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49日の法要が先日おわりました。


わたしはスピリチュアルな世界を信じているから、今はきっとお父さんは天国に着いた頃かなぁって思っています。

会食の席では恒例の大宴会。

料亭の仲居さんにまた言われました。

『こんなに賑やかな法事は初めてです。』って。

仲居さんにもお酒を進める親戚のおじちゃん達。


私のおじちゃん達はみんな酒飲み。


雰囲気でお酒を楽しむ飲み方は父と似ています。


結局家に帰っても宴は続き、我が家で寝てしまいました。

お父さんはきっと喜んでるだろな。


我が家には父方のおじいちゃんおばあちゃんはもう亡くなっていない。


父も亡くなっていない。


だけど父方の親戚とは仲良くしてもらえてる。


この関係を大切にしていく事が私のできる父や祖父、祖母への恩返しかな。

昨日は、少しだけ父の部屋を片付けました。



といってもほんとに少しだけ。



父のたんすの整理。



父の衣類の整理と同じくらいにおばあちゃんの衣類も出できました。



というかおばあちゃんの衣類の方が多かったかも。



父が癌だと分かった少しあとに、おばあちゃんも癌だと分かった4年前。



あの頃から我が家の時間は止まってる。



振り返る暇も余裕もなく時間が止まったままの部屋。



服を見ると、生前のおばあちゃんを思い出す。



服を見ると、生前のお父さんを思い出す。



だけど何かで聞いた。 『亡くなった人のものをいつまでも置いておくと、魂がどこへ行っていいのか迷う』って。



だから、おばあちゃんのものも、お父さんの物も、この家から亡くさないと成仏できない気がしてひたすら処分。



お母さんがこれは捨ててほしくないって言ったお父さんの服を何着か残し、



捨てるのはもったいないからと、リサイクルショップに服を持っていった。



20着くらいあったんだけど、おばあちゃんの服は高価な服が多かったから少し期待してた。



リサイクルショップで言われた値段・・・590円なり。



いやー二束三文にもならないって聞いていたけど、こんなに安いの??



