小説・混雨 【まじりあめ】

小説・混雨 【まじりあめ】

学生時代に制作した映画の小説。カナダ・バンクーバーを舞台にしたストーリー。

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好きなどという感情は全くない。自分が売れるためには、どうしてもこの男を利用しなくてはならない。

自分でも最初は吐き気がするほど嫌だったが、時間が経過するに連れ、それもなくなった。30半ばを過ぎた中年。


男の名前は福元。
天は二物を与えずというが、音楽プロデューサーとしての才能をこの男から取り除いたら、どこにでもいる中年オヤジ。かれこれ1年以上になるだろうか。最初は食事だけの付き合いだったのが、いつしか福元の家に寝泊りするようになった。
人間慣れればなんでもできるものかもしれない。星子は最近の自分に戸惑いを覚えながらも、どこか日常の「異常」が「通常」に変わる様を当然の事と捕らえ始めるようになった。

「今日も泊まっていい??」

これが自分の声かと思うほど、別の声色で福元に問いかける。女優顔負けの演技力に、内心は苦笑している自分がいる。
スターとして生き残るには、、この思いは、常人には理解できないもの。

男性歌手とは違い、女性歌手は年齢を重ねる事に自分の商品価値が薄らいでいく。星子はそう考えている。悔しいけれど、本山星子という商品は福元の力なしでは生き残っていけないと自覚している。

『作詞 本山星子 作曲 福元博之』

このコンビでリリースすれば、必ず売れる。今はその絶頂にあるといってよい。この男と組み始めて数年が経つ。人間としては最低でも、作曲家としての福元と手を切ることはできない。何度も福元とは縁を切ろうかと考えた。

しかし、星子は痛いくらいに曲の大切さをわかっている。どんなに素晴らしい詞をかけても、それを彩るメロディーと楽曲がなければ無為なものになってしまうのだ。特に昨今の業界は、詞よりもメロディーを重視する風潮がある。
極端に言えば、メロディーさえよければ何でも良い。そんな流れになっていることを否めない。

「自分のピークは少なくとも、あと3,4年で過ぎてしまう」

そう考えたのは2年ほど前から。デビュー前とは180度考え方も変わった。一度スターの階段を駆け上ってしまうと、良い意味も悪い意味も含めて、変わってしまうものなのかもしれない。少なくとも星子は、何かを失ったとは思っていない。変わったのだ。肯定的に考えなければ、この忙しい日常を到底乗り切ることはできない。

リリースする楽曲はすべてミリオンを越え、ファンレターの数も数え切れない。分単位のスケジュールは、ときに生きてる心地もしないけれど、確実に今、自分は世の中で最も注目される存在。なくてはならない存在であり、人間なのだ、と感じる。

しかしその裏側には常に5年後の落ちぶれた自分が見える。悪夢にうなされ、夜中に飛び起きることも少なくない。そんな不安がプロデューサーとの密会を加速させ、より深いものにさせていった。

こうして今も、目の前の中年プロデューサーを前にして、必死に自分を売り込んでいる。そう、売り込んでいるのだ。
私を絶対見捨てないで。そんなかわいい言葉では片付かない、しがみつくような思いが星子の行動を支配していた。今ここで脱落するわけにはいかない。

「たまには一人にしてくれよ~」

福元がどこか誇らしげに呟く。星子を自分のものにしている、とでも思っているのだろう。

「いいじゃない。それとも他の女の子と約束でもあるの?」

「今日はないよ、今日はね」

少し含んだ言い方が癇に障る。思いっきり殴ってやりたい心境でも、決して顔には表さない。今はこの男が必要なのだ。

そんな二人の間に割ってはいるように、激しいノックの音と共に男が滑り込んできた。

「失礼します!!」

星子のマネージャーの清水である。よほど急いできたのか、呼吸が乱れている。顔面蒼白になり、星子とプロデューサーを交互に凝視している。星子は何かある、と直感した。

「た、た、大変なことがっ!これからCD発売っていう大切な時期に困るんですよ!」

と、星子もよく見る女性誌を広げながらプロデューサーに抗議し始めた。そのページには、『本山星子 熱愛発覚!』の見出しで、星子と福元が仲良くホテルから出る写真を掲載している。

