雨に沈む町 25.雪の降る日に
どうして岩崎さんは海旅へと出なかったのか?
もしかしたら自分の事を待っていたのかもしれない。
揮宇(きう)はそんな疑問を抱きながら毎日を送っていた。
そんな事を考えながら、毎日を過ごしていたら冬がやってきた。
雪の降らないはずの町なのに、12月に粉雪が舞った。
「全く降らないってわけじゃないんだけどな。
5年は降ってないなあ。中学の卒業式だから、7年前か。
だいぶ経つなあ」
と、大家の息子は雪の降る朝にそんなプチ情報を教えてくれた。
揮宇は海辺でボートを磨いてた梅原に会ってから、岩崎に会おうとはした。
しかしどういうルートでどう会うのがいいのか、機会を失ったまま毎日を過ごす羽目になった。
大家の息子である袋田(ふくろだ)とは幼馴染だから、場所を聞けば家まで行く事もできただろう。
しかし、何となく聞きそびれたまま日々は過ぎていった。
そんなまま、時間だけが過ぎ、雪の降る12月の町まで着ていた。
いつものバスに乗って通勤する。もうこんな事を1年以上続けている。
雪の降る日で、何事もなく、一日を過ごして終りにしたいところであったが、そんな日に限り、夕方、会社の安全講習会が行われる事が決まっていた。
それは決まっていた事だから仕方ない。積もるような雪ではないと延期にはならなったみたいだ。
講習会は工場地帯にある公民館で行われた。
何気なく大ホールに入り、何気なく座っている。人がずらずらと入ってくるのを見ていると、やがて揮宇は岩崎の姿を目にした。
彼もこの辺りの工場で働いている事は知っていた。だから偶然というほどの偶然ではない。でも揮宇はこの機会を偶然と思わないわけにはいかなかった。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
つまらないビデオを30分見せられ、つまらない講義を数分受け、講習会は終了した。
揮宇は終ると同時に立ち上がり、岩崎の座っている席へと向った。
彼は少し驚いたが、すぐに揮宇の姿に気づいてくれた。
「時間はありますか?少しだけ、話がしたいんですが」
「ああ、数分なら」
二人は雪のような、みぞれのような雨を見ながら、灰皿置き場のある寒い玄関口までやってきた。
岩崎は煙草に火をつけ、そいつで一服し始めた。
白い息を吐きながら、揮宇は岩崎に尋ねた。
「どうして、見送ったんですか?梅原さんに聞きました。ボートの調子は悪くなかったって」
「そうだな。確かにな」
と、岩崎は一言言っただけで、その先は答えようとしなかった。
揮宇は自分を誘っているのか、と聞きたかったが、そうとは言わずに、こう言った。
「行きましょう!海の外に。僕も行きたくなりました」
岩崎は少し驚いたような、嬉しいような表情を浮かべ、答える。
「気が変わったか、それとも狂ったか?」
揮宇は寒さを忘れ、笑顔を浮かべる。
「さあ、どうでしょう~?
ただ、当り前の人生がつまらなくなりました。
今、何を期待しても、何も変わりそうにはありませんし。
どこへ行っても同じかもしれませんが、でも飽きるまでどこかに行ってみようかな。
なんて思ったりもして」
「そうか、じゃあ、行くか」
岩崎はそう言って、笑顔を浮かべる。
「春になる頃にまた会いましょう。ビーチで。
夏が来る前には、行きましょう。
梅原さんもボートを浮かべたいって言ってましたから」
岩崎は頷く。
そして、煙草の火を灰皿の上でかき消した。
雪の降る冬に春の日を思う。
そこには旅立ちの日が待っている。
期待と不安が入り混じり、新しい未来を見つめたいと、二人の英気がみなぎるのであった。
雨に沈む町 24.あらためてビーチへ
ある日、揮宇(きう)はビーチに行った。
とても寒い朝だった。
岩崎さんに会うつもりだった。
それはいつか居酒屋で会った岩崎さんの笑顔が忘れられないからだ。
「もし気が変わったらまた来るといい」って彼は言ったんだ。
その事を確かめるために、揮宇はビーチの端にあるボートが置かれているプレハブに向った。
空は曇り空、まばらな雨がポツポツと降っていて、寒さを感じる。風も強いし、そろそろ大雨に変わるかもしれない。そんな空模様が揮宇の足を急がせた。
