小説と未来 -107ページ目

雨に沈む町 30.ボートの上

目に見える明日はない。


僕は明日を生きられるか、わからない。


生命はそれでも生きてゆく。生が与えられる限り、死を拒み、生きてゆく。


自殺するのは人間くらいだろう。つらい現実から逃げようとするのは人間くらいだ。


死の先の幸せを思うのか、生きるなら何もない方がましだと考えるのか、人は時に死を選ぶ。



僕らは大海原の上にいる。


辿り着くあてのない船の上で暮らす。


どうせ死ぬのなら、何かを目指してやるだけの事をやってから死にたい。


人生とは賭けだ。幸せになるかならないか、全てが賭けだ。


もう少し上手に生きてゆく方法もあるのかもしれない。


当り前の生活と、当り前の幸せ。平凡な暮らしと、平凡な日々。


僕は明らかにその日々を拒んだ。岩崎さんも梅原さんもそんな平凡な日々を求めてはいなかった。


普通の生活を望めずに、僕らはこんな大海原の上にいるわけじゃない。僕らは普通の生活を望まなかったために、こんな大海原の上にいるのだ。


波は激しく揺れている。


小さなボートのガソリンはとても臭い匂いで溢れている。


船は左右に酷く揺れ、毎日頭をぐらぐら揺らし続ける。


これが現実だ。毎日、僕は気持ち悪い。何度吐いても吐ききれない。


やがて吐き気を通り越し、頭が痛くなる。


それも通り越すと体が動かなくなる。


それで食料を口にする。何となく体は気だるくも動くようになる。


動ける範囲はボートの上でしかない。ただ辿り着く場所を求めて辺りを窺う。


恐ろしいまでの睡魔が襲い、眠りに落ち、気がつけば目が覚め、また気持ち悪くなり、吐き、頭を痛め、また動かなくなり、また食事をする。


死と生の合間を漂うように、僕は何とか毎日を繰り返す。


かつてないくらいの覚醒。現実をいつよりも強く感じる。死ぬ事を恐れた生に対する貪欲な部分が自分の内にある事を知る。


死んでもいい覚悟なんて、めったな事でするべきじゃない。


それが僕に言える答えだ。


でも僕はその答えに到ってしまった。


雨の降らない青空を見る事に喜べたのは最初の数時間だけ、後は荒れ狂う波とかんかん日照りの太陽に苦しみを感じるばかりだった。


幸せは一瞬にして消えてゆく。


僕らは生きる事に必死でもがいている。


明日には死んでしまったほうが楽かもしれない。


そんな事を感じながら、一週間近くが過ぎた。



ある夜に降りだした雨は酷いものだった。


僕らは語り合う言葉も失い、必死でボートにしがみついた。


しかしその全てが無意味だった。


ボートは雨に沈んでいこうとしていた。


甲板に溜まった水ははけることなく、ボートを沈み落とそうとしていた。


僕は何も見ることができなかった。何も見えず、ただ水の中に体が浸かってゆくのを感じた。これ以上ボートにしがみつく無意味さを感じた。手を離した。そして僕は何もない海へと投げ出された。


でも僕は何かにしがみついていた。

それが何なのかはわからない。ただそれは海の上に浮くものだった。目を開けることもできなかった。ただそれに捕まっていれば僕は呼吸を楽にする事ができた。だからそれに捕まっていた。何もわからなかった。

死ぬとか生きるとかじゃなく、ただ、僕は楽でありたかった。


何もわからないまま、意識も遠のいていった。ただ、浮かぶものを離してはいけない。その思いだけがずっと脳裏に残っていた。


僕は意識を失った。


何も見えない海の上で。



揮宇(きう)は意識を失った。


何も見えない海の上で。



雨に沈む町 完

ずっと西にある島へ続く。

雨に沈む町 29.出発前夜

何気ない日々が過ぎ去った。


3月の終わり。桜はまだ咲かない。


日曜の昨日、出発の話をした。

「もし海が荒れていなければ、明日出航しよう」

岩崎は浜辺で海の先を見ながらそう言った。

揮宇(きう)と梅原は頷いた。


揮宇は荷物の詰まったリュックサックを再び確認する。もう十回も二十回も確認してきた。大したものは入っていない。一年半の雨静海町の生活でたくさんの荷物が部屋の中に溜まっていた。家具も揃っていたし、生活は落ち着いてきていた。その全てを手放し、最初からやり直す。