「誰だ、これを撮ったのは!!」

福元が我を忘れて怒鳴りつける。清水も苛立ちを隠せない。彼にとって星子は大事な商品。それを傷つけた福元に激しい怒りを見せているのだ。

事の重大さを理解し始めたのか、福元も俄かに青ざめていくのがわかった。しかし、すぐに苦虫を噛み潰したかのような表情に変わり、所狭しと歩きはじめた。星子の身を案じているのではなく、自分の今後に影響するとでも思っているのか。


星子は、内心今後の影響を思案するものの、なぜか第3者のような気持ちで冷静にその場を見つめていた。自分のおかれた状況よりも、福元が慌てふためく姿がどこか心地よい。これからの対応に追われる清水にとっては申し訳ない話だが、いつかこうなることはわかっていた気がする。わかっていても、止められなかった。売れるためには。

落ち着かない福元を睨みつけ、清水は言葉を浴びせる。

「どうしてくれるんですか?福元プロデューサー!」

福元は、あたかも清水がここにいないかのように無視している。

清水は吐き捨てるように、

「これ撮ったの、、麻生真己っていう、しょうもないカメラマンですよ」

と言った。

「麻生真己・・・」

星子はその名前を聞いて驚いた。星子の知っているあの麻生真己なのか。いや、そんなはずはない。もう何年も連絡はとっていないし、自分の知っている真己はそんな人間ではない。しかし、、、

携帯を握り締め、星子はその場から立ち去った。

「鉄男!!こい」

「なんですか、巌さん」

「太郎が、、、出てきたらしい。お前行ってちょっと確かめてこい。鍵は失くしちゃあいねえだろうから」

「はい、わかりました」

鉄男は小走りで出て行った。ロンズデールの一角にあるアパート。巌は真っ暗な部屋の中で、煙草の煙の行方を目で追っている。太郎が出てきたという情報は、いち早く知っていた。

太郎がどうなったのか、自分のことを恨んでいるのか。そんなことはどうでもいいことだと思っている。巌が必要なのは鍵の行方、だけだ。太郎が捕まった2年前に売りさばいていれば相当な大金になったはずが、警察の介入によりお預けとなった。太郎が素直に渡すとは思えない。しかし太郎ひとりでは何もできないはずだ。

「面白くなりそうだ」

巌は煙草を空き缶に押し付け、ソファーに深く身を沈めた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

軽快に流れるヒップホップに体でリズムをとりながら、太郎は出所してからの何日間を思い出していた。

本来、星子に渡すつもりのテープが、その場の雰囲気で茶子に渡すことになった。予期せぬ展開だったが、今ではよかったのかもしれないと思い始めている。

今後は茶子を円の中心として、新しいストーリーが描けるかもしれない。あるいは、テープをもらった茶子が、あの曲をきっかけに独自で動き始めるかもしれない。実際、茶子には偶然遭遇できたが、ほかの面々に会うきっかけどころか、その居場所すらつかめていないのが現実だ。星子に再度面会を求めたところで断られるのが関の山。

とりあえず、茶子に電話してみるか、、

太郎が携帯を手にした瞬間、けたたましく携帯が着信をつげ、危うく落としそうになった。

「はい」

「もしもし、太郎さんですか?」

聞いたこともない男の声だった。車が走っている音が聞こえてくる。相手も携帯からかけているのだろう。

「俺、鉄男って言うんですけど、今太郎さんの家の前にいるんで、ちょっと話できないですか?」

鉄男なんて名前に記憶はない。

しかし、相手はどうやら自分のことを知っているような口ぶりだ。声色から、普通のおとなしい青年とは思えない、どこか太郎と同じようなバックグラウンドを持った雰囲気がある。ようするに、どうしようもない悪といった感じだ。


太郎は立ち上がり、窓のブラインドを上げて前の道路を確認した。外に一台白い旧車が止まっている。そこにいる男がこちらを確認したのか、右手を挙げて合図しているのが見える。やはり太郎の記憶にない男だった。ニット帽を深くかぶり、こちらに鋭い視線をぶつけている。


