『ウェズリー・スナイプス ザ・シューター』ネタバレレビュー|サイモン・フェニックスから14年
 

映画『ウェズリー・スナイプス ザ・シューター』を観ました。

原題は『The Contractor』。2007年に製作されたアクション映画で、ウェズリー・スナイプスが元CIAの凄腕スナイパー、ジェームズ・ダイアルを演じています。
 

最初にこの映画を知ったとき、個人的にかなり気になったのが「ウェズリー・スナイプス」という名前でした。

なぜなら、ウェズリー・スナイプスといえば、私の中では1993年の映画『デモリションマン』で演じたサイモン・フェニックスの印象が非常に強かったからです。
 

『デモリションマン』のサイモン・フェニックスといえば、残忍で凶暴、暴力的なのに、どこかコミカルでユニークな悪役でした。
 

ところが本作で登場するジェームズ・ダイアルは、そのイメージとはまるで違います。

寡黙で、冷静で、無駄なことを話さない。
 

同じウェズリー・スナイプスが演じているのに、まるで別人です。

しかも『デモリションマン』が1993年、本作が2007年なので、その間には14年もの時間があります。
 

その年月を考えながら観ると、本作のウェズリー・スナイプスには、若い頃とはまた違った渋さが感じられます。

特に印象に残ったのが、冒頭の牧場のシーンです。

 

 

 

 

 

 

ダイアルはかつてCIAの秘密工作員として暗殺を請け負っていた男ですが、現在はその世界から離れ、牧場で静かに暮らしています。

このときのダイアルが、とにかく渋い。
 

都会的なスパイというより、むしろ西部劇に登場する無骨なガンマンのような雰囲気があります。

過去に何人もの人間を殺してきた男が、銃を置いて牧場で暮らしている。
 

その姿には「もう昔の世界には戻りたくない」というような哀愁さえ感じられます。

サイモン・フェニックスなら、同じ牧場にいても何かと騒ぎを起こしそうですが、ダイアルは正反対。
 

静かで、落ち着いていて、必要なことしか話さない。

このキャラクターの違いを見ただけでも、ウェズリー・スナイプスの演技の幅を感じます。
 

そんなダイアルのもとへ、かつての上司コリンズから仕事の依頼が舞い込みます。

ターゲットは、以前取り逃がしたテロリストのアリ・マフムード・ジャハール。

ダイアルは過去の失敗を清算するため、再び銃を手にします。
 

そして狙撃。

見事にターゲットを仕留めます。

ここまでは、まさに「元凄腕スナイパーが最後の仕事に挑む」という王道の展開です。
 

ところが、仕事を終えたダイアルを待っていたのは、平穏な引退生活ではありませんでした。

逃走中に相棒が殺され、ダイアル自身も負傷。

さらに、殺人事件の犯人として警察から追われることになります。
 

そして、この映画の本当の恐ろしさはここからです。

ダイアルは、自分が最初から罠にはめられていたことに気づきます。
 

依頼人であるコリンズは、自分たちの秘密工作を隠すため、ダイアルを事件の犯人に仕立て上げようとしていたのです。

さらに警察高官ウィンザーの殺害までダイアルの仕業に見せかけられます。
 

つまりダイアルは、テロリストを暗殺するために利用されたうえ、任務が終わった後には、その罪まで押しつけられてしまったわけです。
 

しかもウィンザーを追っているのは、彼の娘でもある女性刑事バラード。

彼女は父親を殺した犯人がダイアルだと思っているため、執拗に彼を追跡します。
 

ダイアルからすれば「自分はやっていない」と言いたいところですが、証拠は彼に不利なものばかり。

警察からも追われ、元仲間からも命を狙われるという、完全な孤立状態に陥ります。

 

 

そんな逃亡中のダイアルを助けるのが、少女エミリーです。

このエミリーとの出会いが、本作に単なる銃撃戦だけではない部分を与えています。

ダイアルは負傷しているところをエミリーに助けられます。
 

殺人を仕事にしてきた男と、普通の生活を送る少女。

二人の組み合わせはかなり対照的です。
 

エミリーとの交流を通して、ダイアルの人間らしい部分が少しずつ見えてきます。

普段は無表情でクールなダイアルですが、エミリーに対しては単なる「任務」ではない感情を持つようになります。
 

この部分があるからこそ、最後の展開にも意味が出てきます。

そして事件の黒幕は、やはりコリンズ。
 

自分自身の秘密を守るためにウィンザーを殺し、その罪をダイアルに着せていたのです。

最終的にダイアルはコリンズと対決。

銃撃戦の末、コリンズを倒します。
 

一方、バラードも捜査を通じて事件の真相を知り、ダイアルが父親殺しの犯人ではなかったことを理解します。

ここでようやくダイアルは、長かった逃亡から解放されます。

 

 

 

 

 

そして印象的なのがラストです。

ダイアルはエミリーとの関係をそのまま終わらせません。

エミリーと祖母に手紙を送り、自分のいるモンタナの牧場へ来るよう誘います。

そして最後には、牧場でエミリーと一緒に過ごしているダイアルの姿が描かれます。
 

冒頭では、過去の世界から離れて一人で暮らしていた男。

しかしラストでは、少女との交流を通じて、人とのつながりを取り戻しています。

自由に走る馬の姿も含めて、ダイアルが「組織のために人を殺す男」から、「自分自身の人生を生きる男」へ変わっていくことを感じさせるラストでした。
 

本作は、派手な銃撃戦や狙撃シーンがある一方で、実は主人公の再生を描いた物語でもあると思います。

そして、個人的にかなり面白かったのが、やはりウェズリー・スナイプスの変化です。

 

 

『デモリションマン』は1993年の作品。

そこでスナイプスが演じたサイモン・フェニックスは、残忍で凶暴なのに、コミカルでユニーク。

画面に登場するだけで、何かとんでもないことをやらかしそうな危険な魅力を持ったキャラクターでした。
 

それから14年。

2007年の『ザ・シューター』では、同じスナイプスが、寡黙でクールな元CIAスナイパーを演じています。

若い頃のフェニックスのような派手さはありません。
 

むしろダイアルは、ほとんど感情を表に出さない。

しかし、その静けさがかえって格好いい。

特に牧場でのダイアルは、西部劇のガンマンを思わせる無骨さとダンディーさがあります。
 

「この男、昔は相当なことをやっていたんだろうな」と、説明されなくても雰囲気から伝わってくるのです。

サイモン・フェニックスとダイアル。
 

同じ俳優が演じているとは思えないほど対照的ですが、どちらもウェズリー・スナイプスだからこそ成立するキャラクターなのかもしれません。
 

フェニックスは暴力と混沌を楽しむような男。

ダイアルは、暴力の世界から抜け出したい男。

この違いを意識して観ると、『ザ・シューター』はまた違った面白さがあります。
 

 

 

 

 

 

映画『君たちはまだ長いトンネルの中』ネタバレレビュー!高校生が政治と日本経済に問いかける青春映画
 

映画『君たちはまだ長いトンネルの中』は、高校生が政治や経済について疑問を持ち、大人たちに自分の考えをぶつけていく社会派青春映画です。
 

タイトルだけを見ると、青春映画やヒューマンドラマを想像するかもしれません。しかし実際に観てみると、かなり政治・経済色の強い作品。特に消費税、デフレ、政府の財政政策などについて、主人公の女子高生が大人たちを相手に熱弁を振るいます。
 

今回は映画の内容をラストまで振り返りながら、主人公・高橋アサミが何を考え、最後に何を残したのかをネタバレありでレビューします。
 

主人公は政治経済に詳しすぎる高校3年生

主人公の高橋アサミは高校3年生。

普通の高校生とは少し違い、政治や経済について非常に強い関心を持っています。

その背景には、元財務省職員だった父親の存在があります。
 

父親から政治や経済について教えられてきたアサミは、自分でもさまざまなことを調べるようになり、いつの間にか高校生とは思えないほどの知識を身につけています。
 

学校の政治経済の授業でも、先生の説明を聞いているだけでは終わりません。

「本当にそうなの?」

と疑問を持てば、すぐに質問する。
 

しかも、その質問がかなり鋭い。

先生の説明に納得できなければ反論し、時には先生を論破するような展開にまでなります。
 

ここでまず感じるのが、アサミという主人公のクセの強さ。

普通の青春映画なら、友達や恋愛、進路などが中心になりそうな高校3年生。
 

ところがアサミは、そんなことより日本経済について考えている。

「こんな高校生いるのか?」と思ってしまうくらいですが、この極端さこそが作品の個性になっています。

 

 

 

 

 

アサミが考えているのは「日本を変える」こと?