不安はさしてあるものではない。秋の森に迷い込んだときから自分はもう現実にある生活を失っていたから、今更失うものは何もない。


揮宇は自分の選択を思う。人生の岐路にあると感じている。

このままここに残る事もできるんだ。だけど揮宇は大海原へ出る事を決意した。

電車に乗って、自分の家に帰る事もできたかもしれない。

でも、帰る気にはなれなかった。ずっと出て行こうと考えていながら出て行けなかった家を出た以上、もう二度と戻る事はできないと判断した。もし戻れば、もう二度と外には出て行けないそんな気がしたからだ。


僕はつまらない人間で、どうしようもなく駄目な人間だ。

だから全てを捨てる事にした。だから全てを捨てる事ができた。

世の中には誰かに必要とされ、誰かのために生きる人もいるだろう。

僕は誰にも本当に必要となんてされていない。

存在価値のない命なら存在の全てを投げ捨てて、何かをやってみよう。

価値は生まれないかもしれない。価値はないかもしれない。

価値はあろうがなかろうがいいのかもしれない。


でも不安は心の奥底に広がっていた。自分の命が要らないなんて心の内では思っていなかった。だから大海原へ出てゆく不安が体中をこわばらせる。揮宇は恐くなって目を瞑る。そして秋の森を想う。果実(かみ)の事を思い返す。艶やかな髪を思い出す。細い瞳を思い出す。心の奥底は今も森の中にいる。


共有し続けた心の内の世界を思い出す。

君も同じように不安な時は森に帰る事もあるだろうか。

それとも全てを忘れて幸せな生活をどこかで送っているのだろうか。

全てが幻だったのかもしれない。全てが僕の妄想に過ぎなかったのかもしれない。

この町もまた全てが幻なのかもしれない。

僕は森の中で倒れ、今も植物人間になって病院のベッドの上で眠っているのかもしれない。

それが本当の僕なら明日には目を覚ます事ができるだろうか。

大海原はあの世への入口かもしれない。

今日も夢の中にいる。明日も夢の中に入り込む。


暗闇の外はひんやりとした空気を続けている。

桜はまだ咲かない。一年半を思い返す。揮宇はここで過ごした様々な事を思い返す。どうでもいい暮らしだった。小さな暮らしだった。ここにあった日々も嫌いではなかった。大家さんやその息子にはとても親切にされたし、居酒屋に飲みに行って騒いだ思い出も嫌いじゃない。嫌な奴もいたけど、全体的にはとても楽しい日々だったように思う。課長の事や倉庫番の山本さんを思い出す。少しだけ笑みを浮かべる自分がいる。もう一度この町で桜が見たかったなと思う自分がいる。


暗闇の中で車のエンジンの音がした。家の外をヘッドライトの明かりが照らしていた。ヘッドライトは弱い雨を映していた。それは旅立ちに影響するような大粒の雨ではなかった。

