延期になったので 鈴鹿2&4レース1991年 TT-F1 & F3編
新型コロナ蔓延防止対策で、全日本JSB1000クラスとスーパーフォーミュラの開幕戦になる鈴鹿2&4レースが延期になった。
開催できるとしたら両レースとも最終戦に土・日決勝が妥当だろう。
そうなると、その週末にセッティングを一番合わせられた選手が連勝してポイントも大逆転-みたいな事になるのだろう。
2&4は二輪と四輪の最高クラスが一緒に観られるオイシイイベントなのだが、時期的な事もあってドルフィンはあまり観戦に行けていない。
初めて観戦に行ったのは1991年だった―。
四輪はF3000とF3、二輪は500ccクラスではなく、TT-F1とTT-F3が開催された。
TT-F1は鈴鹿8耐で、TT-F3は鈴鹿4耐で観て来たマシンということもあって楽しめた。
TT-F1は4スト750ccまたは2スト500cc以下の公道用市販車をベースにした改造車だが、市販車のクランクケースを使用していれば、フレーム交換やサスペンションの構造変更も可能という魔改造が許されたトンデモナイマシン達だった。そこが魅力。
国内4メーカーが参戦しているので競争が激しかった。
宮崎祥司選手/anブルーフォックス・ホンダVFR750
1991年にシリーズチャンピオンを獲得。
宮崎選手に頂いたサイン
当時はピットウォークも無かったし、彼女と初めて鈴鹿に行ったので動き回る事もしていないのに、どこで頂いたのだろう? 記憶が無い。2輪4輪の選手何名かにサインを頂いている。
ヤマハの加藤信吾選手に頂いたサイン
青木正直選手/ヨシムラ・スズキ・シェットGP-1 GSX-R750
タイガー・宗和孝宏選手/シンエツ・カワサキZXR-7
アグレッシブな走りで観客を魅了していた。
宗和選手に頂いたサイン
優勝:ダリル・ビーティー選手/HRCホンダRVF750
2位:宮崎祥司選手/ブルーフォックスRVF750
3位:永井康友選手/ヤマハYZE750
永井選手の笑顔が懐かしい…。
全日本F3
バブル好景気で参加台数も多かった。予選はA/Bに分けて行われていたほど。
パウロ・カーカッシ選手/トムス031F/トムス-トヨタ3S-G
1991年のシリーズチャンピオンを獲得。カーカッシ選手はF3000にもダブルエントリーしていた。
土屋圭市選手/ラルトRT35/無限
延期になったので 右京選手初優勝 1991年 鈴鹿2&4レース
スーパーフォーミュラ開幕戦・鈴鹿2&4レースが延期になってしまったので、「2&4レース」を観に行った時の写真を掲載。
鈴鹿へはF2やF3000レースを観戦に行っていたが「この時付き合い始めた彼女と一緒に行ったなぁ」などと思い出に浸る。
鈴鹿で仲良くなった友人も彼女を連れて来ていたので、レース後に合流して遊園地入り口近くにあったレストランでおしゃべりしたな。
全日本F3000
この当時のF3000は特異的な進化を遂げていて—
シャシーはローラ、レイナード、ローラ、ラルト、童夢、レイトンハウスの6メーカー。加えて最新技術が投入された新車、熟成された旧車が混ざっていた。
エンジンは無限、DFVの二種だが、数社のエンジンチューナーによって特性が異なっていた。
タイヤはブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマの3社。Qタイヤと決勝タイヤがあった。
この組み合わせは覚えきれなかった。
バブル期で参加台数が多く、予選落ちもあった。
予選落ちをすると決勝日にはピットにはマシンとキャンギャルだけがいるという状態だった。
このF1にも劣らぬハード面の競争もF3000の魅力だった。年間11戦あったが集客力はあった。
片山右京選手/CABINローラT90/50/DFV/BS
ヒーローズレーシングに移籍して2年目。開幕前から「チャンピオンを獲得してF1へ」と噂されていた。
右京選手のローラT90は近年、サウンド・オブ・エンジンでも走行している。
ローラT 90はF3000マシンの中でも一番好きなマシンだ。
星野一義選手/CABINローラT90/50/無限/BS