なんだか思い出の金額が590円って言われたような気がしてむなしさが残った。



だけど、ごみになるよりはいいかな。って自分に言い聞かした。




今月の末に49日がやってくる。



そして来月の頭には納骨。



お父さんがこの家から本当にいなくなっちゃうんだ。



最近、お父さんを思い出す時間が減った。



というよりも、わざと思い出さないようにしてるっていうほうが正しいのかも。




正直このブログもあまり見返さなくなった。



最近やたらパワーダウンしてる。



これがいろんな人に言われたガクってくるやつなのかな。


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父が亡くなって1ヶ月がたった。



今日は母とお墓参りに行ってきた。



生前父が涙を流しながら言っていた 「川を渡れ言いやがる」 って。



そのとき父が言っていた川は実はお墓の近くに流れる川。



その川沿いを通りながら、あの時父が見た川はこの川なのかなぁってふと思った。



そういえば、このブログを書いていてよかったなぁと最近よく思う。



あの日のことがここには残ってて、普通に生活していると忘れてしまってる些細なことがブログを読むことで思い出せるから。



母とブログの話になったんだけど、



実は以前おばあちゃんを看取った時も少しブログに書いていた。



けれどブログを書き始めたのは4年前。



おばあちゃんを看取ったのは5年前。



1年のブランクはあるけれど、今もその日記は残ってる。



今日は、そのときの日記をここに残しておこうと思います。


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2003年11月27日(Thu)17時40分
延命治療


今日は夜勤明け。

仕事の最中なぜか入所者のあるおじいちゃんのことが気になって仕方なく、家に帰っても頭から離れなかった。


2ヶ月前、そのおじいちゃんが入院した。

この間、病院へお見舞いに行くと、おじいちゃんの容態は変わっていた。

食べ物を口から摂取することができなくなってた。

口から栄養がとれなくなった。

点滴をして栄養を血管に送り込む。

その点滴を自分で抜いてしまうから、ベッドに手を縛られる。

それをとろうとして引っ張るから手首はあざだらけ。

体は骨と皮みたく痩せ細っている。

施設にいたころとは別人に感じられた。

声を掛けても反応なく、ボーッと天井を見ている。

私には手をさすってあげることしかできなかった。

私はただの介護福祉士。

さまざまな家族の形があり思いがある。

私があれこれ言うことではない。 大切な人が生きている。

それだけが生きる希望だったり、大切なひとを失いたくないという気持ち。様々な思いがあって延命治療が施される。

私は昨年祖母を家で看取った。

みんなで決めた。

延命治療はせず、自然に逝かせてあげようって。

だんだん御飯が食べれなくなった。

だんだん点滴が入らなくなった。

そして点滴が外された。

死をまつだけになった。

あれだけ自然に逝かせてあげたいって思ってたのに本当に死を待つだけになった時、凄く恐かった。

そんなの嫌だと思った。

時間が止まって欲しいと強く願った。

そんなある日、おばあちゃんは意識がもうろうとする中、私に「ありがとう」って涙を流しながら言った。

そして次の日おばあちゃんは沢山の人に見守られながら、息を引き取った。

ドラマみたいだった。

全ての治療を止めて5日後の事だった。

お婆ちゃんは生前、私が介護の仕事をするのを嫌っていた。

身分の低い人がする仕事だと。けれど、最後の最後に認めてもらえたような気がした。

延命する気持ち、しない気持ちどちらも愛する人を思う気持ち。

家族の数だけ・人の数だけ形がある。

写真は、おばあちゃんを介護してるときの介護ノート主治医・看護婦・家族間の交換ノート。

おばあちゃんが亡くなってすぐ、死後の処置といわれるものを看護婦さんと一緒にやらせてもらった。

私ははじめてだったので、色々教わりながら、体を拭いたり綿を詰めたりした。

まだあったかかった。すごくやわらかかった。涙でおばあちゃんがみえなかった。

看護婦さんが、

「病院で亡くなった人はこんな顔にはならんよ。家でなくなれるっていうのはほんとに幸せなこと。」
っていった。

私も延命治療をしている人をたくさん見ているけれど、私もおばあちゃんは幸せだったと思う。

以前、こんな話を聞いた。

人間は死期が近くなると、それに備えるために体も色々準備を始める。
その中のひとつ。食べ物を食べたくなくなる。水を飲まなくなる。
それによって脱水症状が起こり、感覚が鈍くなる。

ということは痛みに対しても鈍くなる。

けれど、今は脱水になると、すぐに点滴が施される。

点滴で水分を補えるので、痛みはずっと続く。

だから苦しい。

家族の立場になったとき、いつまでも生きてほしいと願う。

けれど、実際本人の立場に立ったとき、それでいいのかな。

私が本当にその立場に立ったとき、何を思うんだろう。

おじいちゃんを見たとき、とてもつらかった。

目を背けたくなったし、早く逝かせて上げてあげたいって思った。

家族もきっとつらかったんだろうな。

でも、これって病院の考え方にも左右されてしまうと思う。

だからこそ病院選びも大切だとおもう。

もちろん家族の気持ちも!

なんだか日記っぽくないね。

まあ、これが私が今日思ったことだもん。






おばあちゃんへ

おばあちゃんが亡くなって1年がたちました。
最後におばあちゃんからもらったプレゼント
これから一生大事にしていくからね。
本当にありがとう!

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4年前に書いた日記だけど、この頃の私と今の私、少しは成長できてるかな。