停まったのは梅原のライトバンだった。


ここは現実。

そうここから僕は旅立つ。


部屋のチャイムが鳴る前に揮宇はリュックサックを背負い、家の扉を開けた。部屋のブレーカーを全て落とし、部屋に鍵を掛けないまま、鍵を玄関の足元に置いた。

一番履きやすい靴を履いて、家を出てゆく。


階段を駆け下りて、外に出て待っていた梅原に頭を下げる。

梅原は笑みを浮かべ、「行こうか」と言う。

揮宇は頷き、後部座席に乗り込む。そこには岩崎がいる。

「よお、気分はどうだ?」と、岩崎は揮宇に声を掛ける。


「悪くはない。いや、楽しいですよ」と、揮宇は答える。


「そうか、やっぱしおまえは結構恐れ知らずだな」と、岩崎が言う。


梅原のバンが動き出す。そしてそれから一時間後に揮宇らは大海原に船を出す。

静かな雲に覆われた朝の明かりが飽和してゆく海へと出てゆく。


雨に沈む町 28.如月葉月の家にて

さようなら


さようなら。


この森で君と出逢った。ありがとう。さようなら。


僕は自分らしく生きるために、この町を出てゆく。



そして、

如月葉月の家にて。


「お父さん」

葉月は帰ってきた父親に声を掛けた。


「どうした?」


「今日、揮宇君がここに来たの」


「ああ、そうか、お父さんいなかったからな」


「町を出て行くんだって」

葉月は強い口調でそう言う。


「そうか」


「わたしはどうしたらいいかな?どうする事もできない事はわかっている。だけど何か寂しいね。そんな事をお父さんに言っても仕方ないんだけど」


「とても残念だね」

と、優介お父さんは言う。


「そうなの。とても残念なの。

 でも、彼はそうしたいんだろうなって思う。

 あんなに目を輝かせている人を見たのは初めてだった気がする」

葉月も少しだけ目を輝かせる。


「それってとても素敵な事だね

 葉月には、揮宇君のように何かしたい事はないの?」


「さあ、よくわからない。よくわからないけど、わたしは町を出て行きたいとは思わない。ただ…」


「ただ?」


「そうね。ただよ、お母さんみたいなのもいいかなとも思わないでもないかなあ」


「どっちやねん」

と、娘に突っ込む父親。


「さあ」



話はそこで終った。そして葉月は自分の部屋に戻った。


葉月はとても寂しかった。きっと揮宇の事が好きだったんだろうと感じていた。最後までその想いを告白する事はできなかった。でも彼には別にやりたい事があるんだなって感じて、そうやって生きていってほしいと感じたから、想いは自分の内にとどめる事にした。自分にはできない自由な生き方を揮宇にはやってほしいと感じたのかもしれない。



わたしはいつまでもここにいるのかもしれない。



葉月は泣きたいけど泣けなかった。

揮宇の輝く瞳を思ったら何だか、元気が出てきた。そして勉強しようと思った。何ができるわけでもないけど、もう少し綺麗な女の子になろうと考えた。いい大人の女になろうと考える。