前年にチャンピオンを獲得。
’91年は優勝2回と2位1回あるが、他は全てリタイアだった。
マシンカラーは右京選手と同じキャビンだが、チームはホシノレーシングで別。
小河等選手/KYGNUS.TONEN.ローラT90/無限/BS
’89年チャンピオン。
優勝は生涯1勝だが常に上位入賞していてシリーズランキングも必ず上位に食い込んでいた。
このレースでもスタート直後から右京選手の背後にピッタリと付けていたが、最後まで右京選手を崩しきれなかった。
シケインで服部尚貴戦選手が接触によりクラッシュ
付き合い始めた彼女とレース観戦は初めてだったので、動き回らずシケインで観戦。
当時はまだ立派なスタンドではなく、最終コーナースタンドのようにコンクリートの段差だけだったと思う。
エディー・アーバイン選手/コスモオイル・ローラT90/無限/ヨコハマ
2年後の’93年にF1デビュー。日本で走り日本のF3000を高く評価してくれていたアーバイン選手のF1昇格は嬉しかった。しかも日本GPで。
F1日本GPで首位争いのセナ選手とヒル選手の争いを「遅いから抜いちゃっちゃよ~ん」状態は痛快だった。
ロス・チーバー選手/PROMISEレイナード91D/無限/BS
長く日本で走り、優勝はもちろん常に上位にいたので人気も高かった。
F3000デビュー後4年間は童夢で走っていたが、ロス・チーバー選手はその後のレイナードのイメージが強い。
関谷正徳選手/レイトンハウス・ローラT90/無限/BS
シリーズ途中でレイトンハウスのオリジナルシャシーのスイッチする。
関谷選手に頂いたサイン
サインペンの出が悪く、この日に頂いたサインはみんな霞んでしまった。
松本恵二選手に頂いたサイン
優勝:片山右京選手
右京選手はF3000初優勝。2位となった小河等選手は憮然とした表情のまま。
右京選手の初優勝レースを見られて感激。
モーター誌でフランス修行時代からコラムを連載していたので、ずっと応援していた。
第2回サウンド・オブ・エンジンにゲストで来られた際に、サインを頂いた時に「フランス時代から応援してきましたよ」と、お伝えすると、周囲にいたファンの方々も「そうそう」と同意して下さった。共感して頂き「みんなそうなんだ」と嬉しかった。
サウンド・オブ・エンジンで初優勝の写真に右京選手のサインを入れて頂いた
「この(ポーズの)写真、僕も持ってますよ」と右京氏。
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フォーミュラ・ニッポン発足レセプション ラルフとトラは不参加 後編
全日本F300に代わり1996年から日本のトップフォーミュラとして発足した「フォーミュラ・ニッポン」。
初テスト前に新高輪プリンスホテルで行われた「オープニングレセプション」に参加してきた。
ドライバーを囲んで談笑するような大人のパーティーかと思いきや、ホテルで行うピットウォークのようなものだった…。
PIAA NAKAJIMA RACING/レイナード96D 高木虎之介車
やっぱりキャンギャルはハイレグ❤が王道ですな。
前年、F3000フル参戦でシリーズランキング2位を獲得し❝次期F1ドライバー❞と期待が高まっていた高木虎之介選手は不参加。嫌だったんだろうな。
「フォーミュラ・ニッポン」の略語としてモーター誌が「エフポン」と名付けてしまった。ドライバーや関係者も使いはじめてしまった。
このなんとも間抜けた響きが「カッコ悪い」というイメージを定着させてしまった事は否めない。本来は盛り上げて飯のネタにしなくてはならないメディアが将来的には自分の首を絞める結果になろうとは…。
ドルフィンはこの響きが嫌いで、「エフエヌ」と呼んでいた。
服部尚貴選手/X-JAPAN Racing Team LeMans/レイナード96D
ミハエル・シューマッハ選手の弟として鳴り物入りで参戦する予定だったラルフ・シューマッハ選手は不参加。
’96年シーズンはJGTCともに服部選手とラルフ・シュー選手が圧倒することになる。
