17.時はいつものように流れる
7月22日、木崎はやってきた。
いつものように、彼は響の住む地下の部屋の入口で待っていた。まだ真昼だった。
響が部屋のドアを開けると、体格のいい体を縮めて、木崎は部屋の中に入ってきた。暑そうなスーツ姿だった。
「今度はここだ」
木崎は何の前触れのなく、響にそう告げると、いつもの封筒を2枚渡した。
響はいつものように封筒の中に入っている金を確認して頷いた。木崎はそれを確認すると、すぐに部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待ってくれ」と、響は木崎を引きとめた。
今まで一度もそんな事をされた覚えのない木崎は意味もなく笑顔を浮かべた。
「何だ?何かあるか?」
少し間を置いて、響は口を開く。
「ボスに会いたい」
「…」
木崎は口を開かない。
「話したい事がある」と響は言う。
「ボスが誰だか、おまえは知っているのか?」
響は強い目で木崎を見つめて頷いてみせる。
少し考え込んだ後に、木崎は口を開く。
「まあ、いいだろう。だか、あの方は忙しい方だ。いつになるかはわからない。用件があるのなら、俺に伝えたほうが話が早いがな」
「直接会って、話がしたい」
「…」
木崎は響の顔を見つめるだけで答えない。
「まささんもたまに会っていたはずだ」
木崎は頷(うなず)く。
「あの人は特別だ」
「俺は駄目か?」
木崎は少し、間を置いて答える。
「まあいいと言っただろう?伝えておいてやる」
7月25日、一日中暑い一日だった。
響は10時15分に家を出て、目的地に向かった。
平日の午前、こんな麻薬の引渡しには穴場の時間だ。こういった時間の方が目立たない。人々が当り前に仕事をしている時間に仕事をする。飲酒運転も昼間じゃ目立たないし、空き巣も昼に行動する。目立たない犯罪はたいてい平日の昼間に行われる。
場所は東京都葛飾区(かつしかく)。中川を上流域に向かっていたところまで、電車とバスを乗り継いで、響はそこまで向かった。いつもの学生風の格好をしていた。
指定された場所には一時的に建てられたプレハブがあり、近くで河川の補修工事(ほしゅうこうじ)が行われていた。河川では工事が行われていたが、まだ昼前だったため、そのプレハブは静かだった。入口の扉に手を掛けると、扉は何の問題もなく開いた。
中はひっそりと静かだった。作業員が休むための簡易なパイプ椅子とテーブルがいくつか並べられていて、奥の窓際に大きなブラウン管テレビが置かれていた。高いところにつけられた扇風機が回ったままになっていた。
一人の作業服を着た男が給湯室からコーヒーを口に付けながら現れた。コーヒーを一口啜(すす)ると男は言った。
「あれか?」
響は何も言わずにこくりと頷いた。
男はコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと、今度はロッカールームへと消えていった。1分後に顔を見せ、響に手招きをした。ロッカールームの入口にスーツケースが用意されていた。
「これか?」
響は頷き、肩掛けかばんからいつもの封筒を男に渡した。
作業服の男は封筒を開き、中にある札束をぺらぺらと軽く指でなぞって簡単に確認した。そしてその封筒をロッカーの中にしまいこんだ。
男は戻ってきて、響に言った。
「面倒なところだろ?送っていってやろうか?」
響は男に悪意がないのを感じ、素直に頷いた。
プレハブの外に置かれていたカムリに乗って、響は最寄の駅まで連れて行かれた。そしてスーツケースを下ろし、何事もなく工事現場の男と別れ、その仕事を終えた。
家に帰ったのは12時過ぎだった。
響はお湯を沸かし、カープラーメンを啜った。それから眠くなったので昼寝をした。
目が覚めたら、18時過ぎになっていた。
再び外に出て、今度は近場のラーメン屋でこってりラーメンを食べた。
家に戻って、シンハーを飲みながらボーっとしていた。
木崎がやってきたのは21時過ぎだった。
数日前と同様、暑苦しそうなスーツ姿をしていた。
そしていつものように、スーツケースの鍵を開け、中身を確認し、それを閉じた。
「おつかれ」と言って、響に札束の入った成功報酬(ほうしゅう)を渡した。
何も言わずに、スーツケースを持って出て行くのかと思ったところで、木崎は振り返った。
