小説と未来 -127ページ目

20.帰れる場所がある

 響が居酒屋『ふくちゃん』で飲んでいると、式羽(しきば)が話しかけてきた。


 式羽は風俗店経営者である。以前、響とナンパに出かける話で出てきた。

 まずは居酒屋『ふくちゃん』での話になる。


式羽 :「どうなの?久々だな。最近元気?」


 響 :「まあ、それなり」


式羽 :「そう?それなり?どうなの?あっちは?いっとく?」


 ちょっとうざかった。


 響 :「いや、いいよ」


式羽 :「んん、なんて、ホントはたまってるんでしょ?なんか雰囲気出てるよ」


 ホントにうざいと思った。


  響 :「いや」


式羽 :「何、自分でこいてんの?いつも?コキコキ?」


 嫌な笑顔だ。

  響 :「そんなんじゃねえよ」


式羽 :「たまってんでしょ?それとも作った?これ」そう言って、式羽は小指を立てる。

     「あ、やっちゃった。さくらちゃん」


 響 :「んなわけねえだろ!」


式羽 :「ああ(納得)、じゃあ、由佳ちゃん(ふくちゃんの娘=女子高生)の方と?」


  響 :「んんなわけねえだろ!しねえよ!」


 他愛のない会話だ。イライラしていたが、響は思わず笑顔になってしまった。

 和みの時間だ。



 そんな日々がしばらく続いた。

 翌日も居酒屋『ふくちゃん』へと飲みに行き、かんさんと話した。話したというか、ほとんど説教だった。

 そして、さくらが迎えに来て、一緒にかんさんを家まで送り届けた。


かんさん:「何か変わったか?」


  響  :「特になにも」


かんさん:「そうか、つまらんな」


 さくら :「おじいちゃん!」


 はさくらの顔をちらっと見る。

 可愛い。久々にじっと見たら、やはり可愛い。響はちょっとでれっとする。さくらもその視線を感じたのか、若干照れているようだった。響の中に至らない想像が広がる。

 あんな事やこんな事、そしてそんな事まで( ̄ー ̄)。


かんさん:「おい!聞いてんのか、響!


  響  :「は!」『何を考えているんだ、俺は』


 さくらがくすくすと笑っていた。


 かんさんを送り届けて、まっすぐ家に帰ると、木崎が響の事を待っていた。

 響は木崎を家の中に入れた。前回の嶋咲枝殺害未遂の時に車で別れて以来だったからとても重苦しい空気になった。


「今日は仕事じゃない。話がある。このマンションの管理人から聞いたんだが、最近変な奴がマンションの前をうろちょろしているそうだ。何を探ってるのかわからんが、まあ気をつけろって話だ」

 響にはその人物に覚えがあった。まさの事を探っている馬込(まごめ)警部補だ。ここ1週間はあっていないが、まだうろちょろしていたのかと、響は思い返した。

 でも響は彼の存在を知っている事については木崎に黙っておくこととした。

「それから、俺はおまえを許してここにいるわけじゃない。仕事だから仕方なくここに来た。あの方(嶋咲枝=ボス)はおまえなんて大したことないと思っているのだろう。おまえなんかに自分が殺(や)られるわけがないという自信がおありなんだろう。あの方がそう思うのならそうだろう。おまえごときにあの方が殺(や)られるわけがない。だがな、あの方の身を守るのが俺の仕事だ。あの方が危険に晒(さら)される要因があるのなら、俺は排除したい」

 エアコンの効いていない地下の一室は熱気で満ちていた。どうなろうというのか、危険な静寂(せいじゃく)が訪れて、響は体の筋肉を強張(こわば)らせた。

「だがな、俺はあの方の部下としておまえを勝手に消す事はできないその言葉に危機は回避される。次に何かしてみろ!その時は、ただじゃ済まないと思え。手加減はないしだ。確実におまえを仕留めてやる。それだけは覚えておけ」

