雨に沈む町 29.出発前夜 | 小説と未来

雨に沈む町 29.出発前夜

何気ない日々が過ぎ去った。


3月の終わり。桜はまだ咲かない。


日曜の昨日、出発の話をした。

「もし海が荒れていなければ、明日出航しよう」

岩崎は浜辺で海の先を見ながらそう言った。

揮宇(きう)と梅原は頷いた。


揮宇は荷物の詰まったリュックサックを再び確認する。もう十回も二十回も確認してきた。大したものは入っていない。一年半の雨静海町の生活でたくさんの荷物が部屋の中に溜まっていた。家具も揃っていたし、生活は落ち着いてきていた。その全てを手放し、最初からやり直す。


不安はさしてあるものではない。秋の森に迷い込んだときから自分はもう現実にある生活を失っていたから、今更失うものは何もない。


揮宇は自分の選択を思う。人生の岐路にあると感じている。

このままここに残る事もできるんだ。だけど揮宇は大海原へ出る事を決意した。

電車に乗って、自分の家に帰る事もできたかもしれない。

でも、帰る気にはなれなかった。ずっと出て行こうと考えていながら出て行けなかった家を出た以上、もう二度と戻る事はできないと判断した。もし戻れば、もう二度と外には出て行けないそんな気がしたからだ。


僕はつまらない人間で、どうしようもなく駄目な人間だ。

だから全てを捨てる事にした。だから全てを捨てる事ができた。

世の中には誰かに必要とされ、誰かのために生きる人もいるだろう。

僕は誰にも本当に必要となんてされていない。

存在価値のない命なら存在の全てを投げ捨てて、何かをやってみよう。

価値は生まれないかもしれない。価値はないかもしれない。

価値はあろうがなかろうがいいのかもしれない。


でも不安は心の奥底に広がっていた。自分の命が要らないなんて心の内では思っていなかった。だから大海原へ出てゆく不安が体中をこわばらせる。揮宇は恐くなって目を瞑る。そして秋の森を想う。果実(かみ)の事を思い返す。艶やかな髪を思い出す。細い瞳を思い出す。心の奥底は今も森の中にいる。


共有し続けた心の内の世界を思い出す。

君も同じように不安な時は森に帰る事もあるだろうか。

それとも全てを忘れて幸せな生活をどこかで送っているのだろうか。

全てが幻だったのかもしれない。全てが僕の妄想に過ぎなかったのかもしれない。

この町もまた全てが幻なのかもしれない。

僕は森の中で倒れ、今も植物人間になって病院のベッドの上で眠っているのかもしれない。

それが本当の僕なら明日には目を覚ます事ができるだろうか。

大海原はあの世への入口かもしれない。

今日も夢の中にいる。明日も夢の中に入り込む。


暗闇の外はひんやりとした空気を続けている。

桜はまだ咲かない。一年半を思い返す。揮宇はここで過ごした様々な事を思い返す。どうでもいい暮らしだった。小さな暮らしだった。ここにあった日々も嫌いではなかった。大家さんやその息子にはとても親切にされたし、居酒屋に飲みに行って騒いだ思い出も嫌いじゃない。嫌な奴もいたけど、全体的にはとても楽しい日々だったように思う。課長の事や倉庫番の山本さんを思い出す。少しだけ笑みを浮かべる自分がいる。もう一度この町で桜が見たかったなと思う自分がいる。


暗闇の中で車のエンジンの音がした。家の外をヘッドライトの明かりが照らしていた。ヘッドライトは弱い雨を映していた。それは旅立ちに影響するような大粒の雨ではなかった。

停まったのは梅原のライトバンだった。


ここは現実。

そうここから僕は旅立つ。


部屋のチャイムが鳴る前に揮宇はリュックサックを背負い、家の扉を開けた。部屋のブレーカーを全て落とし、部屋に鍵を掛けないまま、鍵を玄関の足元に置いた。

一番履きやすい靴を履いて、家を出てゆく。


階段を駆け下りて、外に出て待っていた梅原に頭を下げる。

梅原は笑みを浮かべ、「行こうか」と言う。

揮宇は頷き、後部座席に乗り込む。そこには岩崎がいる。

「よお、気分はどうだ?」と、岩崎は揮宇に声を掛ける。


「悪くはない。いや、楽しいですよ」と、揮宇は答える。


「そうか、やっぱしおまえは結構恐れ知らずだな」と、岩崎が言う。


梅原のバンが動き出す。そしてそれから一時間後に揮宇らは大海原に船を出す。

静かな雲に覆われた朝の明かりが飽和してゆく海へと出てゆく。