「運がいいな。あさっての夜、ここへ来い。あの方が会っていいと言っている。三日と待たずに会えるとは、運のいい奴だ」
木崎はそう言って、投げ捨てるように一枚の紙切れを背を向けたまま、響に投げ渡した。響をそいつをしっかりと掴(つか)んだ。木崎はそれ以上何も言わず、響も何もいう事はなかった。
扉が閉まり、響は一人残された。響もその突然の機会は予想していなかった。斉藤に電話するかどうか、考えたが、どうでもいい事だと思い、響は電話をするのを取りやめた。
目を瞑り、気持ちを落ち着かせていた。後はその時が来るのを待つだけだと、響は自分に言い聞かせていた。
18話へ続く
余談 1.名前の由来
はじめまして('-^*)/
こころもりょうちと申します。
基本的には小説を載せるためだけに、このブログを始めたのですが、
たまには適当に書きたいなあと思い、本日はただ書いてます。
こころもりょうちというのはペンネームです。
漢字で書くと、小衣良地と書きます。
この名前は10代の頃に想像していた物語の主人公の名前です。
意味としましては、だいたい、『心も良い』という優しいキャラクターをイメージして付けた名前です。
僕が登場人物に名前をつける時は、たいていインスピレーションです。
とくに意味はありません。
今回の物語『夕陽虹無』の主人公、上野響においては、
もともと「氷上の吹雪」という冷たいイメージがなまったものです。
第15話で、上野は東京都台東区の上野、響はウイスキーの響としましたが、
実はこれは後付けです。ちょうどいい感じだったのでそうしました。
他のキャラにも特別な意味はありません。
作家の方とはそもそもどのように、名前を決めているのだろう?
僕においてはインスピレーション、名前の響きといったもの以外には特にない。
上野響はなんか尖ったイメージだけど、田山涼(響の別名)は丸いイメージだ。
勝手なイメージだが、名前はそんな感じで決めている。
名前とはどうでもいいようで、重要だ。僕は自分の本名があまりにパッとしないので、
こころもりょうちというペンネームを使わせてもらっている。
他にこんな名前を付ける人はいないだろうというところもあり。。」
特にもともとの語源の意味は今となってはどうでもいいのだが、とにかく響きが好きだ。
物語には、斉藤が出てくる。彼の名前は別に佐藤でもよかったし、高橋でもよかった。
ありふれた名前をわざわざペンネームにする気もないし、本名もそれと同等の名前だ。
別に自分の本名が嫌いなわけではないが、作家としては退屈な名前である気がした。
名前は結構、大切に思う。
アマチュア作家ですが、今後とも『こころもりょうち、こころもりょうち』で行きたいと思います。
憶えてもらえると嬉しく思います(何か選挙みたいか(;^_^A)。
本日の余談はこんなところで。
16.見えない未来は曖昧のままに
もう遅い時間だったが、歌い人の歌が聴きたくなって『居酒屋ふくちゃん』へと響は行った。
開いた扉の内では、尾崎豊の『I LOVE YOU』が歌い人の声でて響き渡っていた。その日の響の気分にはベストな曲だった。響はろくに歌い人と話した事はないが、彼とはどことなく馬が合う気がしていた。その日のその選曲も響にそういう感情を抱かせた。
それは心のこもった歌声だった。いつもよりも調子のいい声だった。前にふくちゃん(居酒屋のおかみ)が歌い人に「尾崎が好きねえ」と訊いた事があった。響の年齢はもちろん、歌い人の年代でもまだ昔の曲だ。彼は齢の離れた兄貴がよく尾崎を聴いていて、それで好きになった、と言っていた。その兄貴はすでに他界してしまったそうだが。
響も尾崎が好きだった。尾崎の詩は意味のない虚しい感情に訴えかけてきて、熱せられ、燃えに燃えて、焼き尽くしたところで、すっと引いてゆく心地よさがあった。響はその感情が生まれては去る事をいつからか好むようになっていた。でもその歌声は尾崎豊という偉大な存在でなく、その詩を好む歌い人という人物の声で馴染まされていた。
『I LOVE YOU』が静かに歌い終わったところで、響はふくちゃんの店へと入っていった。客席からは小さな拍手も起きていた。
「久しぶりだねえ」と、入ってきた響に店主のふくちゃんが話しかけてきた。
響は何も言わずに頷いた。