 木崎はとても饒舌(じょうぜつ)にそこまで話し尽くした。響が木崎に初めて会ってから、この数年間でもっとも長く話した気がした。



 1週間は瞬く間に過ぎていった。

 響は木崎の言葉に関係なく、彼が帰った後の日も、いかにして嶋咲枝を殺害するかを考えていた。

 ガラステーブルの上に2枚の紙を並べてみた。一枚先日会った前野正というフリーライターの名刺、もう一枚は嶋咲枝殺しの依頼人斉藤に渡された携帯電話番号が書かれたメモ紙だ。響は拳銃を木崎に奪われた事を少なからず気にしていた。斉藤にどう説明すればいいかを考えると、斉藤に合わせる顔がなかった。会わないだけでなく、できればもう彼にはもう2度と会いたくなかった。報酬(ほうしゅう)等はどうでもよく、響はただ嶋咲枝が殺せれさえできればそれでよかった。斉藤にはもう会いたくなかった。

 もう一方の紙、前野正の名刺だ。しかし彼に電話したところでいったい何が生まれるのかは想像つかない。結局いい案は浮かんできそうになかった。


 長い間、ぼぅっと過ごしていた。いつもの事だが、いつもよりも長い退屈な時間だった。

 響は先日、かんさんと飲んだときに言われた説教の言葉を思い返していた。

誰かに何かをどんなに望んでも、期待に応えてくれる者などはいない。神でさえどんなに祈りを捧(ささ)げても願いを叶(かな)えてくれはしない。相手に期待などするな。ただ自分がそうしたいと望むだけ望めばいい。相手は期待に応えてはくれぬだろう。そこにはたくさんのがあるたくさんのだが、得られるもある。期待はするな。ただ望むように、やりたいようにやる事だけだ」

 長い説教の中の一節(いっせつ)にしか過ぎなかったが、その一節は不思議と響の脳に残っていた。

 どうしたいのか?その事を黙想(もくそう)する。答えはすぐには出てきてくれそうにない。


20話終了。

第1章~第4章までの目次




第1章 主人公に起こる、始まりの出来事と人物紹介


1.ある男

  主人公=上野響に殺しの依頼をする男が訪れる


2.ふくちゃんの店

  主人公=上野響がよく行く居酒屋と店の常連客の紹介

3.ナンパ

  主人公=上野響と、ふくちゃんの常連客=式羽(しきば)が渋谷でナンパする話

4.始動開始

  主人公=上野響に、殺しの依頼をする斉藤(さいとう)が情報を持って再登場する

5.大物女政治家について

  殺しの標的=嶋咲枝(しまさきえ)と、画家=五十嵐卓人(いがらしたくと)の過去話

6.五十嵐邸

  主人公=上野響が、五十嵐邸で嶋咲枝殺害を実行する



第2章 主人公の日常


7.響の仕事

  主人公=上野響 本来の仕事=麻薬の運びを木崎(きざき)から受ける

8.人の心を読む女

  主人公=上野響が、人の心を読む女=玲香(れいか)をナンパする話

9.巫女

  主人公=上野響が愛する女 美坂(みさか)さくらの家族に関する話

10.かんとさくら

  ふくちゃんの常連客=かんさんを、その孫娘=美坂さくらと、響が家へ送る

11.仕事の日

  主人公=上野響が麻薬の運び屋としての仕事をする

12.まさの命日(めいにち)

  主人公=上野響の育ての親であるまさが死んだ日、響はまさの墓を訪れる



第3章 主人公の再始動から一つの結末まで


13.人の心を読む女再び

  人の心を読む女=玲香が再び、上野響と出会う話

14.再依頼

  殺しの依頼主=斉藤が再度、上野響の下を訪れる

15.意外な来客

  馬込(まごめ)警部補=まさを追う男が、響のマンションに現れる

16.見えない未来は曖昧のままに

  居酒屋ふくちゃんの常連=歌い人の話、射撃訓練所に上野響が行く話

17.時はいつものように流れる

  上野響のいつもの仕事と、上野響がボスと会う約束を木崎にする話

18-1.約束の日 前半

  主人公=上野響と、ボス=殺しの標的=嶋咲枝が初対面する

18-2.約束の日 後半

  主人公=上野響が標的=嶋咲枝を撃ち殺そうとする



第4章 物語の真相に迫る話と新たな展開


19.五十嵐邸にいた男

 五十嵐邸にいた男=前野正と上野響が出会う

20.帰れる場所がある

  主人公=上野響が居酒屋ふくちゃんに帰る。木崎が上野響のマンションにやってくる

21.意外な場所で

  居酒屋『ふくちゃん』で、上野響と馬込警部補が飲む話

22.涼の誕生

  主人公=上野響こと田山涼の生まれた日の話

23.日暮里スーパー爆破事件

  日暮里のスーパーで起こった爆破事件の話=物語の主要人物が関わる過去の話

24.若手旋斗(わかてせんと)との対面

  主人公=上野響が、歌い人=柏木守に連れられて、若手旋斗の下を訪れる

19. 五十嵐邸にいた男

第4章のスタート


嶋咲枝(しまさきえ)の殺害を試(こころ)みた上野響(うえのひびき)は五十嵐邸の時に引き続き、また失敗に終わってしまった。しかも今回のミスで、嶋咲枝に自分の心の内を完全に読み取られてしまい、もう3度目はないだろうという状況に追い込まれしまった。