「X-JAPAN」のロゴが入るだけで神々しいほどカッコ良くなる
ペドロ・デ・ラ・ロサ選手/SHIONOGI TEAM NOVA/ローラT96/51
翌’97年にフォーミュラ・ニッポンとJGTCのダブルチャンピオンに輝く。
F1は'99年から足掛け9シーズンも過ごすことになる。
ノルベルト・フォンタナ選手は’97年にF1スポット参戦。CATRシリーズにもスポット参戦した。
FUNAI SUPER AGURI/鈴木亜久里監督
F1を完全引退し、日本で自チームを立ち上げた1年目。
金石勝智選手/FUNAI SUPER AGURI/レイナード95D
金石監督、昔と全然容姿が変わらないなぁ。
この時はまだメインスポンサーが発表されていなかった。
大西太一郎選手/パルチェッカーズ/ローラT94/50
影山正美選手はADVANとワークス契約。ADVANパルチェッカーズのチーム名で参戦。
田嶋栄一選手/ART BRILLANTガルウイング/ローラT94
ゼット チーム コルサ/戸田哲史選手車
ゼットコルサは参戦を取りやめ。
ASAHI KIKO SPORT/ローラT93 川本篤選手車
光貞秀俊選手/TEAM 5ZIGEN/ローラT94/50
こうして幕を開けたフォーミュラ・ニッポンは2012年までシリーズが継続されていった。
FNの初走行は富士スピードウェイのテストから。
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スポーツチックなイエローの車が走る NCCR葛城-五條
フェラーリ458スペチアーレ
鮮やかなイエローの車はスポーツ感がある。
NCCR葛城-五條でもイエローの車両が多く参加していた。
近年ではスーパーカー系の塗装には複雑なパールカラーが使用されることが多くなって「イエロー」とキッチリ区分けできるスーパーカーが少なくなった。
この大会にも多く参加しているマクラーレンとかも顕著に表れている。
スタート地点近くの山で栽培されていた菊
葛城山麓には秋の花が咲いていた。
アバルト595コンペティオーネ
アルファロメオRZ
「日刊自動車新聞CUPディーラー対抗クラス」が設けられていて、ランボルギーニ大阪とコーンズ大阪の参加車両。
ホンダS2000
ホンダカーズ大和奈良のマーシャルカー。
ホンダS660
スタッフの方の車かな?
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新生!フォーミュラ・ニッポンの夜明けぜよ オープニングレセプションに行った前編
1996年、日本のトップフォーミュラはヨーロッパとは異なる独自路線を打ち出してF3000から「フォーミュラ・ニッポン」を発足させた。
公式テストに先立ち、東京の新高輪プリンスホテルで「オープニングレセプション」を開催。申し込めば一般ファンも参加できた。
雑誌の告知や招待ハガキの内容からドライバーを交えたパーティーのようなものと察せられた。
招待ハガキのコピー
このイベントに東京の友人2名、ドルフィンは静岡から、そして大阪の友人も加わり4名で参加した。
ホテルでの催しとあって、カジュアル・スーツで臨んだ。
フォーミュラ・ニッポン イメージガール
TV放送では番組主題歌を担当したりしていた
―実際は想像と異なっていた。ドライバーは終始いるわけでは無く、サインやちょっとしたお喋りはできるもののゆっくり話するのは無理。かと言ってトークショーがある訳でもなく、各チームばらばら。ドリンクや軽食はもちろん無い。
❝ホテルで行われるピットウォーク❞みたいな感じだった。大阪の友人は「大阪から来る意味ない!」と怒っていた。
会長の国さん(高橋国光氏)
フォーミュラ・ニッポンからは1チーム2台体制が基本になった。
参加者にはA4サイズのチーム紹介冊子が用意された
参加者には参戦チームが紹介された冊子が用意された。
ここにドライバーのサインを頂くことにした。
各チームのキャンギャルは勢ぞろいだった。
鈴木利男選手/かもめサービスRACING TEAM with IMPUL/ローラT96/94