店の常連さんであるとっちゃんが座っている席の隣に響は腰を下ろした。とっちゃんは店の近くで印刷会社を経営している社長さんである。
ふくちゃんは何も言わずに、生ビールをすぐに用意してくれた。
「さっきまでかんさんもいたんだけど、さくらちゃん来て、連れてっちゃったよ」
とっちゃんがそう言い、響は生ビールをグビッと飲んでから頷いた。
とっちゃん;「さくらちゃんも、『響さんは今日もいないんですね』って残念そうにしてたよ。
いやあ、もったいない」
響 ;「そんな事ないでしょ」
由 佳 ;「そう、そんな事ない。さくらさん、響さんの事なんて、一言も言ってなかったですよ。
わたしは響さんがなかなか来てくれなくて残念でしたけど(ノ_・。)」
(店の女将ふくちゃんの娘である由佳が話に入ってくる)
とっちゃん;「なああに、何も言わずとも、さくらちゃんはそういう顔をしていたよ」
由 佳 ;「わたしだって、残念でしたよ。プール行く約束してたのに、
響さん来ないから、仕方なく、友達と二人で行っちゃいましたよ。今日」
響 ;「男の子の友達?」
由 佳 ;「いじわるですね、響さん。女の子に決まってるじゃないですか」
とっちゃんは大きな声で笑った。
「ほんと、こいつはしょうがねえ奴だ」と言って、響の肩をパシンと叩いた。
話はこの日の昼間に戻るが、響は昼間、前々から話の約束を果たそうと、嶋咲枝殺人依頼の男である斉藤に会っていた。
池袋のラブホ街を抜けたパーキングに紺色のクラウンロイヤルを停めて、斉藤は待っていた。スモークの張ったそのクラウンの後部座席に乗せられ連れて行かれた。運転中、斉藤は「外は見るな。しばらく寝てるんだな」と響に忠告した。響はどこに連れていかれようが興味はなかったので、目を閉じてそれに従った。
都会の面倒な道を右へ左へと曲がり、だいたい1時間後くらいにクラウンは目的地へと着いた。車の中はクーラーが効いていたが、熱気から外が酷く暑い日だと感じられた。
「許可証を」とどこかの誰かが言った。響はずっと目を瞑っていた。車は数秒後に中へと動き出した。どこかの建物の中へ入ってゆくようだった。レールを越える音や周囲の雑音が消えた事で、目を瞑っていても響にはその事が理解できた。
クラウンが停まり、無駄のない動きで斉藤が後ろのドアを開けた。
「さあ、下りろ」と言った。
響は目を開けて、素直に従った。どこかの狭い地下駐車場だった。似たような車がたくさん停められていた。中へ入り、グレーの絨毯が敷かれた通路を抜け、エレベーターでB2からB5まで下りていった。
下りたところで再び警備員が許可証を求めた。斉藤は許可証を警備員に見せ、警備員はガラス張りの部屋の扉の鍵を開け、斉藤と響を中に招き入れた。響は斉藤の見せた許可証が馬込の見せた警察手帳に似ている気がしたが、その事は気にしなかった。響は慣れないスーツのネクタイを少し緩めて、中へと入った。
警備員はヘッドホンつきの銃を渡した。響は斉藤の指導に従ってそいつを装着した。狭い部屋に10ばかりの人型の標的が並んでいた。まずは斉藤が手本を見せた。斉藤の放った弾丸は標的の胸のど真ん中に命中した。
「そんなに難しくはない、ほんのちょっとの知識と経験があればいい。後はいかに冷静であれるかだ。ただそれだけ。それさえあればいい」
斉藤の指導に従って、響は拳銃を構えた。そして10mくらい向こうの標的に向けて、1発、2発、3発と放った。銃口音が辺りにこだました。響の放った弾は全て胸のほぼ真ん中を捕らえていた。
「十分だ。それだけ覚えておけばいい。後は冷静であればいい」
練習はそれだけだった。それだけで十分だった。響の手に銃というものが馴染んでいた。ピストルとリボルバーの違いはあるが、響の手はすでにその感触を確かなものとしていた。
居酒屋『ふくちゃん』では、歌い人の本日2曲目(響が聴く)が歌われていた。歌は尾崎豊の『太陽の破片』だった。歌い人の今日の歌声はいつもよりもしっとりとしていて澄んでいた。その声が響き渡る中、とっちゃんの声が聞こえ、また周りの庶民の笑い声が聞こえていた。響には『太陽の破片』しか聞こえていなった。焼き魚をつまみながら、冷酒をクイッと飲んだ。心は不思議と落ち着いていた。それと同時に寂しさに溢れていた。
今はこの場の空気がその寂しさをほんの少し、忘れさせてくれていた。
『俺はどこへ行くんだろう?俺はどこへ行こうとしているんだろう?