アサミは単に政治家を批判したいわけではありません。

彼女が問題にしているのは、自分たちがこれから生きていく日本の未来です。
 

国の財政、消費税、デフレ、GDP、政府支出などについて、大人たちが説明する内容に疑問を持ちます。

特に作品の大きなテーマになるのが、消費税をはじめとする経済政策。
 

映画では、政府の財政政策について「本当にそれで日本経済は良くなるのか?」という視点からアサミが疑問を投げかけます。
 

ただし、この映画は経済について中立的な立場から複数の意見を紹介する作品ではありません。

原作や経済監修の背景もあり、映画の中では特定の経済政策に対する考え方がかなり明確に示されています。
 

そのため、観客によっては「勉強になる」と感じる一方、「映画というより経済政策についての主張を聞いているようだ」と感じる可能性もあります。

ここは、この作品を観るうえでかなり重要なポイントだと思います。
 

アサミたちは商店街を盛り上げようとする

そんなアサミが、友人たちと取り組むことになるのが、地元の商店街です。

商店街は衰退し、かつての活気を失いつつあります。
 

「日本経済を変える」と言っても、高校生がいきなり国の政策を変えられるわけではありません。

そこでアサミたちは、自分たちにもできることから始めようとします。
 

それが商店街のお祭りを盛り上げること。

ここは作品の中でも好きな部分です。
 

政治や経済という非常に大きな話をしていたアサミが、最終的には自分の住んでいる地域という身近な場所に目を向けるからです。
 

政治というと、国会や政治家、選挙など遠い世界の話に感じます。

しかし、実際には商店街が寂れていくことも地域経済の問題。

アサミたちの活動によって、作品の「政治・経済」というテーマが、ようやく彼女たちの日常生活につながっていきます。

 

 

新聞記者・荒畑に協力を求める

アサミたちは、地元の若手新聞記者・荒畑を訪ねます。

商店街のお祭りを記事にしてもらい、少しでも多くの人に知ってもらおうと考えたのです。

ここでもアサミは行動派。
 

「何か問題がある」と言っているだけではなく、自分たちでできることを探して実際に動いていきます。

そして、その帰り道にアサミの人生を大きく変える人物と出会います。

元戦隊ヒーローのタレント議員・武藤との出会い

それが、元戦隊ヒーローとして活躍していたタレント議員の武藤です。

普通なら、有名人に偶然会っただけで終わりそうな場面。
 

ところがアサミは違います。

なんと武藤に対して、政治について自分の考えをぶつけていきます。
 

さらにアサミは、

「総理大臣に会わせてほしい」

とまで言い出します。
 

このあたりになると、「高校生の行動力じゃないだろ!」とツッコミたくなります(笑)。

しかし、この出会いによって、アサミの小さな活動が政治の世界とつながっていきます。
 

小さな波紋が大きな波紋へ

映画の紹介文にもある「小さな波紋は、やがて大きな波紋へ」という展開がここから始まります。

最初は、商店街のお祭りを盛り上げたいだけだったアサミたち。
 

ところが、政治や経済についての発言が周囲を巻き込み、政治家や新聞記者など、大人たちも関わるようになります。

ネットなどを通じて注目される場面もあります。
 

ここで「高校生が日本を変えてしまうのか?」と思わせる展開になります。

しかし、映画はそこまで単純ではありません。
 

アサミが正論を言ったからといって、社会がすぐに変わるわけではない。

ネットで話題になったからといって、政治が簡単に変わるわけでもない。

むしろ、現実社会の壁が見えてきます。

美津子が倒れる

物語の途中では、アサミを支えてきた美津子が倒れるという出来事も起こります。

政治や日本経済という大きな問題を考えているアサミですが、彼女の目の前には、自分を支えてくれている家族の生活があります。
 

国全体の経済を語ることと、目の前にいる人の生活を守ること。

どちらも現実です。
 

ただ、このエピソードは物語の中で少し唐突に感じるところでもあります。

政治・経済の話を中心に進んできた物語に、家族ドラマが差し込まれるため、もう少し丁寧に描いてほしかったと感じる人もいるかもしれません。

 

 

 

 

 

クライマックスで動くのはアサミだけではない

そして終盤。

ここがこの映画の面白いところです。

主人公はアサミなのですが、最後に大きな役割を果たすのは、アサミ自身だけではありません。
 

武藤議員が、自分自身の言葉で政治について語るようになります。

つまり、この映画は、

「高校生が政治家を論破して勝利する」

という単純な話ではないのです。
 

アサミは問題を提起する。

その言葉を受け取った大人たちが考える。
 

そして、その中から行動しようとする人間が出てくる。

アサミの役割は、社会を一人で変える救世主というより、「疑問を投げかける人」なのだと思います。

「長いトンネル」の意味

この映画における「長いトンネル」は、日本が抱えている経済的な問題を象徴しているように感じます。

出口が見えない。

先が分からない。

それでも、そこで立ち止まってしまえば何も変わらない。
 

アサミが伝えようとしているのは、

「自分たちには何もできない」

と諦めるのではなく、
 

「本当にそうなのか?」

と疑問を持つこと。
 

そして、自分で調べ、自分で考え、自分にできることを行動に移すことです。

だからラストは、完全なハッピーエンドでもバッドエンドでもありません。
 

問題は解決していない。

しかし、何かが始まった。

その余韻を残して終わります。

 

一条もんこ先生監修「上州レトルトカレー」バターチキンを食べてみた!上州地鶏のコクとマイルドな味わい
 

レトルトカレー好きとして、今回食べてみたのが、一条もんこ先生監修「上州レトルトカレー」のバターチキンカレーです。

「上州」と名前が付いているだけあって、群馬県産の素材にこだわったレトルトカレー。
 

このシリーズは、上州地鶏を使用した「バターチキンカレー」のほか、上州牛を使った「濃厚欧風カレー」、上州麦豚を使った「ポークビンダルー」の3種類がラインナップされています。
 

今回はその中から、上州地鶏のバターチキンカレーを実食。

結論から言うと……

とてもおいしいバターチキンカレーでした!


 

 

 

 

 

 

一条もんこ先生監修「上州レトルトカレー」とは?