響は途方にくれる。本来なら自分が殺されてもおかしくない状況だが、嶋は響を生かした。それは結局、生殺しにされた状態、響はただの運び屋として、嶋の下でずっと働いていくことにしかならないことを感じ取る。

まさの仇(かたき)を打てなかっただけでなく、嶋咲枝殺害の失敗はそういった結果をもたらすことになった。行き場を失った響は途方(とほう)に暮れていた。


捨てられた犬だけ、誰もいない公園。


 数分前、響は木崎(嶋咲枝の部下)に送られ、その場で降ろされた。降ろされたというよりは降りた感じだ。なぜなら木崎はいっさい口を開かなかった。彼の煮え切らない気持ちが響にも伝わっていた。木崎はただ黙って、ホテルを出ると、適当な住宅街に入り、人気のないその路上に車を停車した。何も言わずに響が降りることを待っていた。響はそれを感じ取り、何も言わず車を降りた。ドアを閉めると、木崎は響の方を振り返る事もなく、去っていってしまった。


 捨てられた犬を見つめる。犬は一瞬響の方を見返したが、すぐに目を逸(そ)らした。帰らない主人を待っているようだった。


 響の心情

  心が痛かった。あまりに痛かった。恥ずかしかった。情けなかった。

  どうしようもない感情が込上げてきていた。

  五十嵐邸(第6話)とは比べ物にならない虚(むな)しさがあった。

  いまだ冷めやらぬ興奮もあった。震えていた。恐れていた。

  寂しかった。様々な感情が止め処なく交互に押し寄せた。

  何も考えられなかった。何も覚えていなかった。

  本当は思い出せるが、殺害失敗の記憶を全て消そうと脳が足掻(あが)いていた。

  忘れたかった。忘れてしまいたかった。

 『いったい何なんだ。いったい何なんだ。いったい何なんだ。いったい何なんだ』

  頭の中はそう繰り返していた。何度も何度もやってくる感情に答えを探ろうとしていた。

  答えを求めようとしていた。でも何も答えはなかった。

  冷静さを求めると、何もなくなっていた。

 『いつもの日々に戻るだけだ』

  本当はここからも自由に逃げ出せる気がした。

  全てを捨てれば自由になれる気がした。でもその先が見えなかった。

 『いつもの日々に戻るだけだ』


 東京都内でも一歩住宅地に入り込めばとても静かだ。

 蝉の鳴く声が聞こえていた。『夏だな』と響は思った。


 遠くに人がいた。響はその人がこちらを見ている事を感じ取った。そっちを見返した。

 そいつは遠くからスタスタと近寄ってきた。若干小柄なワイシャツを着た若い男だ。


「すみません。先ほど、嶋咲枝さんのボディーガードの方と一緒でしたよね。嶋咲枝さんとはお知り合いですか?それから、僕、あなたを青山の五十嵐さんというお宅の傍で見かけた気がするんですよ」

 近くで見ると、男は小柄で、少々小太りだった。目がやけにニヤニヤしていた。

「だとしたら?」と響は答えた。

「いやあ、だとしたら嬉しいな。僕ね、前野正(まえのただし)というんですが、フリーライターをやってます。それでこの数年間ずっと嶋咲枝さんを追っかけてまして。今日もこの辺りで見失ってしまったんですが、近くのコンビニでボーっとしてましたら、たまたま嶋咲枝さんのベンツを見かけまして、それで追ってきたらあなたが車から降りるのを見まして。まあこんな身分なんで、直接はお会いできないので、周りの知り合いの方に声を掛けているんですよ」