この先に何があるというのだろう?それでも俺はあの女を殺る。
その先に何が待っているだろう?希望だろうか?絶望だろうか?』
歌い人の切ない声と群集の笑い声、これが懐かしく遠くに去っていくかのように、響はその場の空気を吸っていた。
続く
15.意外な来客
響はいつもの暗い部屋の中で目が覚めた。
いったい今がいつなのか、響は時間も日にちも曜日も分からなくなっていた。ここ数日、昼や夜に目を覚まし、不快な覚醒(かくせい)と睡眠を交互に繰り返していた。24時間という周期リズムが完全に破壊されいる。
時計を見れば時間は分かるが、時計を見る気にならなかった。
ここ数日ずっと家で酒を飲んでは寝てしまっていたので、何も考えずに久々に家の外に出てみようと思い立った。
服は外にもそのまま出れる普段着だった。だから響は暗い部屋の中で、財布と家鍵を取ると、そのまま家の外へ出ていった。
空は曇ってはいたが、空気の質などからして今が朝である事を感じ取る。
熱していない空気、仄(ほの)かな明かり、裏路地からマンションの正面側に移動すれば、そこにはスーツ姿で歩く人々がちらほらと見受けられる。これから仕事といった感じの人々だ。
響は確信した。今は確実に朝である。しかもまだ7時前といった感じだ。曜日はよくわからないが歩くスーツ姿の人々から平日である事がわかる。
「どうも、こんなところで会うとは」
響はその声に振り返った。珍しく、酷く油断していた。その声の主がすぐ傍にいた事に気づかないくらい響は集中力を欠いていた。
そこにいたのは馬込警部補だった。まさの命日に群馬県にある、まさの墓まで出向いていた刑事だ。
馬込:「いやあ、こんなところでお会いできるとは、ホントに思ってもいませんでしたよ。
覚えてます?私の事?月島雅弘さんの一周忌で‥。馬込純平と申します」
響 :「ああ、覚えてますよ」
馬込:「このマンションに住んでおられるのですか?」
響 :「何か?」
馬込:「いやあ、いいマンションですねえ。月払いで20から30万はするんじゃないですか?」
響 :「何か?」
馬込:「お住みですか?」
響 :「ええ」
馬込:「ここって月島さんが亡くなる前に住んでおられたマンションですよねえ」
響 :「ええ、譲ってもらったんですよ」
馬込:「こんないいところをですか?家賃は?」
響 :「すでに完納済みで、他に住む人がいなかったから」
馬込:「まあ、月島さんは親族とも疎遠(そえん)でしたからねえ。
でも普通これくらいのマンションなら、他に売却するんじゃ。結構な金になるでしょ?」
響 :「住み主(すみぬし)が自殺したって話だから、売るにも面倒だったみたいでね。
別にいいって感じで、譲ってもらったんですよ」
馬込:「そうですか。世の中にはラッキーな事もあるんですねえ。
ああ、よろしかったら喫茶店にでも入りませんか?」
響 :「まあ、いいですよ」
二人は場所を移動して、近場の高級喫茶店に入った。
モーニングセットを注文し、馬込はすぐにトイレに行った。戻ってくると置かれていたモーニングセットのゆで卵を丁寧にスプーンで割り、殻から取り出した卵にかぷついて、口の中に含みながら話始めた。
「この辺りは昔の(日暮里爆破事件に関わる)同僚がふらふらしてまして、私が歩くと何してんだって感じの目でにらみつけられるんですよ。だからなるべく近寄らないんですが、まあ朝一なら、奴らもまだ大して活動してませんからね」
響 :「それで何か用が?」
馬込:「いやああ、正直にこんなところであなたにお会いするとは思ってもいませんでしたので、
何を聞いたらいいものか。そうですねえ、あのマンションは譲ってもらったんですか?」
響 :「そうですが」
馬込:「ホントに運がいいですね。私なんて、狭い六畳のアパートに詰め込まれてますよ。
隣は下手なギターを弾いててうるさいし、いつかは私もああいうマンションに
住みたいなあと思いますよ。