一条もんこさんは、スパイス料理研究家として活動しているカレーの専門家です。

料理人としての経験を持ち、カレーやスパイス料理の商品開発、料理教室など幅広く活動されています。公式プロフィールによると、レトルトカレーの実食数も非常に多く、カレーに関するさまざまな活動を行っています。
 

そんな一条もんこさんが監修した「上州レトルトカレー」は、群馬県産のブランド肉を使ったシリーズ。

今回食べたバターチキンカレーには、群馬県産の上州地鶏が使われています。
 

商品情報を見ると、バターチキンカレーには鶏肉のほか、トマトピューレー、牛乳、はちみつ、バター、ヨーグルト、クリーム、コリアンダー、カルダモン、カスリメティなどが使われています。
 

こうして原材料を見るだけでも、いわゆる「辛さを前面に出したカレー」というより、トマトや乳製品、はちみつなどを使った、まろやかなバターチキン系であることが分かります。

見た目は意外と本格的

袋から温めたカレーをお皿に出してみると、しっかりとしたカレー色。

見た目だけなら、そこそこスパイスが効いていて辛そうにも見えます。
 

「バターチキンだからマイルドかな?」

と思いつつ、一口食べてみます。
 

……うん。

これはおいしい。

まず感じるのは、バターチキンらしいコク。

そしてトマトの風味と、乳製品によるまろやかさが合わさっていて、非常に食べやすい味になっています。

 

 

見た目ほど辛くない!

個人的に一番印象に残ったのがここ。

見た目ほど辛くありません。

もちろんカレーなのでスパイス感はあります。
 

でも、唐辛子の辛さがガツンと押し寄せてくるタイプではなく、バターやクリーム、牛乳などのコクが辛さをうまく包み込んでいるような感じ。
 

「辛いカレーが苦手だからバターチキンを選ぶ」という人にも比較的食べやすいタイプではないでしょうか。

実際、販売元の商品紹介でも、このバターチキンカレーは「完熟トマトとはちみつのコク」が特徴として紹介されています。

私が食べた印象としても、まさにこの「コクとマイルドさ」が大きな魅力でした。

上州地鶏バターチキンカレー
 

バターチキンらしい「コク」がしっかりある

バターチキンカレーを食べるときに期待したいのが、やっぱりあの独特の濃厚さ。

ただ辛いだけではなく、
 

バターのコク
+
トマトの酸味
+
乳製品のまろやかさ
+
スパイスの香り

が合わさった、あの味です。
 

この「上州地鶏バターチキンカレー」も、そこをしっかり押さえています。

口に入れた瞬間から辛さが攻撃してくるというより、まずカレーのコクやまろやかさを感じ、その後からスパイスの風味が広がる印象。
 

そのため、ご飯と一緒に食べても味が尖りすぎません。

むしろご飯がどんどん進みます。

上州地鶏のお肉も楽しめる

そして、このカレーのもう一つのポイントが上州地鶏。

単なる「バターチキン風ソース」ではなく、群馬県産の鶏肉を使った商品なのが、このカレーの特徴です。
 

群馬県産の上州地鶏を使用した商品として開発され、上州牛、上州麦豚と合わせて「群馬のブランド肉を使った3種類のカレー」という位置づけになっています。
 

レトルトカレーの場合、どうしても「ソースがおいしくても具材がちょっと寂しい」ということがあります。

その点、この商品は「上州地鶏を味わう」という楽しみ方ができるのもいいところ。

カレーソースだけではなく、鶏肉の存在もしっかり意識しながら食べられます。

ご飯との相性が抜群

やっぱりバターチキンカレーには白いご飯が合います。

少し濃厚でまろやかなカレーなので、ご飯と合わせることでちょうどいいバランスになります。
 

カレーだけを口にするとコクを強く感じますが、ご飯と一緒に食べると、これがちょうどいい。

一口、また一口と食べているうちに、気がつけばご飯がなくなっていました。
 

個人的には、少し多めにご飯を用意しておいてもいいくらい。

バターチキン好きなら、ぜひご飯と一緒に食べてほしいカレーです。

レトルトとは思えない満足感

レトルトカレーの良いところは、何といっても手軽さ。

お湯や電子レンジで温めれば、すぐに食べられます。
 

忙しい日に「今日は料理したくないな……」というときにも便利。

でも、簡単に食べられる一方で、味が単調だったり、具材が少なかったりする商品もあります。
 

その点、この「上州地鶏バターチキンカレー」は、単純にお腹を満たすためのレトルトカレーというより、

「今日はちょっといいレトルトカレーを食べよう」

という日に選びたくなるタイプ。
 

群馬県産の上州地鶏を使っていることもあり、ご当地グルメとして楽しめるのも面白いところです。

一条もんこ先生監修というのも気になるポイント

今回このカレーを食べるまで、一条もんこさんについて詳しく知らなかった人でも、「カレーの専門家が監修したレトルト」ということで興味を持つのではないでしょうか。
 

一条もんこさんは、カレー専門家として商品開発やレシピ開発にも携わっています。公式プロフィールにも多数のカレー関連の実績が掲載されています。
 

また、今回の上州レトルトカレー3種も、一条もんこさんの監修に加えて、カレー関連企業などと共同開発された商品です。

単に「ご当地のお肉を使ったレトルトカレー」というだけではなく、カレーを知る人が群馬県産の食材をどうカレーに仕上げるのかというところも、このシリーズの面白さだと思います。

 

映画『悪魔の口』ネタバレ感想!オオメジロザメと共依存からの脱出
 

映画『悪魔の口』は、タイの水中洞窟「悪魔の口」に挑んだ5人の若者たちが、洞窟内に潜む“何か”に襲われるサバイバルホラーです。

あらすじだけを見ると、かなり興味をそそられます。
 

「水の底に、自分たちを獲物として狙う何かがいる」

この“何か”がサメなのか、未知の生物なのか、それとも殺人鬼やオカルト的な存在なのかが、最初は分からない。
 

「悪魔の口」というタイトルも、洞窟の奥に何か恐ろしいものが潜んでいるような印象を与えます。

しかし、その正体は意外にも現実に存在する生物でした。

 

 

 

 

 

洞窟に潜んでいたのはオオメジロザメ

洞窟内にいたのは、オオメジロザメ。

サメ映画といえば、『ジョーズ』で有名なホオジロザメや、巨大な古代ザメ・メガロドンを思い浮かべる人も多いでしょう。

その中でオオメジロザメを選んだのは、この映画の舞台に非常に適しているからです。
 

オオメジロザメは海だけでなく、河口や川などの低塩分環境にも入り込めることで知られています。

つまり、

「淡水の洞窟なのに、なぜサメがいるの?」
 

という疑問に対して、

「オオメジロザメならあり得る」

という設定が成立するわけです。
 

海から嵐によって海水や生物が洞窟内へ流れ込み、多くの魚が死んでしまう。

しかし、淡水にも適応できるオオメジロザメだけが生き残っていた。

この設定は、サメ映画としてはなかなか面白いと思いました。
 

洞窟という舞台がサメの怖さを増幅する

普通のサメ映画なら、舞台は広い海です。

逃げようと思えば泳いで逃げられる。
 

しかし『悪魔の口』では、舞台が水中洞窟。

暗く、狭く、方向感覚も失いやすい。

そして水中なので、サメがどこにいるのか分かりません。
 

前方にいるのか、後ろなのか、下なのか。

突然、暗闇から襲ってくる。

さらに酸素にも限りがあります。
 

つまり、この映画ではサメそのものだけでなく、洞窟そのものが人間を追い詰める存在になっています。

「サメから逃げればいい」という単純な話ではありません。
 

逃げる場所そのものがない。

この閉塞感は、この作品の大きな魅力だと思います。

 

 

サメは本当に映画のように何度も人間を襲うのか?

ここは少し現実のサメと映画を分けて考えたいところです。

オオメジロザメは魚類、エイ、カメ、鳥類など幅広いものを食べる大型捕食者ですが、人間を見つけるたびに猛烈な勢いで襲い続けるような「食欲モンスター」ではありません。
 

サメは一度食事をすれば、しばらく食べなくても活動できます。

そのため、映画のように、

「一人襲う→また一人襲う→さらに別の人間を襲う」

という展開は、かなり映画的な誇張として見る必要があります。
 

ちなみに「海のゴミ箱」と呼ばれるほど何でも口にすることで有名なのは、オオメジロザメよりもイタチザメです。

イタチザメなら食性の広さという意味では、さらに“何でも食べるサメ”というイメージに近い。
 

ただし、イタチザメはオオメジロザメほど淡水環境への適応能力が高くありません。

そう考えると、「淡水の洞窟に閉じ込められたサメ」という設定では、オオメジロザメを選んだのは理にかなっています。
 

本当に怖いのはサメではなくマックス?