岩崎と喧嘩別れした日の事を、揮宇は思い出す。あの日も大雨だった。
同じ繰り返しを恐れながらも、揮宇はこのままではいられなかった。だからビーチまで来たのだ。
横開きのドアを前に揮宇は少し躊躇する。
勢いでここまで来たが、この先へ行くか行かないかは大きな違いだ。揮宇は負けそうな気持ちになる。
でもここまで来たという思いが勝った。
手は扉を開いていた。
中にはいつものボートがあり、シンナーくさい匂いが充満していた。
梅原というボートを作っている男がペンキを塗っているのだ。
梅原は慌てて、顔を挙げた。
「何だ。君か。びっくりするじゃないか」
「こんにちは。驚かせてすみません。岩崎さんは?」
「いや。いないよ。ていうか、最近ここにこないなあ」
「そうなんですか」
「ああ、もう準備はいつでもオーケーだってのに、先送りにして、早くこいつを海に浮かべてやりたいよなあ」
「調子の悪い部分も直ったんですね」
「調子?いや前からいいよ」
「ああ、数ヶ月前の話ですけど」
「…。悪い事なんて一度もないよ。準備はもう7月から整っていたからね」
「でも、岩崎さんが…」
「彼に見送りにされているだけさ。波も穏やかで、雨風も弱い日が何度かあった。船を浮かべて出発できる日は何度かあったんだけどな」
揮宇は何とも言えなかった。
「ところで、今日は何しに来たんだ?また一緒に行く気になったか?俺は構わないけど」
「そうですね。でも、その話は岩崎さんとします。まだ僕もよくわからないんです」
「そうか。て、いう事は、船が恋しいのは俺だけかな」
梅原はそう言って、ボートの先端を撫でた。
「すみません。また来ると思います」
「ああ、そうだな。岩崎と会って、よく話すんだな。立案者はあいつだからな」
揮宇は梅原に一礼して、ボートのあるプレハブを後にした。
外は肌寒い風が吹いていた。
揮宇にはなぜ岩崎さんが出発を見送ったのか、その疑問だけが残った。そしてなぜ自分をあらためて誘ったのかを思った。揮宇は岩崎の居場所がわからなかった。それでも揮宇は梅原に何も聞かず家へと帰った。
もし何かの縁があればまたどこかで会うだろうと揮宇はそんな事を感じていた。
不思議な感情に揺れ動く。
揮宇は運命の導き手に期待している。
雨に沈む町 23.如月葉月の父親
家を出ようとしたところに一人のおじさんが立っていた。
「お父さん!」
と、如月葉月は驚いた。
「どうしたの?」
「どうしたのって、昼だろう?
おじいちゃんと交替だよ」
「ああ、そうか」
揮宇(きう)は如月葉月の父親にぺこりと挨拶をした。
「ああ、こちらは相場揮宇さん。お父さんと同じく、別の町からやってきたの」
と、如月葉月が揮宇を紹介する。
如月葉月の父親はにこりと微笑んで、頷いた。優しい目をしている穏やかそうな人だった。
「僕は帰ります」
と、揮宇は言った。
「ああ、そうか」
揮宇は玄関の外に出てゆこうとする。
「君はいくつだい」
と、葉月の父親が揮宇に尋ねる。
「21です」
「そうか。まだ若いね。僕がこの町に来たのは26の時だった。
それで、一年町で暮らして、それからここで暮らすようになった」
そんな話をされたので、揮宇は玄関の外に出て立ち止まった。
如月葉月は家の中からそんな二人の光景を眺めていた。
「少しだけ話してもいいかい?」
と、父親は揮宇に言った。
揮宇は断れずに頷いた。
入口にある丸太を切ってできた椅子に3人は並んで腰掛けた。
「僕がここへ来たのは、この子の母親に出会ったからだね。もし会わなければ、僕はここにはいなかっただろうな。とても狭い世界で生活する事になったけど、自分で選んだからこれでよかったと思っているよ」
少しだけ誰も話さない時間が続いた。だから父親は続けて、揮宇に尋ねた。
「君は、この先をどうするつもり?どうにかするつもりでここへ来たのかな?」
「僕はこの町に来て、一年経ちますが、まだ何も決まっていません」
と、揮宇は答える。
「そうか、まだ若いし、何も急ぐ事はないだろうな。この町を出てゆく者も最近は増えたし、そうじゃなくてこの町でそれなりに暮らしてゆく事もできる」