ああ、話を変えますが、あなたのお名前とか訊いていませんでしたねえ。
身分証明書になる免許証とかお持ちではないですか」
響 :「ええ、車は運転しないんで。それから他の物も全部家に」
馬込:「ああ、そうですよね。朝のこんな時間にいちいちそんなもの持って外に出ないですよね。
ちょっとコンビニに煙草を買いにって程度でしょ?小銭くらいしか持ってないですよね」
響は何も言わずにこくりと頷いた。
馬込:「じゃあ、お名前は?」
響 :「ナカモトです」
馬込:「下の名前は?」
響 :「リュウヘイです」
馬込:「中本龍平、リュウヘイはタツにタイラでいいかな?」
響 :「ええ」
馬込:「齢は?」
響 :「二十歳(はたち)」
馬込:「辰年?」
響 :「ええ」
馬込:「ふううん、なるほどね」
響は適当な名前を繕(つくろ)った。正しくは響が使ういくつかの偽名の一つだ。たとえばホテルのチェックインやちょっとサインが必要な時によくこの名前を使う。ちなみに上野響、この名前も完全な偽名である。響はまさが好きなウイスキーの名前から、まさが勝手につけた名前だ。上野は「上野」に住んでいるという安易な理由から付けられた苗字である。彼の本名は正しくは、無い。ただし彼を育てた(響がそう信じている)両親は彼を涼(りょう)と名づけた。さらにその両親が田山(たやま)という姓だったので、彼の本名は一応、田山涼(たやまりょう)となる。が、この名前は戸籍(こせき)にも住民票にも申請されていないので、彼は実情、名無し同然である。
馬込:「そうですねえ。月島雅弘の仕事ですが、ここにおける不明な点が多いんですよねえ。
前に中本さん(響の事)は彼に仕事を紹介されてって言ってましたよねえ。
ご職業は今も運送業を?」
響 :「いや、あれはバイト程度、重いものを運ぶ手伝いですよ。
仕事は夜の仕事、風俗店の呼び込みみたいな仕事を、友人の手伝いでその程度しか」
馬込:「ふう~ん、そう」
響 :「どこの店とか、言う必要があるの?」
馬込:「いや、特に結構です。わかりましたあ。とりあえず今日はそんなところで」
馬込はそう言って、一気にアイスコーヒーをストローでジュルジュル飲み込むと、「どうもお邪魔しました。また今度お話聞かせてください」と言い、伝票を取って出て行った。
響はちょっと面倒な事になったな、と思いながら、一つ溜息をついてゆっくりとモーニングのトーストを食べ始めた。久々に喰うまともな食事のような気がした。甘みのあるトーストは胃にしっくりと入り込んでいった。
続く
14. 再依頼
夢の中でも、響はさくらに会った。
愛だの恋だのとは言いたくない。そんな感情など響は信じない。
でも、夢の中で響は少しだけ遠くにいるさくらの姿に声を投げかけていた。
『君に逢いたいと思ったんだ。何の理由もなく、ただ君に逢いたかった』
彼女は響の方を見つめて爽(さわ)やかな笑みを注いだ。
『どうしたんですか?急に。そんなに汗をかいて』
『走ってここまで来たんだ。君に逢いたいと思ったんだ。それでどうしようもなく、時間がなくて、とにかく君に会いたかった。今言える事はそれだけだ。もっと近づいてもいいか?』
『ええ、どうぞ。ご自由に』
風景が生まれる。彼女は小さな木の橋の上にいて、日傘を差していた。太陽は燦燦(さんさん)と輝き、橋の下を流れる小川の水の音が涼やかに辺りへと響き渡っていた。
響はさくらに近づこうとした。でもさくらはそこにはいなかった。もう跡形(あとかた)もなく消え去っていた。
概要
上野響(うえのひびき)、20歳、麻薬の運び屋。美坂さくら(みさかさくら)、19歳、巫女。
二人は互いの育ての親であるまさとかんさんにより繋がっている。
最近はかんさん(さくらの祖父)をさくらが迎えに来るときに会う。
響は大物女政治家(嶋咲枝)を消すという使命を負っている。
さくらは巫女として、神社を支えてゆくという使命を負っている。