この映画を見ていて、後半になるほど気になってくるのが、主人公サラと恋人マックスの関係です。

サラは決して判断力のない人物ではありません。
 

むしろ序盤から危険を察知し、慎重に考えています。

ところがマックスとの関係の中では、自分の判断よりもマックスを優先してしまう。
 

マックスはサラを大切にしている。

過去にもサラを支えてきた。

だからこそサラは簡単には離れられません。
 

「マックスが悪いから逃げる」という単純な関係ではないのです。

むしろ、
 

守ってくれる人だったからこそ、依存してしまった。

その結果、

「私はどう思うか」
 

よりも、

「マックスはどう考えているか」

を優先するようになってしまう。
 

ここに、この映画のもう一つのテーマがあるように感じました。

 

 

洞窟はマックスという「呪縛」なのか?

私はここが『悪魔の口』の一番面白い読み方だと思います。

もちろん、製作側が「洞窟=マックス」と明言しているわけではありません。
 

しかし物語を重ねて見ると、かなり象徴的です。

サラは洞窟から出られない。

同時に、マックスとの関係からも簡単には抜け出せない。
 

洞窟の中ではマックスの判断に従って進むほど危険な状況へ入り込んでいく。

そして最後にサラが生き残るためには、マックスからも離れ、自分自身で判断しなければならなくなる。
 

つまり、

洞窟からの脱出=マックスへの依存からの脱出

とも読めるのです。

サラは「強くなった」のではなく、自分の強さを取り戻した

ここも重要だと思います。

サラは洞窟に入る前から、本当は自分で判断できる女性だった。
 

ただ、マックスとの関係の中で、自分の判断を信じられなくなっていた。

だから、この物語を、
 

「弱い女性が恐怖を経験して強くなった」

とだけ考えるのは少し違う気がします。
 

むしろ、

「もともと持っていた強さを、マックスから離れることで取り戻した」

という物語に見えます。
 

極限状態になったことで、

「マックスを信じるか、自分を信じるか」

という選択を迫られた。
 

そしてサラは最後に自分を選ぶ。

これが生還につながります。

 

 

 

 

 

「悪魔の口」というタイトルにも別の意味が見えてくる

最初は、

悪魔の口=恐ろしい洞窟

だと思っていました。
 

しかし映画を最後まで見ると、

悪魔の口=サラを閉じ込めていた場所

とも考えられます。
 

そしてさらに深読みするなら、

悪魔の口=サラを縛っていたマックスとの関係

とも読める。
 

マックス自身が悪魔というわけではありません。

むしろサラを愛しているからこそ、関係が複雑になる。
 

「あなたを守る」という愛情が、

「私があなたの代わりに決める」

に変わってしまう。
 

その関係から抜け出すことが、サラにとってのもう一つの脱出だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

まとめ

『悪魔の口』は、表面的には水中洞窟に閉じ込められた人間とオオメジロザメのサバイバル映画です。

「一体何がいるのか?」という正体を伏せたあらすじも面白く、サメなのか、未知の生物なのか、殺人鬼なのか、オカルトなのかと想像させてくれます。
 

そして実際に登場するのが、淡水にも適応できるオオメジロザメ。

「なぜこのサメなのか?」という設定にも説得力があります。
 

しかし、物語を深く見ると、もう一つのテーマが浮かび上がります。

それが、依存からの脱出と自立です。
 

サラにとって本当に脱出しなければならなかったのは、洞窟だけではなかった。

自分よりもマックスの判断を優先してしまう関係から抜け出し、自分の人生を自分で判断すること。
 

そう考えると、最後にサラが一人で洞窟から脱出する場面は、単なるサバイバル映画の「生還」ではなく、

「これからは自分の判断で生きていく」

という新しい人生のスタートにも見えてきます。

 

 

 

『スレンダーマン 奴を見たら、終わり』ネタバレ感想|都市伝説とは違う?
 

※以下、映画の結末を含むネタバレがあります。

2018年公開の『スレンダーマン 奴を見たら、終わり』を鑑賞しました。
 

スレンダーマンといえば、インターネットから生まれた有名な都市伝説です。
異様に背が高く、顔には目や鼻、口がなく、黒いスーツを着た謎の男。子供たちの写真や古い画像の片隅に、いつの間にかその姿が写り込んでいる――。
 

そして、その写真が撮影された後には、子供の失踪や不可解な事件が起きている。

果たしてスレンダーマンが事件を引き起こしたのか。それとも、大きな悲劇が起こる場所に現れる「不吉な前兆」なのか。
 

この「何者なのか分からないのに、なぜか恐ろしい」という曖昧さこそ、スレンダーマンという都市伝説の魅力だと思っています。
 

ところが、本作を見て感じたのは、都市伝説としてのスレンダーマンと映画版のスレンダーマンには、かなり大きな違いがあるということでした。

 

 

 

 

 

ネットの都市伝説から始まる恐怖

物語の主人公たちは高校生の少女たち。

ある夜、彼女たちはネット上にある「スレンダーマンを召喚する方法」を試します。
 

最初はもちろん、半信半疑の遊びです。

ところが、その1週間後、課外活動中に仲間のケイティが突然姿を消します。
 

残されたレン、ハリー、クロエたちは、もしかするとスレンダーマンが本当に存在するのではないかと考えるようになります。
 

そして、彼女たち自身もスレンダーマンの姿を目撃するようになっていきます。

ここから日常は徐々に崩壊。
 

幻覚を見たり、奇妙な映像を目にしたり、精神的に追い詰められたりと、スレンダーマンの恐怖が彼女たちを侵食していきます。
 

スレンダーマンはかなり攻撃的

本作で少し意外だったのが、スレンダーマンがかなり「怪物」として描かれていることです。

都市伝説としてのスレンダーマンには、もっと曖昧なイメージがあります。
 

写真の片隅に立っている。

森の奥にいる。

いつの間にか子供のそばにいる。

しかし、何を考えているのか分からない。
 

本当に事件を起こしたのかも分からない。

そんな「存在そのものが不気味」という怪異です。
 

一方、映画版では、人間の精神に干渉し、幻覚を見せ、恐怖に陥れ、さらには触手を使って人間を捕らえたり連れ去ったりします。
 

終盤ではレンやハリーもスレンダーマンの犠牲になり、かなりモンスター映画的な存在になっています。
 

特に触手を使って人間を捕まえる姿を見ると、

「スレンダーマンって、こんなに直接攻撃してくる怪物だったっけ?」

と思ってしまいました。

 

 

「貞子」に近い映画版スレンダーマン

本作を見ていて感じたのは、都市伝説としてのスレンダーマンよりも、日本の『リング』に登場する貞子的な恐怖に近いということです。
 

『リング』では、呪いのビデオを見てしまうことが恐怖の始まりでした。

本作では、スレンダーマンの動画を見て、召喚方法を試したことが恐怖の始まりになります。
 

つまり、

「見てしまった」

「知ってしまった」

「関わってしまった」

ことによって、怪異に取り込まれていく。
 

この構造はかなり『リング』的です。

スレンダーマンを「呪いの存在」として見るなら、これはこれで成立していると思います。

ただ、私が期待していたスレンダーマンは、もう少し違いました。

 

スレンダーマンの魅力は「曖昧さ」だと思う

私がスレンダーマンに期待していたのは、

「存在するだけで怖い怪異」

でした。
 

例えば、何気ない集合写真を見ていると、後ろに異様に背の高い男が写っている。

「この男は誰?」

と調べてみる。
 

すると、その写真が撮影された数日後に、写真に写っていた子供が行方不明になっていたことが分かる。

さらに古い写真を探してみると、何十年も前の別の事件にも、同じ男が写っている。
 

そして、過去の事件では多数の死傷者が出ている。

しかし、スレンダーマンが直接人を襲った証拠はない。
 

事件を起こしたのか?

