6. 五十嵐邸 | 小説と未来

6. 五十嵐邸

  

 さて、物語は再び、上野 響(うえの ひびき)にを主人公とした物語に戻る。


 予定当日、大物女政治家嶋咲枝(しま さきえ)を殺すチャンスを与えられた日となった。


 上野響(20歳、職業麻薬の運び屋、背の高い、いい男)は通称まさ(育ての親)を、嶋咲枝に殺されたと勘ぐる(かんぐる)。嶋咲枝に死んでほしいと願う輩(やから)は数多くいるが、斉藤という謎のサラリーマン風の男が、上野響に嶋咲枝暗殺依頼にやってきた。響は拳銃とある予定地の紙切れ、10万を渡され、嶋咲枝殺しに、五十嵐邸までやってきた。五十嵐は、嶋咲枝が好む画家で、嶋咲枝は彼に投資をしている。


 五十嵐邸は山霊園墓地のすぐ側にこじんまりと佇んでいた。響にはどこにでもありそうな家のように見えた。


 16時に下調べをしていた。その時、響は五十嵐の表札をちらりと確認しただけで通り過ぎて、再び時間が来るのを近くの喫茶店で待っていた。


 五十嵐邸ではパーティーが催される事になっていた。開催時間は18時~20時だ。パーティーの内容は、五十嵐卓人(いがらしたくと)の絵画展開催記念パーティーである。


出席者は8名


五十嵐卓人(39)=当人。

嶋咲枝(40)=響が恨みを持つ大物女性政治家で、五十嵐の絵を好み投資する女

片岡(30代)=嶋咲枝から情報をもらい、投資に成功している若手投資家。

         金と女にしか興味のなさそうに見える、いけ好かない雰囲気をかもし出す男である。


皇子原(おおじはら・27歳)=どこかの御曹司(おんぞうし)。片岡と同じく投資家である。

                  金持ちの子らしくお坊ちゃまだ。片岡と同じく人に好かれるようなタイプではない。


西山(50くらい)=髭をはやし、頭の禿げたおっさん。

           近くの資産家で、気に入った絵のためならいくらでも払う。

           これまたいやらしい顔つきのおじさんだ。


大崎(35)=嶋の秘書を務めている女。頭脳明晰(ずのうめいせき)だが、面倒事を大いに嫌う。

        今日はしかたなく付いてきているといった顔をしている。


大池(28)=ただの絵画好き。嶋咲枝の昔の部下で、今はただの主婦である。

        今回は嶋に同席させてもらった。この中ではまだ心落ち着く人だ。


 後一人は、嶋はこの日のために呼び寄せた、近くで創作懐石料理店を営む、髭の生えたシェフだ。


 パーティーにしてはざっと言い並べられるほどの人数しかいない。

 それは主催者である嶋のためだった。実際の出展パーティーは別途行われるが、そこに嶋が出席するとあまりに大きな騒ぎとなるため、五十嵐は嶋のために別途パーティーを五十嵐家で開催する事を持ちかけた。

 嶋は少々困ったが、その方が都合がよかったのでその事を承諾した。結果としては、いけ好かない面子(メンツ)ばかりが集まってしまい、つまらないパーティーとなりそうであったが、人の好い五十嵐は快く彼らを迎え入れていた。


 五十嵐邸は小さな一軒家だ。

 青山墓地のすぐ脇、左右も民家に囲まれていて、東側の板塀(いたべい)を潜ったところに玄関がある。


 間取りは次の通り。

 玄関を入ると、左手がトイレになっていて、正面に客間となる10畳ほどの部屋が覗ける。正面手前から廊下が右手に広がっていて、左側から脱衣所、風呂場、物置となっている。10畳の客間の右隣は同じく10畳ほどのリビングがあり、その奥には2階へ上る階段がある。廊下の一番奥はキッチンになっていて方角では西側となる。