全日本F3000最後のチャンピオン。新生フォーミュラ・ニッポンではゼッケン「1」を付けてシーズンに臨む。
ナビコネクション・レーシング /レイナード96D 影山正美車
舘ひろし監督、近藤真彦選手は不参加。
童夢with 無限
童夢は2カー各々別のスポンサーが付いていた。
松本恵二監督
山本勝巳選手/TEAM ANABUK 童夢with 無限 /童夢F104i
羽根幸浩選手/スリムビューティーハウスCERUMO/ローラT94/50
アンドリュー・ギルバート・スコット選手/神奈川クリニックSTELLAR/レイナード95D
A・G・スコット選手とミハエル・クルム選手
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「8時だヨ!全員集合」で育った世代 ~ザ・ドリフターズの思い出
志村けんさんのご冥福をお祈りいたします
ネコパブでブログを書いていた頃に「ザ・ドリフターズ」の思い出を書いていたので、再掲載します。
写真は実家にあるので、昔ブログに載せたものを使用しています。
関東圏に住んでいたので「よしもと」よりも『8時だョ!全員集合』で育った世代だ。
毎周土曜日が楽しみで仕方なかった。男女問わずクラスの全員近くが観ていただろう。
そしていつかはウチの町のホールにも来てくれるだろうと願っていた。
だが、様々な町のホールで行われた超人気の生公開番組は、遂に我が町にやって来ることはなく幕を閉じてしまった。
「近所の文化センターに来て欲しい」との子供心は届かず、その文化センターも十数年前に役目を終えて取り壊されていた―。
大阪に引っ越す際にアルバムを整理していて発見した。ドリフはウチの町に来ていた!―と。
百恵ちゃんやキャンディーズ、ピンクレディー同様に「ザ・ドリフターズ ショー」として文化センターで公演していたのだ。
昔はデパートや商店街が「いくら以上のレシートで〇〇ショーにご招待」のキャンペーンを展開していた。
写真を見て薄っすらとした記憶が蘇って来る。
志村けんサン
年代的に荒井注サンが抜け、志村けんサンが加入した直後くらいだろう。
『全員集合』のように生バンドを引き連れての大所帯。
セットこそ組まれなかったが、コントを披露してくれた。
写真撮影位置から察するに、ステージ“かぶりつき”の場所で見ていたようだ。
当時最大のギャグ、カトちゃんの「チョットだけヨ♪」に沸く会場。写真を撮るもストロボ発光のために“赤いピンスポット”が分からなくなってしまっている。
カトちゃんの「ちょっとだけヨ♪」

ショーのトークで長さんが隣町出身だと知った。終わってから(地元に)帰ったとか帰らないとか…。
現在はその地元に小さな記念館が作られたらしいのだが??
TVのような大規模コントではなかったが、少年少女たちは生ドリフを見て満足したのだった。
「東村山音頭」のレコード持っていたなぁ。
レコードとして録音されているのでちょっと❝上品❞な感じになっていた。やはりライブのノリが重要だ。
今でもたまに口ずさんでいる。
正直、「ひげダンス」の頃は年齢的にもう見ていなかった。
逆に近年は「志村どうぶつ園」を観て癒されていた。
喜劇王よ、永遠に―
「志村、うしろ! うしろ!」
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転倒続出 選手、観客一体となった雨の「鈴鹿4耐」初観戦 1984年
初めてのロードレース観戦は1984年の鈴鹿8耐だった。
❝初めての決勝観戦❞となると土曜日に開催された鈴鹿4時間耐久オートバイレースになる。
「ノービスの祭典」と呼ばれ、出場台数も急上昇していた。
清水國明さんの国武舞も参戦して注目を浴びていた。
漫画『バリバリ伝説』の4耐編は今でも好きで、8耐観戦前には読んで気分を高めている。
金曜日の予選は好天だった。
予備予選を突破したチームが予選に臨み、決勝は予選順のゼッケンになる。
ゼッケンが3ケタまであるほど参加台数が多かった
土曜日は時折雨が降る怪しい天気だった。
「雨なら転倒が多くなるから2コーナー席で観よう」と決めて、土手に丸太を置いただけの2コーナー席に陣取った。