太郎は電話を切り、家の外へ出た。

「こんにちわ、太郎さん。今日は大事な話あってきました」

申し合わせたように、鉄男という男が近づいてくる。顔は白く、角ばっていて、太郎よりも少し身長が高いぐらいだろうか。やけに鋭い目つきが気になる男だ。こういうタイプの男は、太郎の経験からすると、喧嘩の時に真っ先に手を出す鉄砲玉のような存在だろう。考えるよりも先に行動する厄介な部類の人間である。

「あの~、あんたが誰だかしらないけど、俺、あんまあんたみたいな連中と関わりたくないんで、、、。ごめんなさい、それじゃあ」

太郎はそういうと、すぐに踵を返して家へと向かう。こういう人間と関わってもろくなことがない。

相手が何のために来たのか気になるが、逃げるのが得策だ。そんな太郎の行動を見透かしたように、鉄男は声をかけてきた。

「太郎さん、もってますよね?鍵」

一瞬にして頭に血が昇ったのがわかる。鉄男の一言ですべて納得した。こいつの目的は、あの鍵だ。

「お前さ~、誰だか知らねえけど、人のことにいちいち口だすな」

太郎は鉄男の頭を抑えつけ、後ろへ突き飛ばすと、動揺を隠すように急いで家へと足を向けた。
なんであいつが鍵のことを知っているのか。入所から今まで一度たりとも鍵のことは忘れていない。あの日のこと。裏切り。頭の隅に追いやっていたことを、鉄男に無理やり引き出されたことに抑えきれない苛立ちを感じる。動悸が早くなっているのがわかる。

「巌のヤロウか」

まさかここまで早く居場所を突き止められるとは思ってもいなかった。圭介のためにやらなければならない大事な仕事を前に、横槍を刺された格好になる。太郎の過去は、未だ未解決の状態なのだ。
太郎は部屋に戻ると、感情を押し殺すようにCDのボリュームを上げ、窓の外を見た。すでにそこに鉄男の影はない。

これは一筋縄ではいかないかもしれないな。

入所してからの数年の間に、変わったものもあれば変わらなかったものも確実にあったのだ。一度どこかで決着はつけなければならないだろう。
鉄男という男は既に太郎の家も、携帯の番号も知っている。今日の様子を今頃巌に報告しているはずだ。先手を打つか、次の奴等の出方を伺うか。外を見上げるとどんよりとした厚い雨雲が空いっぱいに居座っている。


太郎は釈然としないまま、薄暗い部屋でもてあましている。今後の行動、茶子との出会い、圭介との約束、、、、。
考えることは山ほどあるのだが、先日突然押しかけてきた男のことが気にかかっている。

確か、、鉄男とか言ってたな、、。俺がいた頃にはあんな奴いなかったはずだが、、。

気にすることもないのだが、予期せぬところから水を差された気がして、太郎の心に重く圧し掛かっている。不安とはちょっと違う、
後味の悪い料理を口にしたような気持ちだ。

「まあ、なるようになるさ」

そうつぶやいたものの、何かすっきりしないのが腹立たしい。太郎は机の上にあった女性誌を取り上げ、おもむろにページをめくり始めた。
芸能人のスキャンダル、政治ネタ、ダイエット法、、、どれもこれもくだらない。ページをめくるのも億劫になるぐらい、どうでもいい話題ばかりをとりあげ、人の揚げ足をとるような内容が太郎の気分をますます不快にさせる。

「くだらねえ」

太郎は雑誌を机に投げ捨て、煙草に火をつけた。一つ大きく煙を吐き出し、何気なく辺りを見回したが、ここは姉のアパート。これといって何もないのは重々承知しているのだが、手持ち無沙汰なこの状況を打開する何かを無意識に探していた。
机の上には先ほどの女性誌と灰皿、飲み干したビールの缶が散乱している。

「ん?!」

先ほどは全く気にも留めなかった女性誌の表紙に、本山星子の名前が大きく出ている。

『本山星子 熱愛発覚!!』

太郎は灰皿へ煙草をねじ込み、はやる心を抑えつつ、目的のページを探した。

事務所ビルを出て、大通りを歩き始めたところに一人の男が声をかけてきた。

「星子に会えた?」

先ほど受け付けで会った男である。この男はずっと待っていたのだろうか。改めて茶子はこの男をまじまじと観察した。どうみても怪しい男である。

「ちょっとその辺で何か飲まない?」

男は茶子に問いかけた。既に男の手には2本の缶コーヒーが用意されている。いつもであれば当然断る茶子も、意気消沈とした今の気持ちを誰かに吐きたかったのか、ついOKしてしまった。West Gerogia St.の木陰に腰掛け、男は茶子にもってた缶コーヒーを手渡した。