それとも事件が起きる前兆として現れるのか?

そもそも実在するのか?
 

この「分からないのに、結果だけが恐ろしい」というところに、スレンダーマンの怖さがあると思っています。

太古の壁画や古い記録にも、スレンダーマンを思わせる存在が描かれていた――というような「人類が昔から知らない何かを見ていたのではないか」という解釈も、都市伝説としては非常に魅力的です。
 

こうした設定なら、スレンダーマン自身が画面にほとんど登場しなくても怖い。

むしろ、出てこないほうが怖いのです。

 

 

「メリーさん」のような恐怖なら、もっと怖かったかも

日本の都市伝説で例えるなら、私は「メリーさん」のような方向性もスレンダーマンには合っていると思います。

「今、○○にいるの」

「今、あなたの家の前にいるの」

「今、あなたの後ろにいるの」

という、少しずつ距離が縮まっていく恐怖。
 

スレンダーマンでも、

「写真の奥にいる」

↓

「別の写真にもいる」

↓

「過去の事件にも関係している」

↓

「現在の写真にも写っている」
 

という展開にすれば、かなり恐ろしい作品になったのではないでしょうか。
 

「奴が襲ってくる」のではなく、

「気がついたら、すでに奴は自分たちの世界に入り込んでいた」

という恐怖です。

 

 

 

 

 

映画としてはどうなのか?

とはいえ、本作を「スレンダーマンというキャラクターを使ったホラー映画」として見るなら、それほど悪い作品ではありません。
 

若者たちがネット上の都市伝説を軽い気持ちで試した結果、本当に怪異に巻き込まれていくというストーリーは分かりやすいです。
 

幻覚や不気味な映像、突然現れるスレンダーマンなど、ホラー映画としての見せ場もあります。

ただし、「スレンダーマンという都市伝説そのものの怖さ」を期待して見ると、少し物足りなさを感じるかもしれません。
 

都市伝説としてのスレンダーマンは、

「何者なのか分からない」

「なぜ存在するのか分からない」

「事件を起こしたのかも分からない」

「なのに、なぜか悲劇と結びついている」

という曖昧さが魅力。
 

映画では、その曖昧さを減らして、

「スレンダーマンに関わった人間が呪われ、精神を侵食され、最後には連れ去られる」

という分かりやすい怪異にしています。

 

映画『N号棟』ネタバレ感想・考察|幽霊団地の真相とモヤモヤする結末

映画『N号棟』は、かつて霊が出るという噂で有名になった団地を舞台にした、2022年公開のホラー映画です。

女子大生の史織は、元カレの啓太と、その恋人・真帆とともに、卒業制作のホラー映画のロケハンとして廃団地を訪れます。

ところが、廃墟同然の団地には今も住人たちが暮らしていました。
 

さらに、突然のラップ現象が起こったかと思えば、住人の一人が目の前で飛び降り自殺。しかし、周囲の住人たちは驚く様子もありません。

この時点で「この団地、何かがおかしい」と感じさせる展開です。

 

 

 

 

 

「死」を恐れない団地の住人たち

『N号棟』で特に異様なのは、住人たちが死を恐れていないこと。

彼らは死を恐れる史織とは対照的に、死を受け入れているように描かれます。
 

史織は死に対する強い恐怖を抱えており、そんな彼女にとって、死を当然のものとして受け入れる住人たちは不気味な存在です。
 

一方で啓太や真帆は、団地で起こる超常現象や臨死体験のような出来事に魅了され、次第に住人たちの思想に取り込まれていきます。

「死は怖くない」という考え方が、いつしか洗脳のようなものへ変わっていくのが恐ろしいところです。

 

 

ネタバレ:団地で何が起きていたのか?

物語が進むにつれ、史織は団地の異常な秘密に巻き込まれていきます。

自殺者や死体、霊の存在などが次々に登場し、単なる心霊スポットではなく、死者や死後の世界そのものを受け入れようとする異様な世界であることが分かってきます。
 

しかし終盤になると、物語はさらに複雑になります。

史織は錯乱し、啓太や真帆らを殺してしまい、自らも自殺を図ります。
 

ところが、死んだはずの人々が再び登場する。

ここから「今まで起きていたことは本当に現実だったのか?」という疑問が生まれます。
 

団地での出来事は、史織の妄想や精神世界だったのではないか。

あるいは本当に死後の世界へ入り込んでいたのか。

映画では、この部分を明確に説明していません。
 

ラストの意味を考える

終盤、史織は現実世界に戻ったように描かれます。

しかし、植物状態になっている母親の人工呼吸器を外し、母親の死を受け入れるような行動を取ります。

そして最後には、再び団地にいる史織の姿が描かれます。
 

ここから考えると、史織自身も死を受け入れ、団地の住人たちと同じ側へ行ったとも解釈できます。

一方で、そもそも団地自体が史織の精神世界だったとも考えられるため、ラストを一つの答えに決めることはできません。

 

 

 

 

 

文章で整理すると分かりやすいけれど……

この映画は、こうして文章で順番に整理すると「なるほど、そういう意味だったのか」と理解しやすくなります。

ただ、実際に映画を観ている最中は、かなりモヤモヤする作品だと思います。
 

幽霊団地の怪異を追う王道ホラーかと思っていたら、途中から死生観や精神世界の話になり、さらに現実と妄想の境界まで曖昧になっていく。
 

そのため、「幽霊の正体は何だったのか」「結局、何が現実だったのか」という明確な答えを期待すると、肩透かしを感じるかもしれません。
 

個人的には、怖さそのものよりも「これは一体何を見せられているんだ?」という困惑のほうが強く残りました。

ただ、それこそが『N号棟』の狙いなのかもしれません。
 

史織自身が「死」を理解できず恐れているからこそ、映画の中でも生と死、現実と妄想の境界が崩れていく。

そう考えると、観客をスッキリさせる作品ではなく、主人公と同じような不安定な感覚を味わわせる「考察型ホラー」と見ることができます。

 

 

『N号棟』は、幽霊団地の謎を楽しむホラーというより、「人間は死をどう受け入れるのか?」というテーマを、怪異と精神世界を使って描いた作品。
 

ただし、ストーリーを理解することと、映画として納得できることは別。

「意味は分かる。でも、観終わった後はやっぱりモヤモヤする」

そんなタイプのホラー映画でした。

『ぼくのすみっこ』ネタバレ感想・レビュー

ジョオ作、かみやにじ訳の絵本『ぼくのすみっこ』。

部屋の「すみっこ」にやってきた一羽のカラスの子が、自分だけの落ち着ける場所を少しずつ作っていく物語です。
 

ベッド、本、植物、音楽……。

カラスの子は、自分の好きなものを集めて、居心地のいい「すみっこ」を完成させていきます。
 

一見すると、小さなカラスが自分だけの部屋を作っていく、かわいらしい子ども向け絵本です。

しかし、最後まで読むと、この「すみっこ」という場所には、もう少し深い意味が込められていることが分かります。

※ここから先は結末を含むネタバレがあります。

 

 

 

 

 