 響 :「俺は知らないな。さっきの人(木崎)とは昔世話になった人の知り合いで、

    彼がたまたま俺を見て、車に乗せてくれただけさ」


前 野:「そうなんですか。ホントに?」


 響 :「それだけ。…、ただ、あの政治家(嶋咲枝)には少し興味があるな」


前 野:「そうですか!それはそれは。嶋咲枝さんはとても特別なオーラがありますよね。

     僕もあれにやられてしまったんですよ。とても興味深い色々な事がありまして」


 響 :「たとえば?」


前 野:「そうですね。たとえばあの方は芸術に興味がおありで、そういった方面には

    かなり力を入れているんですよね。僕はこのあいだ五十嵐卓人画伯の展示会に行きました。

    彼は嶋咲枝さんのお気に入りの画家でして、とても素晴らしい絵を描きます。

    この間の展示会も『春空の女』という作品がとても好評でした。

    僕はあの女の絵を見た瞬間、嶋咲枝さんが浮かびました。彼は彼女を描いたのじゃないかと。

    笑顔の下の悲しそうな顔、その下にまた笑顔があって、その下はまた悲しそうな顔、

    その表情が何重にも塗り重ねられたような女の絵なんですが、その表情に嶋咲枝さんを

    思い出させるんですよね。追いかけている僕にしかわからないかもしれませんが」


 響は黙っていたが、少しだけ頷いてみせた。


前 野:「少々、話が逸れましたね。五十嵐画伯でなく、嶋咲枝さんの話でしたね。

    彼女は他にも、孤児院(こじいん)を周ったり、小中学校で講演したり、

    子供たちの未来を考えた活動をしているみたいなんです。

    それから、貧しい低所得層の若者の労働条件改善にも力を注いでいるみたいです。

    とにかく若い才能に興味があって、そういった方面に全力を注いでいるんです。

    政治のしがらみとかは関係なく、そういった活動を続ける彼女に僕は惹(ひ)かれるですよ」


 響 :「具体的じゃないな」


前 野:「そうですね。彼女が周った孤児院の人に何度か話を聞いたことがあるのですが、

    彼女は施設の方の意見を真剣に聞き取り、何かを始めようとしているみたいです。

    それから、人材派遣や紹介会社にも出入りしていて、若者向けの企業を起こしやすくする

    法案を考えているみたいです。これもあまり具体性がありませんがね」


 響 :「まあ、なるほどね」


前 野:「ですがね、僕が興味を持っているのは彼女が何をしようとしているかという点よりも

    彼女がどうしてそういう点に力を注ぐかという点なんですよ。世間はあの方の美貌に、

    色気だのなんだの言って、そういった話ばかり取り上げますが、あれは色気とかじゃなく、

    オーラなんですよ。僕は彼女の持つオーラの基(もと)が知りたいんです。

    なかなかそこに辿り着けませんが」


 響 :「オーラ、彼女の基、そんなものはもともとないんじゃないかな?」


前 野:「何でそんな事を?」


 響 :「いや、そういう考えも一理(いちり)あると」


前 野:「まあ、それはそれで意見として聞いておきましょう。

    それで、あなたは本当に嶋咲枝さんとは未関係で?