おばあちゃんを看取った時は、 「どうしてよその人の介護してるのに、自分のおばあちゃんの介護ができないんだろう」


って、自分の中に葛藤があって、お仕事を休ませてもらって祖母を介護した。



職場に迷惑かけちゃったけど、あの時の選択は間違っていなかったと思う。


お父さんを看取った時、お盆に2週間ほど休みをもらった。


あの時休ませてもらえてほんとに良かったと思う。



あの2週間がなかったらきっと、我が家はパンクしてただろうなって思う。


そして私もパンクしてただろうな。



仕事は大切。



けれど家族も大切。



何が正解なのかは分からないけれど、結果よかったと思う。




以前にも書いたけど、ELTの「きみの て」 っていう曲、



携帯の着信音であり、車に乗っているときはいつも繰り返し繰り返し聞いています。



なんなんだろ、この曲を聞いているとお父さんが側にいるような感覚になります。



この曲が流れていると、心が落ち着きます。



これまで、音楽をこんな風に感じることはなかったんだけど、



今はお父さんを感じるために聞いているっていう言い方が正しいのかも。



音楽を通して人を感じる。



音楽にはこんなチカラもあったんだなぁと知りました。



ほんと不思議。



これからもお父さんを感じるためにこの曲を聞くんだろうなぁ。



生前のお父さんの姿が映ってるDVDが2枚あります。


妹の結婚式と友達の結婚式。



生前最後となった写真がデジカメのなかに入っています。



お父さんの声が、携帯の留守電に残っています。



私はまだ、見ることが出来ずにいます。



留守電にはいっている声も聞く勇気もなく、消す勇気もなくそのままです。



生きていることが当たり前だった今までと、もう会えなくなった今、



生きていること、生きるって事、そして死ぬって言うこと。



本当に不思議なこと。


けれど必ず誰にでもやってくること。



生きている今、生きていくであろうこれからの私。


何の為に生きるんだろう、何のために生きて行きたいんだろう。



漠然としてしまっているその方向を、ゆっくりと定めて行きたいです。

zion

先日、約4ヶ月ぶりにZIONの練習に行ってきました。



ジャンベをみんなで叩くのがとっても楽しかったです。



思い返すと、生前お父さんにジャンベを叩く姿を3回見てもらえました。



最初は、自分の働いている施設で、父もデイサービスを利用してて。



2回目は妹の結婚式で。

この時、会場にいた人が輪になって踊ってくれました。

そのなかにお父さんの姿があって、お父さんも一緒になって踊ってくれて、本当に素晴らしい披露宴になったと思う。



3回目は友達の結婚式で。



昔、バレーをしていたときも、お父さんは熱心に応援してくれてた。



高校卒業と同じくバレーもやめちゃったから、私が何かやってる姿を見てもらう機会がほとんどなくなってたのに、



ジャンベを習い始めて、ZIONとして色々なところでライブをして、



私の中で、バレーの時と似たような感覚を覚えました。



自分がやってるものを認めてもらえるってすっごくうれしい。



ジャンベをやってなかったら、絶対になかっただろう色々な事。



叩いていると、いろんな事思い出しました。



今月の28日にはライブがあります。



楽しみです。





最近は、仕事と家の往復で慌ただしく1日が過ぎています。


父が亡くなってからこっち、毎日誰かが家に来てくれてて、


にぎやかな時間が過ぎていました。



最近になって客足も引いて、夜になると母と二人。



夜中に目が覚めて、携帯開くと父の写真が出てきたり、



私の寝てる真横に今、ちっちゃくなったお父さんがいるから、目を開けるとすぐに目に入ったりで、



夜中に1人で涙があふれてくることもしばしばありました。



なんだか、最近の静かな夜に違和感があって、



これまでの時間の過ぎ方と今の時間の過ぎ方も異なって、これまた違和感があって、



仕事は仕事で、私が休んでた間に色々なことがあったみたいで、



とにかくバタバタと変な感じで、まだ自分の心の整理も、父のお部屋の整理も手付かずのままでいます。



49日が終わって納骨がすんだらゆっくりとお部屋を片付けようってお母さんと話してます。



今日は、あるブログを紹介したいと思います。



最期の時から


この↑ブログは、お父さんが余命宣告を受けた頃に、ネットで色々調べててたどり着いたブログです。


1年前に、お父さんを家で看取った男の子のブログ。


同じように、日々葛藤しながらも、逃げずにお父さんに寄り添ってる姿が目に浮かびます。



私が一生忘れないだろなって言う曲、ELTの「きみの て」、


実はこの男の子のブログにも書いてあって、最近ブログをみて驚きました。



なんだか、とにかくコンタクトとってみたくって、メールしたんです。


そしたら、返信があって。



インターネットってすごいなぁって思いました。



とっても素敵なブログです。


父の手





『きみの て』 この曲を耳にしたのは今年に入ってから。


なんだかこの曲の歌詞が父とリンクして、


それ以来、この曲は私の携帯の着信音になった。


父の足をマッサージしている時、いつもこの曲がうかんでた。


父が近い将来いなくなることが分かっていたから。


一度だけ、父がこの曲を口ずさんだ事があった。


いつも携帯の着信音で流れるのを父はきいていたんだろうな。


あの時はちょっと嬉しかったのを覚えています。



  


