16.見えない未来は曖昧のままに
もう遅い時間だったが、歌い人の歌が聴きたくなって『居酒屋ふくちゃん』へと響は行った。
開いた扉の内では、尾崎豊の『I LOVE YOU』が歌い人の声でて響き渡っていた。その日の響の気分にはベストな曲だった。響はろくに歌い人と話した事はないが、彼とはどことなく馬が合う気がしていた。その日のその選曲も響にそういう感情を抱かせた。
それは心のこもった歌声だった。いつもよりも調子のいい声だった。前にふくちゃん(居酒屋のおかみ)が歌い人に「尾崎が好きねえ」と訊いた事があった。響の年齢はもちろん、歌い人の年代でもまだ昔の曲だ。彼は齢の離れた兄貴がよく尾崎を聴いていて、それで好きになった、と言っていた。その兄貴はすでに他界してしまったそうだが。
響も尾崎が好きだった。尾崎の詩は意味のない虚しい感情に訴えかけてきて、熱せられ、燃えに燃えて、焼き尽くしたところで、すっと引いてゆく心地よさがあった。響はその感情が生まれては去る事をいつからか好むようになっていた。でもその歌声は尾崎豊という偉大な存在でなく、その詩を好む歌い人という人物の声で馴染まされていた。
『I LOVE YOU』が静かに歌い終わったところで、響はふくちゃんの店へと入っていった。客席からは小さな拍手も起きていた。
「久しぶりだねえ」と、入ってきた響に店主のふくちゃんが話しかけてきた。
響は何も言わずに頷いた。
店の常連さんであるとっちゃんが座っている席の隣に響は腰を下ろした。とっちゃんは店の近くで印刷会社を経営している社長さんである。
ふくちゃんは何も言わずに、生ビールをすぐに用意してくれた。
「さっきまでかんさんもいたんだけど、さくらちゃん来て、連れてっちゃったよ」
とっちゃんがそう言い、響は生ビールをグビッと飲んでから頷いた。
とっちゃん;「さくらちゃんも、『響さんは今日もいないんですね』って残念そうにしてたよ。
いやあ、もったいない」
響 ;「そんな事ないでしょ」
由 佳 ;「そう、そんな事ない。さくらさん、響さんの事なんて、一言も言ってなかったですよ。
わたしは響さんがなかなか来てくれなくて残念でしたけど(ノ_・。)」
(店の女将ふくちゃんの娘である由佳が話に入ってくる)
とっちゃん;「なああに、何も言わずとも、さくらちゃんはそういう顔をしていたよ」
由 佳 ;「わたしだって、残念でしたよ。プール行く約束してたのに、
響さん来ないから、仕方なく、友達と二人で行っちゃいましたよ。今日」
響 ;「男の子の友達?」
由 佳 ;「いじわるですね、響さん。女の子に決まってるじゃないですか」
とっちゃんは大きな声で笑った。
「ほんと、こいつはしょうがねえ奴だ」と言って、響の肩をパシンと叩いた。
話はこの日の昼間に戻るが、響は昼間、前々から話の約束を果たそうと、嶋咲枝殺人依頼の男である斉藤に会っていた。
池袋のラブホ街を抜けたパーキングに紺色のクラウンロイヤルを停めて、斉藤は待っていた。スモークの張ったそのクラウンの後部座席に乗せられ連れて行かれた。運転中、斉藤は「外は見るな。しばらく寝てるんだな」と響に忠告した。響はどこに連れていかれようが興味はなかったので、目を閉じてそれに従った。
都会の面倒な道を右へ左へと曲がり、だいたい1時間後くらいにクラウンは目的地へと着いた。車の中はクーラーが効いていたが、熱気から外が酷く暑い日だと感じられた。
「許可証を」とどこかの誰かが言った。響はずっと目を瞑っていた。車は数秒後に中へと動き出した。どこかの建物の中へ入ってゆくようだった。レールを越える音や周囲の雑音が消えた事で、目を瞑っていても響にはその事が理解できた。
クラウンが停まり、無駄のない動きで斉藤が後ろのドアを開けた。
「さあ、下りろ」と言った。
響は目を開けて、素直に従った。どこかの狭い地下駐車場だった。似たような車がたくさん停められていた。中へ入り、グレーの絨毯が敷かれた通路を抜け、エレベーターでB2からB5まで下りていった。
下りたところで再び警備員が許可証を求めた。斉藤は許可証を警備員に見せ、警備員はガラス張りの部屋の扉の鍵を開け、斉藤と響を中に招き入れた。響は斉藤の見せた許可証が馬込の見せた警察手帳に似ている気がしたが、その事は気にしなかった。響は慣れないスーツのネクタイを少し緩めて、中へと入った。
警備員はヘッドホンつきの銃を渡した。響は斉藤の指導に従ってそいつを装着した。狭い部屋に10ばかりの人型の標的が並んでいた。まずは斉藤が手本を見せた。斉藤の放った弾丸は標的の胸のど真ん中に命中した。
「そんなに難しくはない、ほんのちょっとの知識と経験があればいい。後はいかに冷静であれるかだ。ただそれだけ。それさえあればいい」
斉藤の指導に従って、響は拳銃を構えた。そして10mくらい向こうの標的に向けて、1発、2発、3発と放った。銃口音が辺りにこだました。響の放った弾は全て胸のほぼ真ん中を捕らえていた。
「十分だ。それだけ覚えておけばいい。後は冷静であればいい」
練習はそれだけだった。それだけで十分だった。響の手に銃というものが馴染んでいた。ピストルとリボルバーの違いはあるが、響の手はすでにその感触を確かなものとしていた。
居酒屋『ふくちゃん』では、歌い人の本日2曲目(響が聴く)が歌われていた。歌は尾崎豊の『太陽の破片』だった。歌い人の今日の歌声はいつもよりもしっとりとしていて澄んでいた。その声が響き渡る中、とっちゃんの声が聞こえ、また周りの庶民の笑い声が聞こえていた。響には『太陽の破片』しか聞こえていなった。焼き魚をつまみながら、冷酒をクイッと飲んだ。心は不思議と落ち着いていた。それと同時に寂しさに溢れていた。
今はこの場の空気がその寂しさをほんの少し、忘れさせてくれていた。
『俺はどこへ行くんだろう?俺はどこへ行こうとしているんだろう?
この先に何があるというのだろう?それでも俺はあの女を殺る。
その先に何が待っているだろう?希望だろうか?絶望だろうか?』
歌い人の切ない声と群集の笑い声、これが懐かしく遠くに去っていくかのように、響はその場の空気を吸っていた。
続く