「茶子ちゃんって言うんだ~」

と男は言った。茶子は、なんでこの男が自分の名前を知っているのだろう、とますますこの男を不審に思い始めた。確か、受付でも名前など言っていないはずである。そんな茶子の様子を察したのか、男は慌てながら

「ごめん、茶子ちゃんと星子の会話、裏の窓から盗み聞きしてたんだよね」

と言った。盗み聞きという行為を全く悪いと思っていない様子である。ずっと優等生で育ってきた茶子には考えられない行動だ。

「俺、太郎。星子の元彼。最近まで付き合ってたんだけど」

と男は言った。本当か嘘かはわからない。しかし、事務所であれだけ粘っていたことを思うと、なんらか関係があるのだろう。この人は自分の知らない星子を知っているかもしれない。茶子はかすかな期待を持って男の言葉を待った。

「茶子ちゃん、カフェ開くんだって?星子とは昔からの友達だったの?」

「うん、今度ようやくオープンするの。昔からの夢。星子ちゃんとは幼馴染なんだけど。ネルソンって知ってる?オカナガンよりさらに奥に行ったところにある小さい街なんだけどね。」

と茶子は話し始めた。

「私と星子ちゃんはそこで生まれて、共に過ごしたの。私と星子ちゃん以外にも数人同じような友達がいて。それで、みんなで約束したんだ。いつかみんなでネルソンに帰ってきて、この街を大きくしようって。その時私はカフェを作るのが夢で。みんながネルソンに戻ってきた時に、いつでも集まれる場所を作りたかった。星子ちゃんは、昔から歌がうまかったの。歌手になるのが夢で、、、。ずっと歌ってた。形は違うけど、、星子ちゃんは夢を叶えたんだよね。ネルソンに戻る、戻らないは別としても、星子ちゃんは夢を叶えた。これでいいんだよね。」

半ば自分を説得するように、茶子は星子の夢を太郎に伝えた。初対面の人に何をべらべら喋ってるんだろうと後悔もしたが、茶子はこのやりきれない気持ちを誰かに聞いてもらいたくて仕方なかった。

「でも、あいつなんか変わったよなあ。昔はあんなんじゃなかったのになあ」

茶子は、太郎の知っている星子はどんな人なのか聞きたかったのだが、それを聞いたところで何かが変わるわけでもない。それに初対面の太郎に向かって友人の過去を聞くほどの勇気を持ち合わせていなかった。

「あ、そうだ、これ」

太郎はそういいながら、ポケットの中からカセットテープを1つ取り出し、茶子に渡した。

「これ、昔よく星子が歌ってた曲なんだけどさ。今日、あいつに渡そうと思って渡せなかったから、、、あげる。茶子ちゃん聞いてみてよ。これ聞けば元気が出ると思うからさ」

茶子は断るわけにもいかず、そのテープを受け取った。中に何が入っているかはわからない。

「そろそろバスの時間でしょ。バス停まで送っていくよ」

太郎はそういうと、バス停へ向かって歩き始めた。茶子もそのあとを続き、バス停へと向かった。

West Georgia を進み、Barrardに出たところで太郎と別れた。こうして話をした後も、結局太郎が何者なのかわからなかったが、不思議と悪い気はしなかった。

昔の仲間達に似た雰囲気を持っているのかもしれない。ふと、残りの仲間達の顔を思い浮かべる。圭介や真己、伊佑や逸平は何をしているんだろう。この同じ空の下で、何を思って生きているのだろうか。星子から感じた変化というものを、皆一様に持ち合わせているのだろうか。

誰もいないバス停に座り、茶子は先ほど太郎からもらったテープをウォークマンにセットした。キュルキュルっと音を立てながらカセットが回りだす。雪姉さんが使っていたこのウォークマンも、今ではすっかり年季が入り、至るところが変色している。雪姉さんの使っていたものなので、いつまでも手放せなかった。今回も、ネルソンからの長旅を支えてくれた大事な友である。