 「きみの て 」Every Little Thing


さっきから 降り続いたままの 秋の誘いを連れる雨


見事な程、この僕を隠すように。


君にいえたらよかったコトバ 「ありががとう、沢山の日を」



僕もまた こうして少しずつ 忘れてしまうのかな



楽になるためでなく いい人ぶるつもりでもなく



僕の好きな笑顔を もう 絶やさないで


僕へと触れ続けた その手は やさしかった 


何気なく そして 強く


僕は いつも まもられてた


この部屋から見えるもの すべて 今また 違って見える 


君がいた


それで もう 僕の 特別だった


諦めではなく 無理しているつもりでなく 


思いのまま 遠くへ 愛を 解き放って


僕へと触れ続けた その手は やさしかった


何気なく そして 強く 僕は いつも 守られてた


君がふれた僕の この手が 握り締める 


さりげなく だけど  強く


僕は行くんだ 君から行く


繰り返しながらも どうしようもなくなりながらも


ままならぬ僕は 愛を見つけて 見つめて 想い果てぬまで


僕へと触れ続けた その手は やさしかった なにげなく そして強く


僕は いつも 守られてた


まだ降り止まぬ雨は やがて花を咲かすだろう 


僕を隠すためじゃなく 僕もまた 咲かすのだ、と

1日中、降り続いていく 秋を誘い入れる雨




気がつけば、あの日から1週間がたとうとしているんだね。



先週の今頃、テレビを見ながら父の寝息を聞いていました。



忘れないうちにと、あの日のことを走り書きのように書いてきたけれど、



まだまだ、書ききれないことがたくさんあります。



お父さんのお部屋は、まだ片付ける気持ちになれなくって、



というよりもパワーがなくってそのまんまです。




私は今日から仕事再開。



お年寄りの方も、父の訃報を知っていて、朝行くと、涙を流して悔やみを言ってくださいました。



父が亡くなって、毎日足を運んでくれる友達がいます。



我が家の長男とも呼ぶべき友人。



毎日仕事が終わると家に来て、お線香を上げてくれます。



父が亡くなってから、これまで知らなかった父の姿を知ったり、



亡くなってから気づくこともたくさんあります。



後悔はないって言えばうそになるけれど、



生前、出来る限り、思いつく限りのことはやったと思うから、みんなの心配をよそに、



さらに元気にやっています。



心配しないで。



私は元気です☆






お父さんが亡くなったその日は、お父さんの横で少し寝ました。



翌日、朝から訃報を聞いた父の友人や近所の方が父に会いに来てくださいました。



そうこうしながら通夜・お葬式の打ち合わせ。



いろんな事をしなくちゃいけないから、悲しみにくれてる暇もありませんでした。



15時過ぎ、業者の方がこられ、父をいよいよ斎場へ・・・。



父の写真が出来上がり、持ってきてくださいました。



それを見た瞬間、涙が止まらなくなりました。



お父さんがこんな写真になってしまったんだって、見るのがつらかった・・・。



慌ただしく、家をあとにし、お父さんと一緒に斎場へ行きました。



白装束を、上からかぶせてあげて、今日一晩過ごす部屋へ。



そして、慌ただしく、お通夜の時間がやってきました。



お母さんと、妹と、足を運んでくださった皆様を出迎えるべくお通夜の会場入り口にいくと、



たくさんの人がいました。



お通夜の間、耐えられなかったのが、お焼香。



本当にたくさんの人が足を運んでくださっていました。



よく頑張ったね。  と声を掛けてくれる方。



何も言わず、肩を叩いてねぎらってくださる方。



お焼香の間、頭を下げながら、たくさんの人にきてくださって、こんなにも父や私たち家族を支えてくれている人がいたのかと思うと、涙が止まりませんでした。



あとで聞いた話によると、この日は、用意していた席が足りなくって、椅子を出してもらっていたそうです。


それでも椅子が足りず、後ろで立って参列してくださった方もいたそうで、とにかく感謝でいっぱいでした。



お通夜が終わり、控え室に戻ると、またまたたくさんの人が来てくださいました。



我が家はいつもお通夜の席では宴会になります。



みんなでお酒を飲んで、わいわいやります。



この日の夜も結局明け方の3時くらいまでお酒を飲んでわいわい宴をしてくださいました。



みんなで楽しいお酒を飲むことが大好きだった父。


きっと、喜んでくれていたと思います。



あっという間に夜が明けて、お葬式。



お葬式が終わると、お父さんとお別れになってしまう。



とにかく、お葬式が始まるのが嫌でたまりませんでした。



けれど会場に行くと、たくさんの人。



そんなことを思うまもなく、お葬式が始まりました。



お葬式の時、いつも我が家に来てくださるお坊さんが判僧で来てくださっていました。



そのお坊さんにお経を読んでもらえることが嬉しくて、ここでまた涙があふれてきました。



お経が始まり再びお焼香。



やっぱり涙が止まりませんでした。



そして、お経が終わり、お母さんが喪主の挨拶をしました。



私と妹も一緒に前へ出ました。



母は、悲しみをぐっとこらえ、しっかりと挨拶をしていました。



母はきっと、挨拶が出来ないくらいに泣き崩れてしまうんじゃないかと思っていましたが、



母はやっぱり偉大でした。



挨拶が終わり、いよいよお別れのとき、この時が一番来てほしくなかった。



たくさんの人がお父さんの棺の中にお花を入れてくだり、私は一生懸命お花を入れてくださる方々に感謝の気持ちを送っていました。



この時、以外に冷静になれていた自分がいました。



そして、出棺。たくさんの人に見送っていただきながら火葬場へ向かいました。



火葬場へついて、最期のお別れをし、扉が閉まったとき、父の友人が



『さよなら。』  



って大声で叫びました。



もう泣かないって思っていたのにまた涙がこみ上げてきました。



その後、骨になった父と対面。



以外にもしっかりと骨が残っていて、父の強さを感じました。



とにかくとにかく、たくさんの人に支えられ、励まされたお葬式。



今日ほど人に感謝した日はありませんでした。







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9月9日(土)