「さよなら、揮宇君」


やっぱし、涙は頬を伝っていた。



やっぱし悲しい。



だから、泣くだけ泣いて、おやすみ。


涙は頬を伝い続けた。


雨に沈む町 27.春の仮病

晴れ渡った3月のある朝、揮宇は仮病を使い、山へと向った。


体調が悪いといえば悪い。どことなく風邪だといえば風邪を引いているような気がする。

そう言って自分をごまかす。


揮宇は如月葉月に会おうと思った。

どうして彼女に会おうと思ったのか、揮宇はその理由をはっきりとはしていない。

如月葉月とはこの町に来て初めて会った相手だ。そのせいか、それともただ彼女の明るさに触れたかったのかもしれない。


今日も渓流の流れる音がする。木々は露に濡れて、のっぺりしている。そんな川傍の木々の匂いが鼻に付く。


滝のような川が流れる脇の坂道を上る。

きっと雨の日にはこの道も上れなくなるのだろうと、揮宇は思う。


如月葉月の家はそんな山道を登ったところにある。

独特の雰囲気は変わらない。今日もこの辺りは霞がかっている。


丸太の家にはチャイムも付いていない。揮宇は扉をノックする。

誰も出てくる気配はない。

思い切って、扉を開けてみる。そして大きな声を発する。

「すみませーん!」

声を張り上げてみる。


しばらくして、パジャマ姿の如月葉月が奥の方に姿を見せた。

彼女はちらっと顔を見せたが、すぐに扉の裏へと消えていってしまった。

どうしていいかわからない揮宇だったが、そのまま十分程度待った。


如月葉月は黒いセーターに膝上の赤いスカートを穿いて、髪の毛が艶々にして再び現れた。


「びっくりするじゃない!」

と、彼女は怒ったように揮宇に言う。

「どうしたの?まあ、どうぞ」

彼女は家の中に揮宇を招き入れた。


揮宇は如月葉月の姿に少し女らしさを感じてどきりとした。


「一人なの?」

と、揮宇は如月葉月に尋ねる。


「そう、お父さんは町役場の人に呼ばれて。お母さんは買い物。おじいちゃんはダムを見に」


「今日は君が買い物に行かなかったんだ」


「うん、ちょっと風邪気味だったから」


「そう、奇遇だね!僕も風邪で休んだんだ」


「え、そうなの!」


「うん、仮病だけどね」


「それって風邪って言わないよ!」


「そうだね」

と言って、揮宇は苦笑いを浮かべる。


「それで、どうしてここに?」


「ああ、君と君のお父さんに会いに来たんだ」

揮宇は如月葉月のお父さんにさほどようがなかったが、なんとなく照れて付け加えてしまった。


「どうしたの?」


「ああ、実はね、雨静海町(あめしずみちょう)を出てゆこうと考えているんだ」


「出てっちゃうの?」

と彼女はびっくりする。


そう、それが揮宇の答えだ。


「そうなんだ。

 よかったね」

少しだけ、沈んだ顔をした如月葉月だが、すぐに笑顔に変わった。


その笑顔はとても優しい笑顔だった。揮宇の目にはその笑みが焼きついた。


「そうかそうか」と言いながら、彼女は立ち上がった。そして、何も言わず裏に消えていった。


数分後に、彼女はこの間出してくれたのと同じ、ジャスミンティーを出してくれた。

相変わらず心安らぐ味のするジャスミンティーだった。


「これはほんとおいしいよ」と、揮宇は言った。


「ありがとう」と言って、如月葉月は笑顔を浮かべた。


それから如月葉月は家族の他愛のない話をした。

本当にどうでもいい話だった。


一通り終ると、揮宇は自分はこの子の事が結構好きである事に気づかされた。

「でも」と、揮宇は口から出ていた。


何が『でも』なのか、如月葉月にはわからなかった。


「でも?どうかしたの?」と、如月葉月は尋ねる。


「いや、そろそろ行かないとね」


「うん、そうだね」

揮宇は素直な如月葉月に少し戸惑う。

でも少しだけその優しい笑みに大人らしくなった彼女を思う。


少しだけ別れ惜しくも思うが、どちらかというと元気が出てきた揮宇であった。


雨に沈む町 26.過ぎ行く冬の日

きっと準備は整っただろう。


もともと訳のわからないままにここにいるのだから、最初から何もなかったのに等しいのだから、、、



これ以上、ここにいる意味はないと、揮宇(きう)は心の内に言い聞かせる。


工場の仕事にも慣れていた。仕事が忙しい時は、簡単な肥料の調合もするようになった。


少しだけ仕事の楽しみも感じ始めるようになっていた。



どうでもいいだろう?そんな事。



自分の心の内にそう言い聞かせる。


課長に辞める事を伝えなくてはならない事を気にしている。


そして日々すれ違ういろいろな人の事を思う。


この人にももう会わないだろうと、人の数を数える。


世話になった出来事を思い出す。


そんな事に恩義を感じて、このままここに居過ごすわけにもいかない。


ここにいる理由なんて、最初からどこにもなかったのだから。



零れ落ちていった時間。


失われていった自分の時間。


忘れてゆくだけ。


大切だったものは何も育たないまま、自分の年齢が失われていった。



虚しくて、虚しくて。



思いは誰にも伝えられない。辞める事も誰にも伝えられない。


揮宇は実家にいる頃からそうだったなと、思い返す。


親には何も伝えられなかった。


自分が何をしたいのか、どうしたいのか、今が嫌だという事さえも。



ぼうっとそんな事を思っていたら、課長がにこりと微笑んで、揮宇の方を見つめていた。


言う機会だった。でも揮宇はにこりと照れ笑いのような笑みを浮かべ、何も言わずに会釈するだけだった。

そしてそそくさとその場を離れた。


そんなままに一日も終わり、毎日も過ぎてゆく。



休みの日にはビーチに行って、梅原に会った。

特に何もなく、自分も行く事を伝えただけだった。


退屈な日に祭りのあった神社にも行ってみた。

未来を祈ってみたが、特にこれと言った神のお告げも返ってはこなかった。


町へ出掛けもしてみた。

たまに大家の息子とうろうろしていた町のあちこちも一年経っていろいろわかりだしていた。

どこをどう行けば、どこに何があるかを知っていて、その確認をした。


だからと言って、誰も何も揮宇の心を納得させてくれるものはなかった。

何かに答えに欠けていた。


冬の町はただ寒く、冷たい霧のような雨を降らせるばかりだった。



僕は行くべきか。


行くと決めた。


その理由はどこにもない。


行くべきか、行かないべきか。


まよいを感じる。



少しだけ、岩崎が先送りにした理由が揮宇にもわかった気がした。


生まれ育った町を離れる事、環境を返る事には莫大なエネルギーがいると感じる。


理由ない変化の難しさを感じる。



心が負けたら、このままの日々を繰り返してしまう。



誰かに伝えようと思った。揮宇は自分の存在を知っている誰かに居なくなる事を伝えないといけないと思った。


そうすれば、決心は付くような気がした。