曲のイントロが流れ出し、その音色が耳に入ると茶子は思わず立ち上がった。

寒気のようなものが全身を走るのがわかる。なんとも言えない奇妙な懐かしさがこみ上げてくる。ウォークマンから流れてきた歌は、紛れもなくあの歌だった。そう、あの歌。なぜこの歌を、、。星子ちゃんがよく歌ってた歌って、、。


茶子はバス停を飛び出し、あたりを探したが、既に太郎の姿はそこになかった。

2000年バンクーバー

一度奥へと立ち去っていった受付嬢が強張った顔をして帰ってきた。ありありと戸惑いの色が見える。

「どうぞこちらへ」

茶子は、受付嬢の予想外の言葉に驚いた。中へ通されるということは、星子に会えるのだろうか。胸の動悸が早くなるのがわかる。
色々思案しても仕方ないのだが、何をどう話せばいいのか、もう少ししっかりまとめておくべきだったと後悔した。

「あなたは駄目です」

受付嬢の鋭い声に振り返ると、先ほどの男が一緒に入ろうとしたところを止められていた。後々、この男が茶子に大きな変化をもたらすのだが、茶子はまだその事実を知るよしもない。久しぶりの対面に茶子は男の存在など考える余裕すらなかった。

「どうぞ。お掛けになってお待ちください」

受付嬢に通された部屋は、何の変哲もない会議室だった。

いたるところに、星子をはじめ所属アーティストのポスターなどが貼られている。商談にでも使う部屋なのだろうか。茶子はバッグの中から一枚のチラシを取り出した。

カフェオープンの告知ビラで、原稿はもちろん茶子の手作りだ。カフェの名前は最後まで悩んだ末、最終的に一番シンプルで覚えやすく、ネルソンのシンボル的存在のOrange Bridgeの名前を頂戴し「Orange Bridge Cafe」と名付けた。

ロゴもOrange Bridgeにちなんだ形になっている。自分でも芸のない名前だとは思うが、下手に凝って覚えにくいよりはましだろう、と最近は思うようになった。出資者の叔父も気に入ってくれている。
一通りチラシに目を通した頃、ドアが開いた。

「茶子ちゃ~ん!ひさしぶり~!元気?」

「星子ちゃん、うん、元気。星子ちゃんは?」




入ってきたのは紛れもなく星子であった。幼馴染の茶子ですら、後ずさりしてしまうような強烈なオーラを放っている。スターとはこういうものなのだろうか。意外にも明るく接してきてくれた星子を見て、茶子は幾分気が楽になった。嫌がられるのではないかと心配だったのだ。

「どうしたの?急に?いつバンクーバーに来たの?」

煙草に火をつけながら星子は聞いた。
星子のその何気ない動作が茶子は気になった。当然のことだが、以前会った時は煙草など吸っていなかったはずだ。いまどき煙草を吸っている女性は珍しくないが、星子のそれは何か違和感を感じさせるものだった。

「昨日ネルソンから出てきたの。ちょっとバンクーバーに用事があって。で、みんなはどうしてるかな、と思って」

茶子は単刀直入には言わず、遠まわしに言った。自分でも何故だかわからないが、反射的にカフェの話を避けてしまったのである。自分でも少し気が動転しているのがわかる。

「ふ~ん、そうなんだ」

星子は、煙草の煙を吐きながら言った。先ほどの友好的な態度とは反対に、幾分冷ややかに見える星子の態度が茶子を不安にさせた。茶子は不安を打ち消すように、星子に当たり障りのないよう、最近の様子を聞いてみた。

「別に、、、特に変わったことはないけどね、、。あ、そうそう、来週バンクーバーからツアーをスタートさせるんだよね。今リハやっててさ、全然気が乗らないんだけど、仕事だからしょうがないよね。よかったら茶子ちゃんもおいでよ。どうせ茶子ちゃん来週も暇なんでしょ?良い席とってあげるからさ」

悪気はないのだろうが、星子の言い方が耳についた。茶子の恐れていた「変化」が見え隠れしているように思える。友好的を装っているように見える星子を前に、茶子は恐れていた現実をかみ締めていた。