8日に、Dr.から日曜までもつかどうかと言われていました。


ちょうど仕事もひと段落し、土日は久しぶりの休み。 


この日の夜は、父の寝ているソファーベッドの横で眠りにつきました。



夜中の2時を過ぎたあたりから、時々父の声が聞こえ目が覚めました。



『トイレ?』  『何か飲む?』



何度たずねても、父は首を振りました。



寝ては起こされ、寝ては起こされ、父の側へ行くけれど、気がついたらそばで眠ってしまい、朝になりました。



8:00 再び父の声で目が覚め、側に行き、声を掛けるけれども、首を横に振るばかり。



父の言いたいことが理解できず、何をしていいのか分からない状態のなか、寝返りすら出来ないはずの父が、



突然横向きになり、起き上がろうと私に手を伸ばしてきました。



私の手を掴んだ瞬間、ものすごい力で父は自力で起き上がりました。



けれど、父と会話が成立しません。



起き上がることは出来たけれど、座位をそのまま保つことが出来ずに後ろへ倒れこみました。



それでも再び起き上がり、今度は立ち上がろうと父はしていました。



さすがに立ち上がることは出来ないまま、私は父の後ろに回り、後ろから父を抱え、しばらく座っていました。



母は市場へ行っていたので不在で、リビングには私と父の二人きり。



1人では対処できないと思い妹に連絡するけれど、眠っているらしく連絡とれず。



お店にいるおばあちゃんにいうわけにも行かず、母が帰ってくるまで1人でどうにかするしかない状況でした。



父を後ろから抱えつつ、



『どこへ行くん?』  『どうしたいん?』  『どうすればいいん?』 



何度父に声を掛けても、返答はなく、そのとき父はかなりの興奮状態にありました。



そんな時、訪問看護婦さんが来てくださいました。



ちょうど9:00をまわったくらいでした。



興奮状態にある父は、私の胸元でそのまま動こうとせず、看護婦さんはそのままの姿で血圧を測定しました。



血圧 54/30mmhg



明らかに普通の状態ではなく、看護婦さんと2人で父をベッドに寝かせました。



横になると、いびきを掻きながら眠り始め、何とか落ち着きました。



看護婦さんからは、家族、親族へ連絡するよういわれました。



もう長くない・・・。 明らかでした。



お昼頃、親戚が家に集まりました。



時々父は目を開けるけれど、まるで父は別世界に行っているようでした。



全く返答がなく、会話すら出来ず、ただ見守るのみの時間。



父の友人も駆けつけてくださいました。。



父の友人が帰るとき、 『またのー。』 と声を掛けたら、父が友人に手を振りました。



結局その手を振ったのが現実に生きる父の最期の姿になったのですが・・・。



その頃から、もう電子血圧計では父の血圧は測定できなくなり、酸素濃度も測定できなくなりました。



13:30 Dr.の往診があり、血圧は68/40 少し血圧が戻っていました。


Drの話では、朝方までもつかどうかとの事。



少しみんな安心し、親戚は家の片付けに入りました。



目の前では朝まで生きられるかどうかの状態の父。



奥の部屋では、そのときに備え部屋を掃除する親戚。



私の中で、父がまだ生きているのに、片づけをする状況が、



必要なことだとは分かっていながら、私たちの変わりにやってくれているのだとは分かっていながら、



父はまだ生きているのに・・・。と思う気持ちと、



けれど、その時は確実に近づいてきているんだという気持ちで、



父が亡くなるそのときまでは絶対に泣かないって決めていたのに、



抑えきれず涙があふれてきました。



