4. 始動開始 | 小説と未来

4. 始動開始

  

 もう夏は近いというのに、冷たい雨の降る夜だった。


上野響(うえのひびき)、20歳、職業麻薬の運び屋、普段の居所は上野界隈(かいわい)。

現在育ての親まささんの仇を討つ(かたきをうつ)チャンスに恵まれ、次の指示を待っている。

仕事は月1しかないので、普段は上野の「ふくちゃん」という居酒屋に入り浸って(いりびたって)暇を潰している。

居酒屋の常連客とは仲がいい。


 響は今日も時間をもてあまし居酒屋「ふくちゃん」で時間を潰した。


 冷たい雨のせいか、金曜の夜だというのに客入りはいまいちで、数人のサラリーマンと、歌い人2.ふくちゃんの店を参照)しかいなかった。その日、歌い人は、ゆずの「雨と泪」をギターを奏でながら、熱唱していた。


 そんなバックサウンドに包まれて、響はふくちゃんのである女子高生の由佳(ゆか)他愛のない談笑をしながら、暇つぶしの時間を送った。


他愛のない談笑


由佳:「今年は新しい水着を買おうと思うの。響さんは、どういうのがいいと思います?」


 響:「ああ、まあ、かわいらしければ」


由佳:「わたし、でも、海はべたつくから好きじゃないの。どちらかというと、プールが好きなの。

    スポーツクラブとかじゃなくて、回るプールとかある」


 響:「ああ、よくわからないなあ」


由佳:「ねえ、よかったら今度一緒に行きませんかo(〃^▽^〃)oんん、あの、特別な意味はないけど、

    一度行ってみるといいですよ」


 響:「ああ、そうだね」


由佳:「ええ、じゃあ、考えておきますね。もうプール開きとかしたのかなあ。まだ早いか、梅雨だし。

    やっぱしワンピースにしようかなあ」


なんて、会話が前後永遠と2時間近く続いた。


 結局、その日はそんなまま、響はお愛想(あいそ)して家に帰った。



 雨の中、いつもの家に帰ると、裏口が開いていた。鍵を掛けたはずの扉は開かれていた。響は状況の変化が確かである事を理解し、その先に何者かがいる事を予想した。

 軽く深呼吸をして、酔いを醒ますようにしてから、開いている扉の先へと体を入れた。


 響が想像していた何者かは扉を入ってすぐの地下階段を下りたところで息を潜(ひそ)めていた。


 サラリーマン風のその男は、響の気配を消した動きにも、すぐに気づき、闇の中で白い歯を煌(きらめ)かせた。

「いや、悪いとは思ったのだが、なかなか帰ってこないんでねえ、外は雨で、ドブネズミと一緒に過ごすのも気分が引けたんで、中に入らせてもらったよ。といってもここまでだったがね」


 男はその奥にあるドアノブをガチャガチャ回し、ガンガン前後に振りながら、鍵が掛かっていることを響に確認させた。(地下の階段を下ったところにはもう一つの入口がある)

「頑丈なこっちの扉だねえ。ここはなかなか開かなくてねえ。よく出来た鍵だよ。そこらの鍵屋じゃスペアーキーも作ってもらえない。本当は中で待ちたかったんだね」


 響は階段をコツコツと一番下まで下り、そのサラリーマン風の男をどかして、部屋の鍵を開けた。

 そして部屋の明かりを付け、男を招き入れた。

 響は二人掛けのソファーのど真ん中に腰を下ろし、疲れのままに深々と腰掛けた。

 男は入口の付近に突っ立っていた。


 明かりの当たるところで、男は本当にただのサラリーマンに見えた。有楽町の駅に行けばいつでも会えそうだった。髪の毛は程よい長さで、ムースで手入れされている。顔は細身で、体も細身、スーツは薄青いストライプが入った紺色のシングルで、少しオシャレな物を売っている営業マンにしか見えない。