揮宇はとりあえず父親の言葉に頷く。
如月葉月の父親は続ける。
「一つだけ言える事は、大切な物を持ち、それに対する意思がしっかりしている事が大切なんじゃないかと思うよ。
僕だってこの町を出てゆこうと思えば出てゆく事もできた。
でも僕はここでずっと暮らしてゆこうと思ったんだ。
それで世界が狭まっても、それはそれでいいと思った。
ここで送る未来の毎日が過ぎてゆく事がいいと思ったんだ。
自分は一人しかいないから二つの人生を歩む事はできない。
ずっといろいろあちこち行きたい自分もいたけど、僕はここで暮らしてゆく方の自分を選んだ。
それは葉月の母親である僕の妻との出逢いもあったからだけどね。
君もゆっくりと大切な物を探せばいい。
そしてそれをどうするかを考えるんだよ。それが君の答えになる事だと思うよ」
「ありがとうございます」
と、揮宇は礼を言った。
「ああ、引き止めて悪かったね。つまらない話をしちゃって」
と、葉月の父親は言う。
「いえ、そんな事は」
そう言ってから、揮宇は如月葉月の方を見た。
如月葉月は何も言わず、じっと立ち上がった揮宇の方を見ていた。
「じゃあ、また」
と、揮宇は言った。
「じゃあね」
と、言って手を振り、如月葉月は笑顔になった。
ぎこちない感じで、揮宇はそのまま山を後にした。
「お父さん、珍しくよく喋ったわね」
と、如月葉月は父親に言った。
「いや、なんか珍しい人に会うと話したくなってね。自分にも似ている気がしたし」
「そう?どこが」
白髪頭でしわの増えた父親を見て、葉月は父親にそう言う。
「葉月は、あの子の事が好きか?」
「な、なに言い出すの?そんなんじゃないよ。ただ、荷物を運んでくれたの」
と言って、如月葉月は顔を赤く染めた。
森の川の流れはいつもより穏やかだった。
揮宇はそんな坂道を走り降りていった。
どうしてか、落ち着かない気持ちでいっぱいになった。
雨に沈む町 22.町にいる理由
「ゆっくりしてゆくといいわ」
と、如月葉月は言う。
揮宇(きう)はただ頷く。
「静かでいい場所だね」
と、少し間が持たなく感じられた揮宇が如月葉月に話しかける。
「そうでもないよ。退屈!退屈でしょうがないの。ここ」
静かなロッジの中にいる。大きな窓の外は森林の景色が広がっている。
揮宇はいつか地元の友達と言ったキャンプの景色を思い出す。
揮宇にとっては少しだけ現実を離れた場所に来た気がする。
その事が気持ちを喜ばせてくれている。
でも疲れがどっとやってきた。
坂道を上ってきた疲れもあるけど、ここ一週間あまりよく眠れずに過ごしていたせいもある。
眠りたい気持ちが体中に訪れる。魔法の薬を飲まされたように温かいジャスミンティーが揮宇の眠気をより強める。それでもおいしいから飲んでしまう。
「前々から疑問だったんだけど、どうしてあなたはこの町に残ったの?
最初に会ったとき、あなたは出て行くって行ってたのに」
如月葉月の問いに揮宇の目は少しだけ覚める。
「たしかに!僕は出て行く事もできたけど、僕はこの町に居ついていた」
「どうして?」
「行く場所が他に思いつかなかったからかな」
その回答に如月葉月は少し考えてみる。
そして尋ねる。
「揮宇さんは、旅をしていたの?それとも、家出してきたの?」
今度は揮宇が少し考えてみる。
秋に、森へと散歩に出掛け、秋の森に迷い込み、気づいたらここに出てきた。
つまりそれは…
「迷子になったようなものかな?」
如月葉月はにこりと微笑んだ。
そしてジャスミンティーを一口啜って落ち着いてから言う。
「ふふっ、大きな迷子ね
お父さん、どこにいるの?って叫べばよかったのに。
お母さん、ここにいるよ。って泣いちゃえば誰かが助けくれたかも」
揮宇はうつむいて黙り込んだ。
「あっ、怒った?冗談だよ」
「いや、僕はただ、親を呼ぼうとはしなかったんだよ。
きっと迷子になりたかったんだ。
迷子になって、自由になって、そして誰かと別の場所で暮らしたかった。
誰か別の人に気づいてほしかった。わかってほしかった。」
「何をわかってほしかったの?」
と、如月葉月はすぐさま尋ねる。
何を?