互いは悪と正的な関係にありながら、微妙に似た境遇にあり、互いを意識している。
この二人の関係がどうなるのか、そんなところから、本編は始まるのだが…
(響は)目を覚ました。
すでに夕方だった。
響はいったい何時間寝たのかを考えた。
疲れているわけでもないのに、とても長い時間寝ていた。
そしてたくさんの夢を見た。
でもそのほとんどの夢を忘れてしまった。思い出そうとしても思い出せない。
ただ一つ、さくらの夢は覚えていた。橋の上にいる彼女に会う必要があった。
シャワーを浴びた。
そして冷蔵庫の中にあったオレンジジュースを飲んだ。
しばらく寝すぎたためにぼうっとしていた。
ソファーにどかっと座り、もう少しだけ目が覚めるのを待った。
今日はお気に入りの黒いシャツを着た。
一番新しいジーンズも穿いた。
『さあ出掛けよう』
家の玄関を出る。
地下から地上への階段を上る手前で気づく。
誰かがやってくる気配がする。しかも地下への入口の鍵を開けようとしている。
響の知る限り、それが出来るのは今のところ、嶋咲枝の部下の木崎か、嶋咲枝を殺す依頼をしてきた男である斉藤のどちらしかいないはずだった。
扉はゆっくりと開いた。そこに立っていたのは斉藤だった。
響は大きく溜息をついた。何かふと現実に戻されたかのような嫌な気分になった。
斉藤:「やあ、お出かけかい。すまないな。ちょっとだけ付き合ってくれよ」
響 :「何の用だ?」
斉藤:「立ち話もなんだ。中へ入ってもいいか?」
響は諦めて斉藤を部屋の中に招きいれた。斉藤を二人掛けのソファーに座らせ、自分は一人掛けのソファーに腰を下ろした。
響 :「この前はすまなかった(五十嵐邸にて嶋咲枝殺害に失敗した件のことを響は謝った)。
変な男がいたんだ。それでチャンスを逃した」
斉藤:「しかも雨が降っていて、嶋咲枝はずっと家の中にいた。チャンスはほとんどなかった」
響 :「そう…だな(ノ゚ο゚)ノ」
斉藤:「分かっている。そんな事はわかっている。むしろ君は一発も弾を撃たなかった。
それがいい判断だった。あの場面で弾を放っても君は彼女を殺(や)れなかった。
運がよくても彼女に傷を負わせるだけ。その程度しかできなかっただろう。
いい洞察力(どうさつりょく)だ。むしろ僕は君を評価している。
あせらずにその場を離れたこと、それが素晴らしい」
響 :「それで、何の用だ」
斉藤:「君はまだ銃の使い方をよく知らないだろ?教えてあげようと思いましてね」
響 :「…」
斉藤:「今日でも、明日でも、いつでもいいが、あげた銃を持ってきてもらえれば訓練場に案内するよ。
そして訓練が終わったら、また嶋を殺るチャンスを窺(うかが)う。
まあ、その後はその後だ」
響 :「それなら、俺の思うままにやらせてくれ」
(響は嶋咲枝を殺るチャンスについて自分なりに考え始めていた)
斉藤:「Σ(゚д゚;)、何か当てでもあるのか?」
響は何も言わずに頷いた。
斉藤は響の鋭い目をじっと眺めていた。
当てがありそうだと勘繰(かんぐ)って、斉藤は笑みを浮かべ、納得しうなずいた。
「どうする?今から練習しに行くか?」と斉藤は響に尋ねた。
響はそれを断った。
そして斉藤は自分の連絡先を響に伝えた。
「ここへ連絡してくれ」と。
斉藤が去っていた後も、響はソファーで考え事をしていた。
忘れていた記憶が呼び覚めたかのようだった。
『俺は何をしているんだ。あの女を殺らなければならない。くだらない性欲ばかりだ。
俺は何を考えているんだ。俺には俺の運命がある。俺は俺の道を歩む。それだけだ』
自分にそう言い聞かせていた。そして、さくらに会いに行こうとする思いを抑えた。全ての思いを抑えこめられ、居酒屋『ふくちゃん』にさえも行く気がなくなった。
大きく深呼吸をして、響は天井を見上げていた。一人きりの暗い地下の部屋の中に自分はいる。そう感じると、また自分は暗い場所に戻ってきたと感じた。でもそれが自分の場所であると響は認め顔を引き締めた。
続く。