 2階は個人用の部屋が3部屋ある。一部屋は亡くなった父親の部屋で開いていて、真ん中が五十嵐卓人の部屋、奥は居候する五十嵐の叔父の孫息子が間借りしている。


 パーティーは10畳の客間で行われ、ここで簡単な会食が行われている。

 客間からの南側から庭に出られるようになっている。庭は塀に覆われているが、外から覗き見ることができるくらいの低い塀だ。

 響の狙い目はここにあった客間から庭に出てくる嶋を狙う。それが響とそれを指示する斉藤の思惑(おもわく)だった。


 しかし、運の悪い事にその日は雨が降っていた嶋が部屋の外に出てくる確率はだいぶ低くなってしまっていた。しかもどしゃぶりの大雨だ。

 窓もしっかり閉められていた。塀の外から客間を何となく窺う事はできるが、ガラス越しで狙いを定めるのはさらに難しい状況になっていた。

 響は霊園墓地に隠れ、時機(じき)を窺(うかが)っていた。

 雨は全ての悪要因(あくよういん)となるわけではない。雨のおかげで、人通りは皆無(かいむ)に等しかったし、響自身も傘を差して自分の容姿を自然と隠す事ができていた。

 唯一のチャンスは、運よく嶋が部屋の外に顔を出してくれることだけだった。


 時間は着々と過ぎていった。パーティーの終盤の方がむしろ狙い目だと、響は感じていた。

 帰る前に雨を確認する。その瞬間が一番の好機(こうき)だと響は想像していた。

 時間は着々と過ぎていった。もうすぐ午後8時を迎えようとしていた。響は薄汚いショルダーバッグに潜めていたリボルバーを手に取った。弾はすでに充填(じゅうてん)済みだった。後は安全装置をはずし、引き金を引くだけだ。

 しかし予想しない予感が響の脳裏によぎっていた。それは、どこかに誰かがいる、という感覚だ。そしてその感覚は決してただの予感ではない。響の勘は間違いのないものだった。

 響の勘はこういった時に確かに働く麻薬運びに捕まることなくも無事にこなしてこれた経験は伊達じゃない。響と別れた後にドジって、捜査官に追い回される運び屋を響は幾人か知っている。彼にとっては間抜け極まりない事にしか思えなかったが、常人(じょうにん)ならその程度のものだ。彼は特別に勘がいいのだ。

 自覚はないようだが、それは特殊な彼の能力なのである。

 何者かが五十嵐邸の玄関付近にいるようだった。それほどの距離ではないのだが、姿をかくまっている響は下手に顔が上げられずにいた。その何者かは五十嵐邸に興味を示していた。

 隣の家でも、奥の家でもなく、紛れ(まぎれ)もなく五十嵐邸を見つめていた。


 そんな事に気を取られていた瞬間、客間の窓が開いた。チャンスは今しかない

 顔を覗かせたのは五十嵐卓人だった。

「まだ降ってますねえ」

 響の耳には、よくは聞こえなかったが、五十嵐はそう言ったようだった。そして窓の隙間、五十嵐の向こう側に、嶋咲枝が顔を覗かせていた。テレビ以外で見る嶋咲枝はほとんど初めてに近かった。

 はかつてまさと一緒にいたのを見た事がある。響はその女の顔を確かに憶えていた。それはテレビの顔より、その時の顔に似ていた。

 チャンスはほんの少しの隙間にあった。射程距離は7m、ぎりぎりのところだ。それより何より五十嵐の姿があまりに邪魔をしている

 雨の音が様々な音を掻き消してくれている。思い切って飛び出し、塀際から狙えば3mの射程距離、的中率はかなりの確率になる。でもそこには謎の男がいる。部屋にはまだ何人かいる。

 チャンスは今をおいてはないだろう。もうすぐ嶋咲枝は車を呼び寄せ、家に帰るだろう。


 しかし、響は墓地の袖から姿を出す事ができなかった

 むしろ響は墓地の方へと逃げるように走っていった。自分でもなぜそんな行動をしたのか、響にはわからなかった。しかしいずれにしても狙いは定まりそうになかった。


 嶋咲枝を殺せるチャンスはきわめて薄かった。無我夢中で立ち向かえば殺す事もできるだろう。しかし響には自分を犠牲にしてまでやろうという準備はなかった。彼は着実に嶋咲枝を葬る事しか考えていなかった。そして今日はそのチャンスに乏しかった。


『チャンスは再び訪れるだろうか?斉藤は俺のミスを許すだろうか?』


 現実的な不安が響の心によぎった。

 霊園の中で響は黒傘を差し、拳銃を手にして突っ立っていた。

 奇妙な光景だった。墓場は、眠る人々が誰の死にも至らなかったことに安心しているかのようにひっそりと優しい雰囲気に包まれていた。


『やらずに済んだんだ』


 響にはそういった安堵感も訪れていた。

 それはやれなかっただけだが、するな!と、誰かが言っているようでもあった。響は不思議な心の落ち着きを感じ始めた。張り詰めていた空気が一気に緩和されてしまった。


『もう、チャンスはないのかもしれない』


 最後に響は再びそう思った。

 次の時があるように感じられなかった。この後どうなるかもわからなかった。響は考える事は止めた。向かう場所もなく、元に戻る気もおきず、響は拳銃をかばんに仕舞いこみ、外苑前駅があると思われる方へと帰っていった。


『もう終りにしよう』


 そう感じていた。



ここまでが第1章である。話は混沌としたまま、まだ先へ続く。