本の「ノド」が部屋のすみっこになっている

まず面白いのが、この絵本の構造です。

本を開いたときにできる中央の綴じ目、「ノド」の部分が、カラスの子にとっての部屋の角として描かれています。
 

つまり、読者が本を開くことで、そのまま「すみっこ」が生まれるわけです。

カラスの子は、その場所に自分の好きなものを集めていきます。
 

ベッドを置き、本を置き、植物を育て、音楽も楽しむ。

何もなかった場所が、少しずつ「自分だけの場所」へと変わっていきます。
 

これは子どもにとっては、自分の部屋やお気に入りの場所を作る楽しさとして受け取れるでしょう。

一方、大人が読むと、

「自分が安心できる場所を持つ」

という意味にも見えてきます。
 

好きなものを集めても「何かが足りない」

カラスの子は、自分が好きなものを次々と集めていきます。

これだけ揃えば、もう十分に居心地のいい空間です。
 

ところが、それでもカラスの子には「何かが足りない」。

ここが、この絵本の重要なポイントだと思います。
 

物が足りないわけではありません。

好きなものもある。

安心できる場所もある。
 

ひとりで過ごすこともできる。

それなのに、何かが足りない。

そしてカラスの子が作るのが「窓」です。

 

 

足りなかったのは「外の世界」だった?

窓ができることで、それまで閉じていた「すみっこ」に外の世界とのつながりが生まれます。

ここで考えさせられるのが、カラスの子に本当に足りなかったものは何だったのか、ということです。
 

単純に考えれば、「友達」だったのかもしれません。

しかし、この絵本は「友達を作りましょう」と直接教える作品ではありません。
 

むしろ最初に、

「ひとりで安心できる場所を作っていい」

と認めているように感じます。
 

ひとりで過ごすことも、自分の好きなものに囲まれることも悪いことではない。

そのうえで、自分の世界ができたからこそ、今度は外の世界にも目を向けてみる。

そんな流れに見えます。

ラストで「こんにちは」

そして物語の最後。

カラスの子のもとに、別の白いカラスの子がやってきます。
 

そこで交わされるのが、「こんにちは」という短い挨拶です。

とてもシンプルな結末です。
 

でも、この「こんにちは」が、それまでの物語を一気に違うものに見せてくれます。

カラスの子は最初、自分だけの「すみっこ」を求めていました。
 

そこに好きなものを集め、安心できる場所を作りました。

ところが最後には、その場所が外の世界とつながる場所になります。

つまり「すみっこ」は、単なる閉じこもる場所ではなくなったのです。

 

 

 

 

 

「すみっこ」はゴールではなく、出発点

この作品を読んで一番印象に残ったのは、ここでした。

最初のカラスの子にとって、すみっこは「自分を守る場所」です。
 

誰にも邪魔されず、自分の好きなものだけに囲まれていられる。

ところが、窓を作ることで、その意味が変わります。
 

「自分だけの場所」から「外の世界を見る場所」へ。

そして最後には、誰かと「こんにちは」と言葉を交わす。
 

だから、この絵本のテーマを一言で表すなら、

「自分の居場所を作ることと、そこから誰かとつながること」

なのではないでしょうか。

 

『ドクター・ドリトル』ネタバレ感想!エディ・マーフィー版との違いに衝撃

ロバート・ダウニー・Jr.主演の『ドクター・ドリトル』を鑑賞。

「ドクター・ドリトル」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、エディ・マーフィー主演の1998年版。

動物の言葉が分かるようになった医師が、動物たちとテンポの良い会話を繰り広げるコメディ映画だ。

そのイメージで本作を観ると、かなり驚かされる。
 

妻を失い、引きこもるドリトル先生

本作のドリトル先生は、かつて動物と人間の双方から信頼される名医だった。

しかし最愛の妻リリーを失ったことで心を閉ざし、人間社会から離れて動物たちと暮らしている。
 

そんな彼のもとに、病に倒れた若き女王を救ってほしいという依頼が届く。

女王を救うためには伝説の島にある治療法が必要だと分かり、ドリトル先生は助手の少年スタビンズや、オウム、ゴリラ、アヒル、シロクマ、ダチョウ、犬などの動物たちとともに海へ旅立つ。
 

ここから物語は一気に海洋冒険映画へと変わっていく。

 

 

 

 

 

女王の病気と王室の陰謀

旅の目的は女王を救うことだが、単純な治療の物語ではない。

女王の病気には陰謀が絡んでおり、ドリトル先生たちは海賊ラソーリにも追われることになる。

伝説の島を目指し、危険な生物や敵と戦いながら治療法を探すという展開は、まさにファンタジー・アドベンチャー。
 

最終的には治療法を手に入れ、女王を救うことに成功する。

同時に、ドリトル先生自身も妻を失った悲しみから少しずつ立ち直っていく。
 

つまり本作は、「動物と話せる医師が女王を救う物語」であると同時に、「大切な人を失った男が再び人間社会と向き合う物語」でもある。
 

ただし、エディ・マーフィー版を知っていると戸惑う

本作を観て最も感じたのが、エディ・マーフィー版との違いだ。

エディ・マーフィー版では「動物と話せる」という設定そのものが映画の最大の魅力だった。
 

動物たちが好き勝手に話しかけ、ドリトル先生がそれにツッコミを入れる。

つまり「動物と話せる医者」という設定が、そのまま笑いを生み出していた。
 

ところが2020年版では、動物たちはドリトル先生の仲間として冒険をする。

ゴリラは臆病者、ダチョウは皮肉屋、シロクマは陽気なキャラクターと、それぞれ個性はある。

しかし「動物と話せる」という能力そのものが、物語の中心になっているわけではない。
 

そのため、

「ドリトル先生なら、もっと動物と話すところを見たい!」

という気持ちが残ってしまった。
 

「動物を人間に置き換えても成立するのでは?」

さらに気になったのが、物語の構造だ。

海洋冒険、海賊との戦い、女王の暗殺を巡る陰謀、伝説の島、主人公の心の再生。

これらは、必ずしも「動物と話せる医師」でなければ成立しない物語ではない。
 

極端に言えば、動物たちを人間の冒険仲間に置き換えても、ストーリーそのものは成立してしまう。

本来なら、

「宮殿のネズミから犯人の情報を聞く」
「鳥に敵を尾行させる」
「昆虫から毒の正体を聞き出す」
 

など、「動物と話せるからこそ解決できる事件」をもっと盛り込んでもよかったのではないだろうか。

そうすれば、冒険映画でありながら「ドリトル先生でしか成立しない物語」になったはずだ。

 

 

原作を知ると、実はそれほど間違っていない

ただ、ここで面白いのが原作との関係だ。

原作のドリトル先生は、動物と話せる名医であると同時に、動物たちと世界を旅する冒険家でもある。

『ドリトル先生アフリカゆき』や『ドリトル先生航海記』では、動物たちとともに船に乗り、さまざまな土地を訪れている。
 

そのため、2020年版が冒険映画になっていること自体は、原作から大きく外れているわけではない。

むしろ、原作の「航海するドリトル先生」という側面を大作映画として膨らませた作品と考えることもできる。

ただし、原作を知らず、エディ・マーフィー版だけを知っている身としては、この違いがかなり大きかった。
 

まとめ


『ドクター・ドリトル』は、決して「動物と話す医師」を期待して観る映画ではない。
 

正確には、

「動物と話せる名医が、動物たちとともに女王を救うため世界を旅するファンタジー冒険映画」

だと思う。
 

映像は豪華で、動物たちも個性的。ロバート・ダウニー・Jr.をはじめ、声優陣も非常に豪華だ。

しかし、エディ・マーフィー版のような「動物と話せる」という設定を最大限に活かしたコメディを期待すると、かなり肩透かしを感じる。
 

個人的には、

「冒険映画として悪い」というより、

「ドクター・ドリトルで期待していたのは、そこじゃないんだよな~」

という感想になった。
 

原作のドリトル先生を知っている人なら、動物たちとの航海という方向性に納得できるかもしれない。

一方、エディ・マーフィー版から入った人にとっては、「自分が知っているドリトル先生と違う!」という衝撃を受ける作品だと思う。

 