「ただ、なんていうか、ただ単純に、つまり、その…」
揮宇は言葉を喉に詰まらせている。
「つまり、その?」
「好み合うっていうか、互いが望み合うっていうか、なんというか…」
「愛?」
と、如月葉月が言う。
「まあ、そういう事」
揮宇は変な汗を脇にかいていた。
如月葉月も自分で言ってしまった言葉を恥ずかしく思い、顔を赤らめた。
二人の間にはしばらく出てくる言葉が出てこなかった。
話を逸らそうと考えた揮宇だが、その取っ掛かりが見つからない。
あまりに真面目に話してしまった揮宇と、その言葉を発してしまった少女。
とりあえず、カップに余っていたジャスミンティーを飲んで、間を繋ぐ。
揮宇の眠気もすっかり覚めてしまった。
「そろそろ行こうかな?」
と、揮宇はうつむきながら言う。
「う、うん。そうだね」
笑顔で答える。
「今日はありがとう」
「いや、いいよ」
立ち上がり、部屋の外へと、如月葉月も見送りについてくる。
ぎこちない感じの別れだ。このまま別れてしまっていいのだろうか。
木の扉を前に躊躇する。扉のドアノブ。さて、そこで、それから。
雨に沈む町 21.如月葉月の家
揮宇と如月葉月の続き。
僕らは歩いた。
とても長い距離を。
川はやがて渓流のようになり、滝のようになり、息を切らせるほどの山道は続いた。
「君はいつもこの道を歩いてくるの?」
と、僕は君に尋ねる。
「そう!晴れた日はこの道を下って」
「大変だね」
「行きはよいよい、駆け下りて15分。帰りは1時間。大変!
でも仕方ないの。ダムはこの町の要だから」
「それだけ大変な仕事をしているんなら、誰かが手伝いにくればいいのに」
「食料の買出しはわたしがやるって言い出したの。
だってそうでも言わないと、わたしはこの山の上にずっと閉じ込められたままですもの」
雨に沈む町に閉じ込められている僕だけど、君は山にまで閉じ込められている。
そんな君の気持ちに同情する。
僕の心臓はもうバクバクで、運動不足もたたって、もう歩けない。
そんな時に如月葉月の家に着く。
「ありがとう!」
と、君は僕に礼を言った。
僕は荷物を渡して、「いやいいよ」と言い、帰るつもりだったが、
「はあ、はあ、はあ」
と息切れが止まらない。
「お疲れね」
と、君は笑いながら僕に言い、「少し休んでゆくといいわ」と付け加えた。
「いやいいよ」と言って立ち去るところを見せたい僕であったが、
「いいかな?」と言って、君の家にお邪魔する僕がいた。
ロッジのような丸太で作られた家にお邪魔する。
ガラス戸に覆われた、ペンションのロビーのようなところに通される。
「ちょっと待っててね」
と言って、君は持ってきた荷物を扉の向こうへと持ち去り、消えてゆく。
静かな整然とした一室に小さな笑い声が聞こえる。
扉の向こうで、君は誰かと話しているようだ。
数分待つと君が現れ、君の母親と思われる人が現れた。
僕の知る限り、その人の名前は如月卯月さんだ。
「こんにちは。今日は娘のためにありがとうね」
と、母親は言う。
そして、お茶を僕のために出してくれた。
「いえ、わざわざすみません。すぐに帰るつもりだったんですけど」
と、僕は答える。
「いいえ、ゆっくりしていってね」
と、母親は答え、奥へと引っ込んでゆく。
如月葉月はテーブル越しに座り、先にお茶を飲む。
「飲んで、体が温まるよ」
山の上だけあって、僕には少しこの場が寒々しく感じられる。汗をかいたせいもあるかもしれない。
「いただく」
そう言って、僕はお茶に口を付けた。
仄かな甘酸っぱい香りのするジャスミンティーだ。
あるいはジャスミンティーではないのかもしれない。
幸せな気持ちにさせられる。
君に恋心があるわけではないが、ここで君と暮らすのも悪くはないと思う。
僕がお茶に喜んだ顔を見せると、君はにこりと微笑んだ。
妄想的な世界観で、揮宇は如月葉月に付き合い、如月葉月の家までやってきた。
お茶に安らぐ、少しだけ甘酸っぱい時間が続く。