4耐決勝スタート
果たしてスタートを切るやスッテンスッテンと転倒続出。
雨なので転んで滑るがマシンは無事な場合が多いらしく、再スタートを試みる選手たち。そんな選手たちに声援を送り、エンジンがかかると拍手を贈る。選手とお客さんの一体感に心が震えた。
そしていつじか自分達も選手に声援を送り、拍手をしていた。
「これが2輪レースのいいところなんだな」と。
現在では2018年2019年のような台風直撃でも無い限り、ここまで多くの転倒者はでないだろう。人車ともにレベルが上がっている。
この後、滑ったマシンがコース脇にいるマシンに激突。選手が下敷きになった!-とヒヤリとしたが、無事に立ち上がったのだった
トップ争いでも転倒があった。
転倒せずに走り切ったチームが優勝した。
健闘をたたえ合いながら最終コーナーを下ってくる優勝車と2位
4耐はアマチュアなだけにがむしゃら感が伝わって来て感動的なレースだった。
4耐の正式な表彰式は日曜日の8耐決勝前に行われていた
全てが新鮮 初めてのロードレース観戦は「鈴鹿8耐」1984年
’80年代は空前のバイクブームだった。何が起源になっているのか分からないが、気が付けばみんなバイクに乗っていた。
漫画『ふたり鷹』にも描かれていた鈴鹿8時間耐久オートバイレース観戦に初めて行ったのは1984年の事だった。
8耐はおろか、ロードレースの生観戦すら初めてだ。
宿泊や導入部分は昨年書いた「鈴鹿8耐観戦に行き始めた頃、世はバイクブームだった」を読んでください。
4輪レースは好きだったがバイクは嫌いだった。
実家の裏がバイク暴走族のたまり場になっていた事や、暴走族問題で富士スピードウェイが閉鎖の危機に陥った事があった。
そんなイメージを変えてくれたのが偶然TVで観たロードレース(たぶん全日本最終戦)だった。
雨のレースでスリリングな展開。「バイクのレースって面白いんだ」と気持ちが大きく変わった。
その2年後くらいに映画『汚れた英雄』が公開され、観に行って夢中になった。
バイク漫画の数々…。
一緒に行った友人はF2・鈴鹿グレート20を観戦に来た神奈川に住む友人だ。
夏の暑さと人の多さに圧倒されてしまった。
8耐で初めて見たコカ・コーラのBIGサイズ! 紙カップにストローを差し込んで飲むヤツだ。資金が少ないので、本当に暑くてたまらない時に飲んだ。
昔は最終コーナー近くにあった軽食コーナーに冷水器があって飲むことができた。飲んでも飲んでも喉が渇く。
ヘアピンに向かう歩道に、地元の方(?)が出していたナン百円かで「スイカ食べ放題」している露店も出ていた。昔はゆるかったな。さすがにスイカはそんなに食べられないだろう―と試さなかったが(笑)。
この年からコカ・コーラが冠スポンサーについたそうだ。
鈴鹿サーキットクィーンのお姉さん
金曜日は4耐本予選(参加台数が多かったため予選に出る予備予選もあった)と8耐フリー走行。コーナーを歩き回って観戦した。友人はコーナーに出るのは初めて。
初めてということもあってあまり選手に詳しくないままの観戦だ。
土曜日の4耐決勝はまた別の機会に-。
生沢徹監督とホワイトバッファローと水着のお姉さん
チームイクザワ/生沢徹監督、無限/本田博俊氏、ムーンクラフト/由良拓也氏が極力して作り上げたホワイトバッファロー。
加えて水着のお姉さんまでマシン脇に立たせた。ドルフィンはこのお姉さんが「レースクイーン」とは一線を画す「キャンギャル」の元祖だと思う。
日本一カッコイイ男は新たな文化を作ったのだ。
8耐のル・マン式スタート
2コーナー~S字までの席がビッシリいっぱいになっている
いくら2コーナースタンドが無かったからとはいえ、当時のS字席は土手に丸太を設置した席だった。そこに人が詰めて座っていたのだ。
ル・マン式スタート自体は4輪の富士ロングディスタンスで観た事があったが2輪はまた違う迫力がある。
エンジンの爆音。観客の大歓声。お客さんが多いので歓声もハンパない。1日で一番アツくなる時間。
なかなかスタートできないマシンを後続が次々追い抜いてゆく。ぶつかりやしないかと観ていてハラハラする。