「あの、、、星子ちゃん、、私、ようやくカフェをオープンできることになったの。実は、その報告のためにバンクーバーに来たんだ。」

茶子は勇気を振り絞ってオープン告知のチラシを渡し、バンクーバーに来た理由を打ち明けた。いくら大スターになったからといって、そう簡単に昔の夢を忘れるはずがない。茶子はそう信じていた。

「へ~、そうなんだ。カフェね~。ほんとに開くんだ。変わらないね、茶子ちゃん」

星子はチラシを見ているが、さして興味もなさそうに見える。

変わらないね、という一言が胸にずしんと突き刺さった。なんとも言えない星子の対応に、茶子はどうすれば良いのかわからない。ただ、本当の星子がどれなのか、見極めるのに必死だった。

「星子さん、時間でーす!」

スタッフらしき男の声に星子は立ち上がった。

「まあ、またバンクーバーに来たら連絡してよ。今度はゆっくり話せるように時間つくるからさ。じゃあ、またね」

社交辞令とも取れる星子の台詞に茶子は苛立ちすら覚えたが、突然の面会を求めた自分の迂闊さを恥じ、立ち去る星子に謝った。

忙しい中、面会してくれただけでもありがたいと思わなければいけない。いまや星子はそういう身分であり、存在なのだ。

そう、星子とは身分が違う。その存在意義すら、昔とは違うのかもしれない。星子との面会は時間にして5分足らずのものであったが、茶子の心を沈ませるのに充分な時間だった。様々な思いが全身を駆け巡る。

茶子は自分一人になった会議室の椅子に深く腰掛け、ゆっくりと深いため息をついた。明らかに、失敗と言える再会だった。

星子の所属事務所Roughcrew.incはW.Georgia stとHowe stの交差にあるこじんまりとしたオフィスだった。この辺りがVancouverのオフィス街にあたる。ロブソン辺りを歩けば、ガイドブックを持った観光客や、お洒落なカナディアンが颯爽と歩いているが、この辺りはスーツを着たサラリーマンが目立つ、比較的地味なエリアである。


茶子は星子の住所を知らない。唯一わかるのは所属事務所と事務所の場所だけだった。芸能関連に疎い茶子でも、所属事務所に行って会えるなどとは思っていない。そもそも星子が事務所に来るのかどうかもわからないし、実際星子はこの辺りを歩いている会社勤めのサラリーマンとは違うのだ。茶子は自分でも愚かだと思うのだが、自分がネルソンの頃からの友人だと伝えれば、手がかりぐらいは教えてくれるのかもしれないという期待があった。茶子は勇気を振り絞り、オフィスの入り口へと向かった。

入り口の前までたどり着くと、勢い良くドアが開き、一人の若い男が転げだしてきた。

「いてぇ!!いて~よー!」

茶子の前で腕を押さえ、男がもがいている。しかし、どうやら本当に痛そうではない。演技のように見える。
ドアの向こうでは、受付嬢が凄い形相で男を睨んでいた。

「大丈夫ですか?」

何があったかはわからないが、茶子はとりあえず声をかけた。いかにも悪そうな様相の男だが、不思議と怖さは感じられない。

「あんた誰?事務所の人?」

男はぶっきらぼうに質問した。やはり腕は痛くないようだ。

「違います、、、私、、、星子ちゃんの昔の友達で、、、ここに来たら会えるかな、と思って、、」

見ず知らずの人に何言ってるんだろう、と思いながらも、茶子はここに来た理由を男に話した。

「まじで!?星子の友達??そりゃあいい!行こう行こう!」

男は茶子の腕を掴んで歩き出し、茶子は何がなんだかわからないまま、事務所に引きずられるように入っていった。

「よお!また来たぜ!」

男は受付嬢に声をかけた。

「またあんた、、いい加減にしてください!」

受付嬢が怒気を発しているのがありありと伝わってくる。この口ぶりからすると、男は茶子が来る前に受付で一悶着起こしたようだ。

「いやぁ~違うんだよ、この子がさ、星子の友達なんだ。だから星子呼んでよ、ね、ほら」

男は得意げに話している。男が受付と話をしている間、茶子は事務所をざっと見回した。こじんまりとしたオフィスは、受付に立っただけで事務所の様子がうかがえる。4,5名しか社員がいないようだ。神経質そうなマネージャーらしき男性が、新人のタレントらしき女性にぶつぶつと小言を言っているのが聞こえる。茶子がはじめて見る世界だ。