 

『S.W.A.T. アンダーシージ』ネタバレレビュー!黒幕エレンの裏切りとスコーピオン無双
 

『S.W.A.T. アンダーシージ』は、2017年に製作されたアクション映画。
タイトルから本格的なS.W.A.T.ものを期待すると少し肩透かしを食らうかもしれませんが、実際には「警察署を舞台にした籠城戦」に「裏切り」と「肉弾アクション」を詰め込んだ、分かりやすいB級アクション映画です。
 

特に印象に残るのが、マイケル・ジェイ・ホワイト演じる謎の男スコーピオン。主人公トラヴィスを差し置いて、終盤になるほど彼の存在感が増していきます。
 

謎の男スコーピオンを巡る籠城戦

物語は独立記念日の朝、S.W.A.T.のトラヴィスたちが閉鎖された倉庫を急襲するところから始まります。

激しい銃撃戦の末、トラヴィスたちはコンテナの中から謎の男を発見します。
 

男の名前はスコーピオン。

彼は単なる犯罪者ではなく、国家を揺るがすほどの重要な秘密を握っていました。
 

そのため、スコーピオンを狙う武装集団が警察署を襲撃。S.W.A.T.は自分たちの本拠地に立てこもりながら、敵の攻撃を食い止めることになります。
 

この時点で映画の構造は非常にシンプルです。

「警察署に立てこもるS.W.A.T.」
「外から攻撃してくる武装集団」
「その中心にいる謎の男スコーピオン」
 

という、いわば警察署版『ダイ・ハード』。

そこに内部の裏切り者まで加わり、事態はさらに混乱していきます。

 

 

 

 

 

最初の裏切り者はウォード

事件の途中で判明するのが、S.W.A.T.内部の裏切りです。

隊員のウォードが敵側と通じており、ラーズ率いる武装集団に情報を流していました。
 

S.W.A.T.が敵を罠にはめようとしても、ウォードが情報を漏らすため作戦が読まれてしまいます。

「こいつが内部の裏切り者だったのか」と思わせる展開です。
 

ただ、ウォードについてはキャラクターの掘り下げがほとんどありません。

なぜ裏切ったのか、ラーズとはいつからつながっていたのか、何を目的にしていたのか。
 

こうした部分が十分に描かれないため、「裏切り者」という役割を与えられたキャラクターという印象が強く残ります。

さらに驚くのがエレンの裏切り

そして終盤、さらに大きな裏切りが判明します。

トラヴィスの上司であるエレンが、実は事件の裏側で動いていた人物だったのです。
 

これはなかなか驚かされました。

それまでエレンとトラヴィスには、単なる上司と部下以上の親密さを感じさせる場面もあります。
 

2人の関係には、どこか特別な信頼関係があるように見えるため、「もしかして過去に恋愛関係でもあったのでは?」と思わせる雰囲気すらあります。
 

しかし、劇中で元恋人だったという設定はありません。

だからこそ、そんなエレンがトラヴィスを裏切る展開は意外です。

ただし、ここは本作の惜しいところでもあります。

 

 

エレンの裏切りは理由が弱い

エレンが黒幕だったという展開そのものは面白いのですが、「なぜ彼女がそこまでして裏切ったのか?」という動機が弱いのです。
 

スコーピオンが持っている国家レベルの秘密を狙っていたことは分かります。

しかし、
 

「なぜその情報が欲しいのか」
「ラーズとはどういう関係なのか」
「最終的に何をするつもりだったのか」

といった部分が十分に説明されません。
 

ここは非常にもったいない。

例えばエレンが元CIAなどの国家機関の人間で、過去に政府の秘密作戦に関わっていた。
 

あるいは、優秀な女性隊員として努力してきたものの、男性中心の組織で出世の限界を感じ、裏の世界で力を手に入れようとしていた。
 

そんな背景があれば、かなり説得力が増したと思います。

さらにトラヴィスへの複雑な感情まで絡めれば、単なる「実は悪人でした」という展開ではなく、もっとドラマチックな裏切りになったでしょう。
 

主人公トラヴィスよりスコーピオンが目立つ!

そして、この映画最大の特徴とも言えるのが、マイケル・ジェイ・ホワイト演じるスコーピオンです。

最初は「謎の男」「守られるべき重要人物」という印象なのですが、話が進むにつれて印象が変わってきます。

とにかく強い。
 

銃撃戦だけでなく、接近戦になると格闘技で敵を次々と倒していきます。

マイケル・ジェイ・ホワイト自身の格闘技経験もあって、肉弾戦になると完全に主役級。
 

終盤になると、

「この人、S.W.A.T.に守ってもらう必要あるの?」

と思ってしまうほどです。
 

主人公トラヴィスは作戦を考え、仲間をまとめ、事件の真相に迫る役割を担っています。

一方のスコーピオンは、
 

「敵が来たなら俺が倒す」

という非常に分かりやすいキャラクター。
 

そのためクライマックスでは、トラヴィスよりもスコーピオンのほうが目立っているように感じます。

 

 

ラーズとの因縁

スコーピオンを狙うラーズは、単なる敵ではありません。

かつてスコーピオンと行動を共にしていた人物で、過去の因縁があります。
 

そのため、物語の後半では国家機密を巡る争いだけではなく、スコーピオンとラーズの個人的な対決にもなっていきます。

最終的にはスコーピオンがラーズを倒します。
 

マイケル・ジェイ・ホワイトの格闘アクションを見せるためのクライマックスと言ってもいいでしょう。

最後はスコーピオンが逃亡

事件が一段落したと思ったところで、さらにオチがあります。

スコーピオンは死亡したと思われますが、実は死んでいません。
 

別人の遺体を利用して死亡を偽装し、逃亡していたのです。

トラヴィスもそれに気づきますが、スコーピオンを見逃します。
 

敵だったはずのスコーピオンですが、トラヴィスは彼を単純な犯罪者とは見なさなくなっていたのでしょう。

そしてトラヴィスは家族のもとへ戻り、穏やかな日常へ帰っていきます。

 

 

 

 

 

まとめ

『S.W.A.T. アンダーシージ』は、S.W.A.T.のリアルな特殊部隊活動を描いた作品というより、
 

「警察署が武装集団に包囲される」
「内部に裏切り者がいる」
「謎の男が国家機密を握っている」
「最後は格闘アクション!」

という要素を楽しむB級アクションです。
 

ウォードの裏切りから、さらにエレンまで裏切り者だったという展開は面白いのですが、人物の動機が十分に描かれていないのは残念。
 

特にエレンは、トラヴィスとの関係も含めて、もっと掘り下げればかなり魅力的なキャラクターになったはずです。

一方で、マイケル・ジェイ・ホワイト演じるスコーピオンは文句なしの見せ場担当。
 

主人公トラヴィスを食ってしまうほどの存在感で、終盤はほとんど「スコーピオン無双」と化します。

深い人間ドラマやリアリティを求めるより、「警察署で銃撃戦! 裏切り! マイケル・ジェイ・ホワイトが格闘!」くらいの気持ちで見ると楽しめる作品です。
 

個人的には、素材はかなり面白いのに、キャラクターの背景を掘り下げなかったのが惜しい映画という印象でした。

『THE CAVE ザ・ケイブ レスキューダイバー決死の18日間』ネタバレ感想|タイ洞窟遭難事故の実話を描いた救出劇
 

2018年6月、タイ北部チェンライのタムルアン洞窟で、サッカーチーム「ムーパ」の少年12人とコーチ1人が洞窟内に閉じ込められるという事故が発生した。
 

『THE CAVE ザ・ケイブ レスキューダイバー決死の18日間』は、世界中を驚かせたこの「タイ洞窟遭難事故」を題材にした2019年の実録映画である。
 

タイトルからして、洞窟に閉じ込められた少年たちのサバイバルを描いた作品だと思っていたのだが、実際に観てみると少し違った。

本作の主人公は、少年たちというよりも、彼らを救出するために集まった人々なのだ。
 

少年たちは、なぜ洞窟へ入ったのか?