 でも事実は異なる。の男は、ある女政治家を響に殺させようとしているのだ。まっとうな人間ではない。警察は誰も気づかないだろう。彼の見た目は極めてまともなのだ。響にまっとうな人間に見えるほど、実は悪人なのだ。という事を響はいくつも経験から感じさせられていた。

 本当の悪人は私は悪人ですという格好をしない。何かを企んで生きている奴らは必ずそういう格好をして、世の中で生きている。


 そのサラリーマン風の男、呼び名が長いので、ここからは彼の名称を斉藤とする。普通な感じだ。

 彼は自分を斉藤と名乗る。でも実際に彼の本当の名前ではないかもしれない。本当は御手洗(みたらい)かもしれないし、鴨志田(かもしだ)かもしれない。でもそれでは目立ちすぎるのだ。だから彼は斉藤と名乗っているのかもしれない。すぐに忘れてしまっても、間違えてもあまり問題のない名前だ。特に全国の斉藤さんがつまらない名前と言っているわけではないのだが、ここでは全国の斉藤さんにご了承願いたい。


 斉藤は言う。

「落ち着いたみたいですね」


 響はドキッとした。

 確かに彼の言葉通り、響は数日前より落ち着いていた。しかしなぜ斉藤が自分の心の変化を読み取れるのか、理解はできなかった。


斉藤:「それはそうですよ。これから人を殺そうというんだ。

    普通はまともであれるはずがない。

    どんな人間でも、興奮なり、苛立ちなり、矛盾なり感じるはずだ。

    正常な人間ならそうでしょう?」


 斉藤は響の心を捕えていた。そしてその捕らえ処(とらえどころ)に間違えは感じられなかった。響は動揺しないようにして特に返事をしなかった。


 斉藤は響に近づいた。響はちらりと斉藤の方を見やった。

 一枚の封筒を斉藤は胸の内ポケットから取り出し、響の座るソファーの背もたれに置いた。


斉藤:「今日はこれだけの用(よう)でね」


 それだけだった。

 現実ではなかったように、斉藤は響にそう告げると去り、消えてしまった。玄関の扉はすでに閉じていた。斉藤は本当にいなかったように消えてしまった。

 ただ一枚の封筒だけがそこにその男が来たという現実を残していた。


 響は立ち上がり、封筒を手にした。さほど厚いものではなかったが、そこには札束が入っている事が、指先の感触で得られた。


 玄関に内鍵をし、それから響はその封筒の袖を開いた。中には予想通り、10万ほどの金が入っていたそれと一枚のA4用紙が同封されていた。



 A4用紙


 場所;五十嵐邸


 日付;6月22日


 時刻;18時~20時


 催事;五十嵐卓人(いがらしたくと)の絵画展開催記念パーティー

                                          』

 そこには五十嵐邸の間取り図(まとりず)=(どこが狙いどころかも書いてある)と五十嵐邸への行き方が書かれた地図が載っていた。


 響は了承した。

『ここへ行けばいい。すればあの女を殺せる。あの偽善に溢れた女を撃ち殺す事が出来る。脳みそを一発でぶち抜いてしまうのはもったいないが、仕方ない。何しろ大物政治家だ。簡単にやれるチャンスはない』


 興奮は増していた。

『今夜は眠れそうにない』


 響は冷蔵庫に行き、そこからハイネケンの缶ビールを取り出し、タブを引っ張った。そして口に注ぐ。固まりそうな脳にさらりとしたアルコールで溶かし込んでゆく。

『明日、明後日…』


 それから何も考えないようにした。ソファーにドタリと再び腰掛け、目を瞑った。眠れそうにはない。

『でも時だけは過ぎてゆくだろう。そして時は訪れる事だろう』


 待ち遠しいのか、来て欲しくないのか、響の脳は再び落ち着きを失っていった。

『それでも答えは、時間の過ぎた先にしかない』

 響をしっかりとその事だけを理解して時が訪れるのを待っていた。


第5話へ続く