「あなたはどういうご用件で?」

突然、眉間に皺を寄せながら、受付嬢が茶子に聞いた。
茶子はそれまでの会話を全く聞いていなかったので、突然の質問に怯んでしまいそうだったが、勇気を振り絞って答えた。

「私、星子ちゃんとは、、ネルソンの頃からの友達なんです、、、」

「ネルソン??」

明らかに受付嬢の顔に動揺の色が走ったのがわかった。事務所の奥にいる、偉そうな男性も振り向いた。
何かある、茶子は直感的に反応し、たたみかけるように言葉を重ねた。

「私、星子ちゃんの幼馴染なんです。今回、大事な用が会ってきたんですが、星子ちゃんに会えないでしょうか。」

「少々、お待ちください、、、」

受付嬢は助けを求めるように、奥へと下がっていった。
受付嬢の様子から、星子が今この事務所に滞在しているような気がした。そして、ネルソンという言葉に触れてはいけないような雰囲気を感じる。なぜだろうか。これも、茶子が恐れていた星子の変化なのだろうか。茶子は、星子に会えるかもしれないという期待と、触れてはいけない物に触れようとしているような不思議な感覚に苛まれながら、事務所の返答を待った。

2000年 バンクーバー


「太郎さん、車できてるよ」

怪しげなチャイニーズカナディアンの留守電を聞いた太郎は、Hastingにあるいつものカーディーラーへと向かう。一年半も放置していた愛車ボルボは、当然のことながらバッテリーがなく、タイヤもパンクしていた。3日前から修理に出していたのだが、どうやら治ったようだった。


太郎はこれから始まる新しい日々に胸の高鳴りを抑えられないでいた。新しい出会いを期待する自分と、心のどこかでネガティブな自分が常に存在する。最後にはやっぱり裏切りしかないのか、、、。そう思ってしまう。そんな心の不安を取り除いてくれる人々と会いたい。
圭介が言っていたような、自慢の仲間達の中に自分も入れるのではないか。
そんな思いにふけながら、バックミラーに写った後部座席のスタジャンに目が留まった。



以前、裏切られた仲間達と一緒に着ていたお揃いのスタジャンだ。自然と動悸が早くなるのがわかる。まだ自分の中で消化しきれていないのだろうか。口の中に嫌な味がじわっと広がる。
太郎は夜のバンクーバーを当てもなく走り始めた。


甲高く鳴り響く車のクラクションで目が覚めた。枕元の時計を見ると、無機質なデジタル表示が7時を指している。この街には目覚まし時計なんかいらないのかもしれない、と茶子はベッドから起き上がり、小さく伸びをした。ネルソンでは決してありえない出来事だ。


窓の外を見ると、West Gerogia Streetを埋め尽くす車が目に飛び込んでくる。ラッシュアワーの車達は皆、どこかいらだっているように見えるから不思議なものだ。普段おとなしい人達も、この時間帯だけは戦場に赴く戦士のように見える。

車という便利な乗物が北米社会に根付いて早数十年の月日が経とうとしているのに、渋滞だけは文明の力で解決できない難題のようだ。この忙しない大都市の中で、皆それぞれ生きるために必死にがんばっている。茶子の友人達もまた、同じ空の下でがんばっているかと思うと、素直にすごいなあと関心してしまう。生まれつきおっとりとした性格の茶子には、この街のリズムにどうしても乗り切れない。

「さて、最初はやっぱり、、、、」

今日からはじめる友人訪問の最初の一人目を、茶子は昨夜決めていた。決めていたというより、彼女以外に所在がはっきりしていない、というのが事実である。


その彼女とは、本山星子。
決めていながらも、つい二の足を踏んでしまうのは星子がいまや、一般の人間では近づくこともできない大スターになっているからだ。

本山星子と聞いて、知らない人間はいない。それほどまでに遠い存在になってしまった星子を、茶子は嬉しく思い、誇らしくもある。しかし、心のどこかでやはり一抹の不安は残っていた。仲間達の間で、一番生活が激変したのは間違いなく星子であろう。茶子には想像もつかないぐらい様々な壁を乗り越えてきたに違いない。その中で、星子はどのように成長し、また変わっていったのだろうか。星子に会えたとしても、どう話を切り出して良いのやら、茶子には検討もつかない。

「とりあえず、、、、行くしかないよね、、」

茶子は不甲斐ない自分の心を戒めながら、星子の所属事務所「Roughcrew.inc」へと向かった。

太郎は危うく買ったばかりのコーヒーを落としそうになった。

なんだって??本山星子???