気持ちが少し落ち着き、私も少し片づけをしながら父の状態をみまもりつつ・・・。



そうこうしていると、父の呼吸が急に変わりました。



いびきではなく、なんだか変な音を立てながら呼吸をし始めたのです。



足を確認すると、爪にチアノーゼが現れていました。



そして、脱水でへっこんでいたお腹が、再び以前のようにパンパンに膨れていたのです。



足も硬直していて、あれだけ出すことに苦労したガスがよく出るようになり、



ガスの臭気が異常な感じでした。



血圧や、血中酸素が測れないので、父の体に何が起きているのか分かりませんでした。



けれど、私たちにはできることはありません。



ただ、息を引き取るのを静かに見守ることだけ。



体に異常が現れても、だからといって何かするわけじゃありません。



今の状態を受け入れる作業のみ。



けれど、やっぱり不安になって看護婦さんに再び連絡して来てもらうことにしました。



看護婦さんが来てくだり、そのときに備えて、紙おむつをすることにしました。



父のズボンを脱がせて、お尻を見たとき、はっとしました。




下血していたのです。



これまで、肝臓を患っていながら出血がなかったことに胸をなでおろしていたのに、最期の最期になって、



腹部で出血が起こっていたのです。



だから、急にお腹が膨らんでパンパンになり、ガスも異様なにおいだったのです。



急いでDrに連絡し、上からの出血(吐血)も視野に入れながら、覚悟しました。



血圧が低い状態での出血は命に関わります。



この出血で、父は亡くなることが予想されました。



先生は、父に沈静のお薬を注射してくれました。



この薬で、父は楽になれる。



そういうお薬でした。



父の脈は注射をしてすぐに触れなくなり、みんなで周りを囲んでその時を待ちました。



呼吸がだんだん小さくなっていき、誰もがこのまま息が引けるのを確信していました。



しかし、一向に息が引けません。



耳元で、私は父に 『もう頑張らなくていいんだよ』って何度も言っていました。



しばらくして、血圧を測ると、上が60くらいに上がっていました。



父が息を吹き返したのです。



それを確認して、先生rは、一度病院に帰られました。



次に先生に連絡する時は、呼吸が止まった時。



あとは家族だけで過ごしてくださいって看護婦さんもひとまずその場から帰られました。



そこから4時間くらい経過した頃、



父の脈が左手で触れなくなりました。



右手ではまだ触れていました。



家族、親族にそのことをつたえ、みんなでお父さんを囲んで見守っていました。



呼吸の感覚が少しずつあいてきて、何度か止まりました。



胸を少し刺激すると、その刺激で再び呼吸が始まる・・・。



そんなことが4回くらい続いた後、父の呼吸は止まりました。



みんなが、お父さんの側で涙を流している最中、私は必死でお医者さんに連絡しました。



その後、看護婦さんにも連絡をいれ、再び父の元へ戻ると、



父の体は完全に止まっていました。



20:34 家族みんなが見守るなか、静かに息を引き取りました。



父の最期はスーットいけたような気がします。



父は結局何も言わないままに旅立ってしまいました。



その後、看護婦さんと一緒に父の体をキレイに拭いて、詰め物をして、ひげをそり、服をきがえさせました。



体を拭きながら、涙が止まりませんでした。



やっと、楽になれたね。



父の表情は、とても穏やかで、眠っているようでした。



今にも起きてきそうでした。



その表情は、私が生まれて初めてみるんじゃないかって言うくらいおだやかでした。