人前に見せられるような作品ではありません」


 投資家はそんなのは謙遜(けんそん)だと、五十嵐を何度か説得しようとしたが、結局のところ五十嵐は投資家に古い作品を見せることはなかった。やがて五十嵐が脚光を浴びた話は、数ヵ月後には何事もなかったかのようにすっかり消え去ってしまった。



 嶋咲枝のその後。


 嶋咲枝は政治家になって以後、様々な仕事に取り組んだ。

 マスコミは彼女の美貌(びぼう)を取り上げ、「新恋人発覚」だの「代議員様は嶋の香水にメロメロ」だの、あってもなくてもどうでもいい噂話ばかりを取り上げた。世の中にはその方が受けがいいからである。


 その分、嶋は見えないところで仕事を続ける事ができた。

 彼女は議員となるなり、泥臭い仕事もすんなり引き受けた。普通は善悪に迷うような出来事も、彼女は顔色一つ変えることなくこなしてみせた。

 警視庁上層部との取引、暴力団との提携、大手企業との談合、優良投資家への情報漏えい(ろうえい)。ばれれば一発で逮捕となるような出来事を恐れもなく引き受け、彼女はそつなくこなした。

 議員の中では彼女を仮面の女と罵(ののし)る者も数多くいた。


 彼女をよく思わない者も数多くいたが、すでに彼女はあらゆる世界の上層部を味方につけ、守られる立場になっていた。

 嶋咲枝の仕事は理に適っていて、無駄なく得のする話が多い。彼女と付き合えば損はしない。すぐにそんな噂は広まり、彼女の周りには常にたくさんの取り巻きがやってきて、彼女は守られていった。

 彼女が相手にするのはその内の一部にしか過ぎないが、トップの世界で彼女はすでに幸運の女神として知られていた。



 五十嵐との再会は今から半年前の事だった。


 彼はここ4年で急ピッチに15作の作品を仕上げていた。世の中にはもっと描く画家はたくさんいるだろうが、彼にとってはかなり急ピッチな行動だった。

 五十嵐に逢うなり、嶋は五十嵐に展示会を開くよう勧めた。五十嵐はそのときも断ろうとしたが、嶋咲枝のいうことのなら、信じてみようと思った。


 そして展示会が決まった。

 6月22日、展示会決定のパーティーが五十嵐邸で催された。

 響が嶋咲枝を殺害しようとしているのは、そんな日の事だった(1・4を参照)。


本編へ続く。

4. 始動開始

  

 もう夏は近いというのに、冷たい雨の降る夜だった。


上野響(うえのひびき)、20歳、職業麻薬の運び屋、普段の居所は上野界隈(かいわい)。

現在育ての親まささんの仇を討つ(かたきをうつ)チャンスに恵まれ、次の指示を待っている。

仕事は月1しかないので、普段は上野の「ふくちゃん」という居酒屋に入り浸って(いりびたって)暇を潰している。

居酒屋の常連客とは仲がいい。


 響は今日も時間をもてあまし居酒屋「ふくちゃん」で時間を潰した。


 冷たい雨のせいか、金曜の夜だというのに客入りはいまいちで、数人のサラリーマンと、歌い人2.ふくちゃんの店を参照)しかいなかった。その日、歌い人は、ゆずの「雨と泪」をギターを奏でながら、熱唱していた。


 そんなバックサウンドに包まれて、響はふくちゃんのである女子高生の由佳(ゆか)他愛のない談笑をしながら、暇つぶしの時間を送った。


他愛のない談笑


由佳:「今年は新しい水着を買おうと思うの。響さんは、どういうのがいいと思います?」


 響:「ああ、まあ、かわいらしければ」


由佳:「わたし、でも、海はべたつくから好きじゃないの。どちらかというと、プールが好きなの。

    スポーツクラブとかじゃなくて、回るプールとかある」


 響:「ああ、よくわからないなあ」


由佳:「ねえ、よかったら今度一緒に行きませんかo(〃^▽^〃)oんん、あの、特別な意味はないけど、

    一度行ってみるといいですよ」


 響:「ああ、そうだね」


由佳:「ええ、じゃあ、考えておきますね。もうプール開きとかしたのかなあ。まだ早いか、梅雨だし。

    やっぱしワンピースにしようかなあ」


なんて、会話が前後永遠と2時間近く続いた。


 結局、その日はそんなまま、響はお愛想(あいそ)して家に帰った。



 雨の中、いつもの家に帰ると、裏口が開いていた。鍵を掛けたはずの扉は開かれていた。響は状況の変化が確かである事を理解し、その先に何者かがいる事を予想した。

 軽く深呼吸をして、酔いを醒ますようにしてから、開いている扉の先へと体を入れた。


 響が想像していた何者かは扉を入ってすぐの地下階段を下りたところで息を潜(ひそ)めていた。


 サラリーマン風のその男は、響の気配を消した動きにも、すぐに気づき、闇の中で白い歯を煌(きらめ)かせた。

「いや、悪いとは思ったのだが、なかなか帰ってこないんでねえ、外は雨で、ドブネズミと一緒に過ごすのも気分が引けたんで、中に入らせてもらったよ。といってもここまでだったがね」