    五十嵐さんの家でも見たような。僕は一度見た人はほとんど忘れないんですよね。

    そのくらいしか取り柄(とりえ)がないけど」


 響 :「五十嵐?それは勘違いでしょ。俺はあの政治家とは今のところ何の関係もないよ


前 野:「今のところ、ねえ」


 前野はズボンのポケットから一枚の名刺を取り出した。

あなたにも少し興味が湧きました。『今のところ』じゃなくなりましたらご連絡ください

 響はにやりと笑って、それを受け取った。

「まあ、金のない貧乏人ですが、ネタを求めてまた走り回るだけですよ。じゃあよろしく」

 前野はそう言い残して、響の前から立ち去っていった。


 何かがふと覚めた。土砂降り(どしゃぶり)の後のような静けさが訪れていた。

『今夜の事は何もかも忘れよう』

 響は心の内でそう呟(つぶや)いた。名刺を見た。『前野正』

 可能性はまた別のところから湧いてくるかもしれない。響はその予感に賭ける事とした。


 捨てられた犬はいなくなっていた。

 そして何の答えもない道を、またいつもの家へと帰っていった。

 ずっと歩いて帰っていった。


20話へ続く。

18(-2). 約束の日 後半

18-1より続き。


 目を瞑(つむ)り、時が来るのを待っていた。

 じっと静かにその時が来るのを待っていた。


 シャワーの音だけが続いていた。

 シベリウスの音楽もすでに止まっていた。

 他には何も聞こえない静かな場所だった。


 自分の呼吸する音と心臓の音だけが響いていた。


 シャワーの音が鳴り止んだ。


 響はリボルバーのロックを解除する。

 引き金に手をかけ、銃を構える。


 何日か前に、斉藤といった射撃訓練所の事を思い出す。

 自分はそこにいる。

 射撃の的(まと)が現れたら、そのど真ん中、心臓部を狙って撃てばいい。

 ただそれだけだ。


 視界は銃口の先へと定まってゆく。

 ゆっくりと呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

『いかに冷静であれるかだ。ただそれだけ。それだけあればいい』

 斉藤のそう言った言葉が聞こえてくる。

 そうそれだけだ。


 バスルームのガラス扉が開いた。

 バスローブを身にまとった嶋咲枝の姿が現れる。

 標的はそこにある。


 引き金を引くだけの指先はまだ動かなかった。


 響の目には微笑む嶋咲枝の顔が映っていた。

 とても嬉しそうに、彼女は笑みを浮かべていた。

 銃口をつき付けられているのに、彼女は笑顔だった。


 不気味だった。だから響は固まっていた。

 メドゥーサの瞳を見つめているようだった。


「それで、わたしをどうしようというの?」と、嶋咲枝は響に尋ねた。

「まささんの仇(かたき)」響は声を絞(しぼ)り出して、そう答えた。


 嶋はバスローブの紐(ひも)をするりと解いてみせた。

 40歳とは思えないスタイルのいい裸体を響に見せる。

「いいじゃない。ほらね、ここが左胸よ」

 咲枝はバスローブを脱ぎ捨て、むき出しの体で、左の乳房を左手で持ち上げ、心臓の辺りを右手の指先で擦(さす)った。

「さあ、ここよ」


 響は大きな生唾を飲み込んだ。

「あんたは…」と、響が言いかけたところで、咲枝は答える。

あの男は、わたしが殺したの。そうよ。その通り。裸で抱き合って、くだらない会話をした後に、面倒になって殺したの。信用がなくなったの。それで殺しちゃったのよ。刃物で彼の首を刺して、掻き切ったの。『氷の微笑のシャロンストーン』みたいに、刺して、刺して、刺しきったの。酷く血が溢れて飛び散ったわ。もう二度とあんな真似はしたくないわ。処理するのも大変だった。嫌な気分だったわ。あなたはどうする?わたしを撃ち殺す?処理するのは大変よ。でもどうでもいいのよね。あなたは守りたい地位も何もないから、処理も何も必要ない。わたしを殺す。それで満足なんでしょ?たったそれだけで。さあ、撃って。ここが胸よ

 咲枝は妖艶(ようえん)な声で、響を誘う。


 まさが嶋咲枝に刺し殺されるイメージが響の脳裏に過(よ)ぎる。同時に強面(こわおもて)ながらも、優しく微笑むまさの姿が浮かぶ。いくつかのまさの思い出が浮かんでは消えてゆく。