#12ヨシムラ・スズキGSX-R
いち早くアルミフレームを採用した#30モリワキ・モンスター
当時の鈴鹿8耐は海外チーム、海外選手が圧倒的に強かった。
翌年まで日本人の優勝者は出ていなかったくらいだ。
ストレートの先に❝何も無い❞
決勝レース中はプールに行って涼をとっていたりもした。プールは観戦チケットと別料金だったと思う。
特に応援している選手やチームが無かったので、心置きなくプールに行けた(笑)。今ならひと時も目を離すことができないだろう。
当時の資料が無いため、データ系が詳しく書けない。
優勝:M.ボールドウィン/F.マーケル組/ホンダRS750R
優勝者だけでなく、フィニッシュした全てのライダーに拍手を贈り称えている観客を見て感動してしまった。
2位
3位
ホンダが1-2-3を独占し「やはり鈴鹿8耐はホンダが強んだな」と感じた。
グランドスタンド前で行われていた表彰式
女性ライダーペア、シェリー・フライダス/井形マリ組も24位完走
フィニッシュ後の花火は伝統
帰りの人混み、バス待ちが大変だった。
特にドルフィンは無計画に日焼けしてしまったので、肌が赤を通り越して紫に。荷物すら背負えない状態になっていた。一緒に行った友人に迷惑をかけてしまった事は今でも申し訳なく思っている。
現役F1が5年ぶりに日本で走った ウイリアムズ/ホンダF1鈴鹿テスト1984年
1977年に富士スピードウェイで開催されたF1日本GPを最後に、鈴鹿で日本GPが開催される’87年まで日本には10年ものF1空白期間があった。
今日(こんにち)F1日本GPが連続開催されている事はとても素晴らしい。
’76年、’77年にF1観戦をして魅了されたものの、それっきりになって❝おあずけ❞されていたのが一番多感で興味が強い少年期だった。子供の10年は長い!
その間にウイングカー全盛期があり終焉も迎えた。エンジンはターボ主流になっていた。
そしてホンダが15年ぶりにF1活動を再開。
’83年にスピリットへF1ターボエンジンを供給しての参戦が始まった。
さらに急展開。最終戦にトップチームであるウイリアムズにも供給されるようになった。
翌年早々。日付は定かではないが、鈴鹿でF1テストが行われ一般公開されると告知された。
しかも現役F1マシンと現役ドライバーのケケ・ロズベルグ選手とジャック・ラフィー選手が来日するのだ! もう血が湧きたった。
ちょうど名古屋に住んでいたので、試験終わりに四日市の友人と共に鈴鹿サーキットに向かった。F1テスト1日目だ。
時間が惜しいので駅からタクシー。到着は夕方になっていたが、ウイリアムズFW09が走っていた。
体が震えた。5年ぶりの現役F1の走行だ。そして初めてのF1ターボエンジンの音。あの感激は一生忘れられない。
今だったら非常に多くのファンが押し寄せただろうが、当時としても熱心なファンが集まっていた。
この日は四日市の友人宅に泊まらせて頂き、翌日は朝から一人で鈴鹿サーキットに出かけた。
二人のドライバーが一緒に来日するのではなく、テスト1日目・2日目はジャック・ラフィー選手が担当。3日目・4日目をケケ・ロズベルグ選手が行った。
なのでドルフィンは’82年ワールドチャンピオンのケケ選手に会うことはできなかった。
ホンダRA164Eターボエンジン
リジェで’76、’77年の日本GPも走ったジャック・ラフィー選手。
『赤いペガサス』にも登場している。
ウイングカー時代には開幕から連勝もした憧れのドライバーのひとりだ。
ラフィー選手が目の前で走っている―それだけで体が興奮で爆発しそうになる。
ラフィー選手のお昼はドライバーズサロンで取っていた。現在ある「SUZUKA-ZE」の二代前のドラサロだ。コントロールセンターの後ろ側にあった平屋だったと記憶する。
石油ストーブが炊かれたドラサロのテーブルにチームの方(マネージャー?)と話をされていた。
しばらくタイミングを見計らってサインをお願いした。笑顔でサインを書いて下さった。
嬉しくてうれしくて…あの時自分はどんな表情をしていたのだろう?