2018年6月23日、練習を終えたサッカーチームの少年たちは、チームメイトの誕生日を祝うことも兼ねてタムルアン洞窟へ向かう。
 

「危険な洞窟探検をしよう」と大掛かりな計画を立てていたわけではない。

練習後のちょっとした冒険、あるいはチームでの肝試し遊びに近い感覚だった。
 

そしてコーチも一緒に洞窟へ入っている。

ここは映画を観ていて、「なぜ大人であるコーチが止めなかったのか?」と思ってしまうところだ。
 

しかし、当初は短時間で戻るつもりだった。

ところが、その後に激しい雨が降り始める。
 

洞窟内へ大量の水が流れ込み、少年たちが入ってきた道が水没。

帰ることができなくなってしまう。
 

つまり、少年たちは自分たちから危険な奥地へ進んでいったというより、浸水から逃れるために洞窟のさらに奥へ移動することになったのである。

発見されたのは遭難から9日後

捜索が始まっても、洞窟は広大で、水没した通路も多い。

簡単には少年たちを見つけられない。
 

そして遭難から9日後。

イギリス人洞窟ダイバーたちが、入口から約4キロ離れた場所で少年たちを発見する。
 

この場面は本作の大きな見せ場だ。

全員が生きていた。

しかし、発見されたからといって救助が成功したわけではない。
 

むしろ、ここからが本当の難題だった。

少年たちがいる場所までの道は水没しており、洞窟内を潜水しなければ外へ出られない。
 

少年たちは洞窟潜水の経験などない。

普通に泳いで脱出させることは極めて危険だった。

 

 

少年たちを救うための、とんでもない作戦

そこで考えられたのが、少年たちを鎮静させ、ダイバーが一人ずつ運び出すという方法だった。

これが本作最大の恐怖だと思う。
 

少年を眠らせてしまえば、パニックになる危険は減る。

しかし、今度は意識のない少年をダイバーが水中で管理しなければならない。
 

一歩間違えれば、救助されるはずの少年自身が命を落とす可能性がある。

しかも洞窟は狭く、水は濁り、視界も悪い。

救助する側も命懸けだ。
 

実際、救助活動中には元タイ海軍特殊部隊のダイバー、サマン・グナンが酸素ボンベを運ぶ途中で死亡している。

つまり、この救助は決して「時間が経てば自然に助かる」というものではなかった。

世界中から集まる洞窟ダイバー

タイ国内だけでなく、海外からも洞窟潜水の専門家が集まってくる。

その中には、実際の救助活動に参加した洞窟ダイバー、ジム・ウォーニーもいる。
 

しかも本人が本人役として出演している。

このあたりが本作の大きな特徴。
 

俳優が作り上げたヒーローではなく、実際に現場を経験した人間が登場するため、ハリウッド的なレスキュー映画とは違う、生々しさがある。
 

さらに排水作業やポンプを使った水位低下など、ダイバーだけではない多くの人間が救助作戦に関わっていく。

軍、ダイバー、ポンプ業者、医療関係者など、さまざまな立場の人間が一つの目的に向かって動いていく群像劇になっている。
 

そして、少年たちは一人ずつ救出される

いよいよ救出作戦が始まる。

ダイバーが洞窟の奥へ入り、少年を一人ずつ外へ運び出していく。
 

何度も洞窟へ潜り、何度も戻ってくる。

しかも雨が再び降れば、水位が上昇してしまう。
 

「次の雨が降る前に全員を出せるのか?」

という時間との戦いでもある。
 

そして作戦は成功。

少年12人とコーチは、全員無事に救出される。
 

最終的に全員生還。

18日間に及ぶ救助活動は奇跡的な成功を収めた。

 

 

 

 

 

サバイバル映画として見ると、少し物足りない?

ここが本作の個人的な評価を分けるところ。

実話を扱った映画なので当然ではあるのだが、少年たちには死者が出ない。
 

そのため、一般的なサバイバル映画にあるような、

「仲間が次々に死んでいく」

「食料が完全に尽きる」

「極限状態で仲間割れする」

「誰かを犠牲にするか選択を迫られる」
 

といった劇的な展開はほとんどない。

観客としては、結末を知っていれば「最終的には全員助かる」と分かっている。
 

そのため、純粋なエンターテインメントとして観ると、少々淡々としている印象もある。

本作の緊張感は「少年たちが死ぬかどうか」よりも、
 

「この救助方法で本当に助けられるのか?」

「次の雨が降る前に間に合うのか?」

という、救助作戦そのものにある。
 

『ラスト・ディセント』とはかなり温度差がある

同じく実際の洞窟事故を題材にした作品として、『ラスト・ディセント ナティ・パティ洞窟事故』がある。

こちらは、洞窟内で身動きが取れなくなったジョン・ジョーンズの救出を描く作品だ。
 

この2本を比較すると、その温度差はかなり大きい。

『THE CAVE』は、

「どうやって13人を救出するのか?」

という希望の物語。
 

対して『ラスト・ディセント』は、

「救助隊がここまで来ても、本当に救出できるのか?」

という絶望の物語だ。
 

『THE CAVE』では救助側の努力が最終的に実を結ぶ。

一方、『ラスト・ディセント』では、どれだけ救助を試みても物理的に救出することができず、最終的には犠牲者が出る。
 

もちろん犠牲者の有無だけで映画の面白さが決まるわけではない。

しかし、映画としての緊張感や後味には大きく影響している。
 

『ラスト・ディセント』が「洞窟事故の恐怖」を直接的に感じさせる作品だとすれば、『THE CAVE』は「人間が巨大な事故に立ち向かい、救助を成功させるまで」を見る作品だと思う。

ドキュメンタリーとして見るなら面白い

結局、本作をどういう映画として観るかが重要なのだと思う。

「洞窟に閉じ込められた少年たちのサバイバル映画」として期待すると、少し肩透かしを食らうかもしれない。
 

しかし、

「実際にどうやって13人を救出したのか?」

という視点で観ると非常に興味深い。
 

特に、海外から集まった洞窟ダイバー、タイ軍、ポンプ業者、医療関係者など、多くの人間が救出作戦に関わっていたことが分かる。
 

そして、救助する側にも命の危険があった。

少年たちが全員生還したという結果だけを見ると「奇跡の救出」と簡単に言えてしまうが、その裏側には、無数の人間による判断と努力、そして命懸けの作業があった。
 

そう考えると、本作は「少年たちのサバイバル映画」というより、

「13人を救うために世界中の人々が動いた、18日間の救助記録」

として観るのが一番しっくりくる。
 

派手なハリウッド映画を期待するより、実際の事故と救助活動に興味がある人向け。

個人的には、同じ洞窟事故を題材にした『ラスト・ディセント』と比較すると、本作の特徴がより分かりやすいと思う。
 

『ラスト・ディセント』が「洞窟に飲み込まれる恐怖」なら、『THE CAVE』は「人間が洞窟から人を取り戻すための戦い」。
 

同じ洞窟事故映画でも、ここまで温度差があるのはなかなか面白い。