「さあ、ここよ!」

 咲枝は強い声でそう叫んだ。

 衝動と共に、響は引き金を引いていた。弾丸はまっすぐ飛んだ。貫通し、後ろの壁にめり込んだ。


 大きな衝撃音の後にはとてつもない静寂(せいじゃく)が辺りを包んでいた。

 耳鳴りがしていた。サイレンサーをしていても音は辺りにもれていた。


 嶋咲枝は立っていた。立ったままだった。

 彼女の体を貫通はしていなかった。体は綺麗な肌色を保っていて、どこも赤く染まっていなかった。

 弾丸は乳房を持つ左手と、左腕を張った左肘の間、つまりは左脇の間を見事に通過していった。


「どうしたの?どこを狙っているの?」と、咲枝は言った。

 彼女は不思議と悲しそうな顔をしていた。


 部屋のドアが開いて、誰かが駆け寄ってくる足音がした。

 すぐに響は後ろから強い力で抑えつけられた。強く叩かれた手は拳銃を手放して、地面に押し倒されていた。

 嶋咲枝はバスローブを身に纏(まと)った。


 響が振り向くと、そこには木崎のでかい顔があった。木崎は響の腕が折れるくらい強い力で腕を固めていた。

「てめえ!なにしてんだ!こら!ぶっころすぞ!」

 木崎のでかい怒鳴り声に、響は何も言えなかった。ただ本気で腕が痛かった。

「先生、大丈夫ですか?」と今度は優しい声を木崎は咲枝に投げかけた。

「そうね、ちょっとびっくりしたけど、大丈夫よ」

「こいつ、どうしましょう?」

 咲枝は少し考えて、首を捻る。

「そうね、とりあえず、内々に処理して。外に音は響いたかしら?銃の音」

「それほどではないかと思いますが、同じ階には何らかの音が伝わったかと。ですが、内々に何とか処理しておきます。それで、こいつはどうします?どこかに捨てますか?」

 咲枝は首を振る。

「いいのよ。大丈夫よ。ちょっと若すぎたのよ。考え方が少し甘かったの。外へ連れて行って、頭を冷やさせて、家に帰しなさい。別に大した事じゃないわ」

「しかし、先生。こいつは先生を」

「大丈夫。大丈夫よ」

 響もあまりにも意外な答えに声を失った。まるで釈迦の掌の上にいるかのようだった。響は木崎に銃を取り上げられ、腕を引っ張られながら、立ち上げられた。

「さあ、来い!」

 そしてそのまま、部屋を連れ出された。

「これ以上変な真似はするな」

 部屋を出てそう言われ、響を掴まれていた腕を放たれた。



「どうかしましたか?」と、エレベーターの前でガードマンが尋ねた。

「いや、ボールが破裂しまして、先生も変な事ばかりするものでね」

「はあ、そうですか」とガードマンは不思議そうな目をする。

「それではどうも」と、木崎はガードマンに挨拶して、エレベーターに乗り込んだ。

 響は何も言わず、木崎の後を付いていった。

 ガードマンの敬礼する姿が見え、エレベーターのドアは閉ざされた。


第3章終。

18(-1). 約束の日 前半

 木崎と会ったのは19時30分だった。

 待ち合わせ場所の路上に立っていると、10分後に木崎はベンツでやってきて、そしてタクシーのように停まり、を拾っていった。

 2時間近く、車は走り続けた。ただ車は遠くへ行くわけではなく、池袋、新宿、六本木、品川の辺りを何度か行ったり来たりしているようだった。



 今、上野響は自分の育ての親であるまさを殺したとされる女、嶋咲枝に復讐を企(くわだ)てている。同じく彼女を敵とする、斉藤の助けにより、もらった一度目のチャンスは失敗に終わったが、二度目のチャンスが早いタイミングで訪れていた。大物政治家であり、自分の仕事(麻薬の運び屋)のボスである嶋咲枝に会えるチャンスがやってきている。



 22時、木崎は誰かと連絡を取り、六本木か麻布あたりにある大きなホテルへと車のまま入っていった。

 裏の駐車場にベンツを停め、車を降りた。ホテルの正面から中へ入ろうとすると若いホテルマンの男がやってきて、木崎に話しかけてきた。木崎はホテルマンの耳元で何かを呟くと、ホテルマンは一礼して二人を中へと招きいれた。

 豪華なシャンゼリアが目立つロビーでは50人くらいの人がいた。

 しかし待合室のソファーやその辺りに立っている客は入ってきた背の高い二人の事などまるで気にすることなく、個々の時間を過ごしているようだ。彼らは皆、自分が主人公のように振舞っていた。辺りをきょろきょろしているのは、壁際で形よく立っている数人の警備員くらいだ。しかしその彼らも背の高い二人の男(響と木崎)には特に関心がないようである。

 その日、響はまさが嶋咲枝に会う時にそうしていたように、しっかりとしたスーツを着込んでいた。かばんもいつもの汚い肩掛けかばんではなく、ビジネスバッグを手に持っていた。だから響はその場にうまく溶け込んでいた。

 木崎はフロントをすっかり無視して、エレベーターへと向かった。エレベーターガールの女の子がボタンを押し、下りてきたエレベーターに乗り込み、最上階18階へと上がった。

 着いたところで降りると、一人の黒いスーツ姿のガードマンが待っていて、木崎に声を掛けてきた。木崎は胸ポケットから名刺のようなカードを取り出し、男に見せて、自分が関係者である事を証明した。