「I'm your fan.」(私はあなたのファンです)とお伝えしたのだが、発音が悪かったのか、「Oh! you my friend?」(あなたは私の友人ですか)と返された事を強く記憶に残っている。
「一緒に写真を」などと、恐れ多くて頭の片隅にも浮かばなかった。
ジャック・ラフィー選手に色紙に書いて頂いたサイン
「Suzuka84」と入れて下さった。
ミニカーはラフィー選手のモデルが欲しかったが、先にミニチャンプスからケケ選手の優勝モデルが発売になった。まあ、そうなるだろうが。
ラフィー選手モのデルが出るか分からなかったので、買えなくなる前に—と、ケケ選手モデルを購入した。
ケケ・ロズベルグ選手/ウイリアムズFW09ホンダ ダラスGP優勝モデル
手前に置いたモスグリーンのグラスファイバーは、鈴鹿テストの際に切り落とされたFW09のサイドポンツーンの破片。
ピット上のエリアから撮影?
次にラフィー氏にお会い出来たのは'99年の日本GP。
TV解説者として鈴鹿に来られていた。グランドスタンド裏(現在と全く異なる地形)の道でフランスの撮影隊と遭遇。目ン玉が飛び出るほどブッたまげた。
「まさかここでラフィー氏に逢うとは!?」。速攻でサイン帳を取り出してサインを頂いた。
―が、サインをもらいに行ったのはドルフィンだけ。周囲にいた多くの観客は「あ~あ、外国人だとドライバーと間違えてサインもらうヤツいるんだよなぁ」的な目で見ているだけ。「タイトル争いした名ドライバーなんだってばさ!! みんな、サインもらいに行けよ~!」と叫びたくなった。
今でも日本GPにはリポーターとして来られているらしい。
サウンド・オブ・エンジンとかにドライバーとして来てほしいな。
ウイリアムズFW09ホンダは日本でレースはしていない。
次にその姿を見たのは’92年のF1日本GPで展示されていたケケ選手優勝マシンだった。
3度目は2015年のファン感謝デー「伝説の物語」でホンダF1総展示された時だった。ノーズにTAGのロゴが入っているが…。
ホンダF1鈴鹿テストは公開だったため、ホンダのマシンも広場に展示されて❝イベント❞っぽく盛り上げられていた。
F1初優勝したRA272
優勝1回、3位1回の成績を上げたRA300
欧F2を圧倒したラルト/ホンダ RH6
この年のF2開幕戦からスタートすることになっていた「シティ・ターボⅡブルドックレース」のマシンも先行公開されていた。
シティターボⅡは好きで、いずれは乗りたい車だった(結局乗ることは無かったが)。オーバーフェンダーのスタイルやパワー。魅力的な車だった。
レースは激しいぶつかり合いで、重心が高いので毎回派手な転倒シーンが観られた。
松田秀士選手も出場。義兄・ビートたけしさんの番組で毎戦放送されていた。
ホンダで頂いたステッカー









































































































