 男はその奥にあるドアノブをガチャガチャ回し、ガンガン前後に振りながら、鍵が掛かっていることを響に確認させた。(地下の階段を下ったところにはもう一つの入口がある)

「頑丈なこっちの扉だねえ。ここはなかなか開かなくてねえ。よく出来た鍵だよ。そこらの鍵屋じゃスペアーキーも作ってもらえない。本当は中で待ちたかったんだね」


 響は階段をコツコツと一番下まで下り、そのサラリーマン風の男をどかして、部屋の鍵を開けた。

 そして部屋の明かりを付け、男を招き入れた。

 響は二人掛けのソファーのど真ん中に腰を下ろし、疲れのままに深々と腰掛けた。

 男は入口の付近に突っ立っていた。


 明かりの当たるところで、男は本当にただのサラリーマンに見えた。有楽町の駅に行けばいつでも会えそうだった。髪の毛は程よい長さで、ムースで手入れされている。顔は細身で、体も細身、スーツは薄青いストライプが入った紺色のシングルで、少しオシャレな物を売っている営業マンにしか見えない。

 でも事実は異なる。の男は、ある女政治家を響に殺させようとしているのだ。まっとうな人間ではない。警察は誰も気づかないだろう。彼の見た目は極めてまともなのだ。響にまっとうな人間に見えるほど、実は悪人なのだ。という事を響はいくつも経験から感じさせられていた。

 本当の悪人は私は悪人ですという格好をしない。何かを企んで生きている奴らは必ずそういう格好をして、世の中で生きている。


 そのサラリーマン風の男、呼び名が長いので、ここからは彼の名称を斉藤とする。普通な感じだ。

 彼は自分を斉藤と名乗る。でも実際に彼の本当の名前ではないかもしれない。本当は御手洗(みたらい)かもしれないし、鴨志田(かもしだ)かもしれない。でもそれでは目立ちすぎるのだ。だから彼は斉藤と名乗っているのかもしれない。すぐに忘れてしまっても、間違えてもあまり問題のない名前だ。特に全国の斉藤さんがつまらない名前と言っているわけではないのだが、ここでは全国の斉藤さんにご了承願いたい。


 斉藤は言う。

「落ち着いたみたいですね」


 響はドキッとした。

 確かに彼の言葉通り、響は数日前より落ち着いていた。しかしなぜ斉藤が自分の心の変化を読み取れるのか、理解はできなかった。


斉藤:「それはそうですよ。これから人を殺そうというんだ。

    普通はまともであれるはずがない。

    どんな人間でも、興奮なり、苛立ちなり、矛盾なり感じるはずだ。

    正常な人間ならそうでしょう?」


 斉藤は響の心を捕えていた。そしてその捕らえ処(とらえどころ)に間違えは感じられなかった。響は動揺しないようにして特に返事をしなかった。


 斉藤は響に近づいた。響はちらりと斉藤の方を見やった。

 一枚の封筒を斉藤は胸の内ポケットから取り出し、響の座るソファーの背もたれに置いた。


斉藤:「今日はこれだけの用(よう)でね」


 それだけだった。

 現実ではなかったように、斉藤は響にそう告げると去り、消えてしまった。玄関の扉はすでに閉じていた。斉藤は本当にいなかったように消えてしまった。

 ただ一枚の封筒だけがそこにその男が来たという現実を残していた。


 響は立ち上がり、封筒を手にした。さほど厚いものではなかったが、そこには札束が入っている事が、指先の感触で得られた。


 玄関に内鍵をし、それから響はその封筒の袖を開いた。中には予想通り、10万ほどの金が入っていたそれと一枚のA4用紙が同封されていた。



 A4用紙


 場所;五十嵐邸


 日付;6月22日


 時刻;18時~20時


 催事;五十嵐卓人(いがらしたくと)の絵画展開催記念パーティー

                                          』

 そこには五十嵐邸の間取り図(まとりず)=(どこが狙いどころかも書いてある)と五十嵐邸への行き方が書かれた地図が載っていた。


 響は了承した。

『ここへ行けばいい。すればあの女を殺せる。あの偽善に溢れた女を撃ち殺す事が出来る。脳みそを一発でぶち抜いてしまうのはもったいないが、仕方ない。何しろ大物政治家だ。簡単にやれるチャンスはない』


 興奮は増していた。

『今夜は眠れそうにない』


 響は冷蔵庫に行き、そこからハイネケンの缶ビールを取り出し、タブを引っ張った。そして口に注ぐ。固まりそうな脳にさらりとしたアルコールで溶かし込んでゆく。

『明日、明後日…』


 それから何も考えないようにした。ソファーにドタリと再び腰掛け、目を瞑った。眠れそうにはない。

『でも時だけは過ぎてゆくだろう。そして時は訪れる事だろう』


 待ち遠しいのか、来て欲しくないのか、響の脳は再び落ち着きを失っていった。

『それでも答えは、時間の過ぎた先にしかない』

 響をしっかりとその事だけを理解して時が訪れるのを待っていた。


第5話へ続く