 廊下は無駄に広く、部屋もいくつかしかないようだった。響は木崎の後について、左奥の通路へと曲がっていった。そして一番奥に一つだけある扉のブザーを鳴らす。

 1分くらい間が空いてからドアは開いた。響は少し離れた所から木崎の背中を見ていた。中は窺(うかが)えなかったが、木崎は中の誰かと話をしていた。

「中へ入れ」

 木崎は響を呼び寄せ、少し張った声でそう言った。

 ゆっくりと響は歩み寄り、中を窺った。小さな女が開いたドアを支えて待っていた。テレビで見たことのある女だ。嶋咲枝、印象よりもずっと小さい体だ。そしてとても華奢(きゃしゃ)に見える。

「俺はここで待つ。話を済ませたら、出て来い」

 木崎はそう言って、外の壁にもたれかかった。


「さあ、どうぞ」と、嶋咲枝は言った。テレビで聞くテキパキした声よりは遥かに柔らかい声だった。

『この女がまささんを殺ったとは思えない』

 響は頭の中でそう呟いた。頭の中はとても不思議な気持ちになっていた。嶋咲枝は人を殺すようには見えないとても綺麗な目をした女だと、響の目には映ってみえた。

 広いスイートルームに通され、ソファーに掛けるよう促(うなが)された。

 広い部屋は草原のような安らぎも感じられる。シベリウスの組曲が流れていたせいかもしれない。響はクラシックの事など何も知らないが、何か安らげるような空気を感じていた。


「何か飲む?」と嶋咲枝は響に尋(たずね)ねた。

 響は「いや」と一言だけ発して、それを断った。

 嶋咲枝は響を見つめた。

「緊張しているのね?わたしの事、知っているよね?」

 嶋咲枝は初対面とは思えないような口ぶりで響に話しかけてきた。

 響は何も喋らない。

 咲枝は自分用のグラスにブランデーを注いでそれに口をつけ、響の対面のソファーにそっと座る。

「それで、何か用なんでしょ?」

 響は何も喋らない。喋りたくなくて喋らないわけじゃない。響はいくつか考えてきた段取りの全て忘れてしまっていた。頭の中は真っ白になってしまっていた。

 響の目には目の前の女が人を殺すような女には見えなかった。響が住む世界のあらゆる種類の人間と違う、高級な種類の人間に見えた。

『まささんはいったいこの女(ひと)とどんな会話していたのだろう?』という意味のない疑問も浮かんでいた。

「ねえ、わたしも戻ってきたばかりなの。汗だくで、疲れているの。シャワーを浴びたいんだけど、いい?用件があるのなら今言ってもいいし、まだ話せないなら、わたしはシャワーを浴びたいの。少し待っていてくれる?におばさんのシャワーなんて気にならないでしょ?だからここでゆっくりくつろいで待っていてもいいのよ」

 すっかり嶋咲枝のペースになっている事を響は感じていた。目の前にいるその女がとても遠くの存在に感じられた。響の中にあった憎き嶋咲枝の像はすっかり崩れ、よくわからない存在が目の前にいるようだった。だから響はただ怖い顔で嶋咲枝を見つめていた。

「いいわ。そうしてなさい。わたしはシャワーを浴びてくる。少ししたら落ち着くでしょ?そうしてなさい」

 嶋はそう言うと、立ち上がり、バスルームの方へと消えていってしまった。

 すると金縛りが溶けたかのように、響にわずかな冷静さが生まれた。

『こんなチャンスは二度とないはずだ。なんて無警戒な女なんだろう』と活動し出した響の脳は思考し始めた。

 響は嶋咲枝はもっと警戒心が強く、相手の動きを細かく洞察するような女だと想像していた。しかし事実はまるでその正反対だった。

『どうしてあんな女が政治家になれるのだろう?どうしてあの女が麻薬の取引をしているのだろう?どうしてあんな女がまささんを殺せたのだろう?』

 全てがダミーのようだった。響の想像と真実は全く別のところにあるようだった。真実は全て嶋咲枝の行った事ではないのかもしれない。でもその逆も浮かんだ。もしくは『そう思わせようとしている』のかもしれない。今ある嶋咲枝の全ては彼女の演技なのかもしれないと、響は考えた。

 思い立って響はかばんの中に入れていたサイレンサー付きのリボルバーを取り出した。そして立ち上がり、バスルームの覗ける廊下まで場所を移した。響はそこで嶋咲枝が出てくるのを待つことにした。出てくると同時に引き金を引こうと考えた。

 ゆっくりと呼吸をした。時は刻一刻と迫っている。この時を待ち侘びていたのだ。


後半へ続く。