一瞬太郎は耳を疑った。本山星子。太郎が探している圭介の友人の一人だ。スターバックスに入り、今度は失敗しないようキャラメルマッキャートというコーヒーをオーダーし、一口飲んだところで隣の席から聞こえてきたのである。

「いいよなあ、本山星子。たまんねえなあ」

薄すらひげの剃り残しが目立つオタクそうな青年が友人らしき青年とTIME誌を覗きながら話していた。その表紙には20代前半ぐらいの女性が乗っており、Behind the success - Hoshiko Motoyamaとある。

圭介が言っていたあの星子だろうか。歌手になりたいと言っていたみたいだが、、

それが太郎の探す星子かどうかはわからない。眉毛の上にあるホクロが印象的なその女性は、涼しげな微笑を浮かべている。

年上のようにも見えるが、実際の歳よりも精一杯スターになるために背伸びをしているようにも見える。歳の頃は太郎とさほど変わらないのではないだろうか。

もしそれが太郎の探している圭介の友人であれば、星子は立派に夢を叶えたことになる。TIMEの表紙を飾るほどの歌手であれば、立派な国民的スターなのであろう。昔から芸能関係に疎い太郎ではあったが、1年半の獄中生活で更に世間の事情に疎くなっている。


青年が置き忘れていったTIME誌を引き寄せると、星子の記事を探した。そこには星子がこれまで渡ってきた軌跡が記されていたが、どこにもネルソンの文字は見当たらない。しかも、不自然なことに幼い頃の経歴だけが触れられていない。まるで意図的に操作されているとしか太郎には思えなかった。


話の大筋は星子がバンクーバーに出てきてからの苦労などが書かれていた。昨年のグラミー賞受賞をきっかけに、どんどん名を上げてきたようだ。今最も注目される若手女性シンガーとある。最後のプロフィールを見てみると、Birth Placeの欄にはCanadaとしか記されていない。

これは確かめてみる必要があるかもしれねえなあ

普通の人が読んでみたら何の変哲も無い成功体験話だが、太郎にはあえて幼い頃の話を隠しているように思えた。確かにネルソンのイメージはあまり良くはない。名も無い小さな寒村が、ドラック密輸でその名を世間に轟かせてしまったのである。しかし、それ以上に太郎には何か違和感を感じさせるものがあった。

とにかくこれだけのスターなら会えるかどうかわからねえが、努力はしてみるか。

太郎は改めて星子の記事を一から読み始めた。

2000年 バンクーバー

太郎が収容所を発ってから早1週間がたった。

別れの際には若干の寂しさを感じたが、自分の出所もそう長い話ではないと思うと幾らか気分が楽になる。圭介は、消灯の時間になってもなかなか寝付けないでいた。時と共に風化していったあの事件も、圭介の中では昨日の出来事のようにリアルに再現する。

「雪さんは誰かに暴行された疑いがあります。体内から男性の体液が検出されました。」

あの時の医者が言った言葉がふと頭をよぎり、あの頃の自分に一瞬でトリップする。当時警察は数名の警察官を動員してレイプ犯を捜索したが、これといった手がかりを掴むまでには行かず、捜査は打ち切りとなった。


圭介の中には二つの思いがある。1つは、レイプ犯を見つけ出して形がわからなくなるなるほど殴りつけたいという思い。

もう1つは、雪が死ぬ前になぜ自分に連絡をよこさなかったか、という疑問。どちらかというと、後者の思いが圭介に重くのしかかっていった。


なぜ死ぬ前に相談してくれなかったのか。婚約者の圭介にさえ言えない何かがあったのだろうか。身近な人間にレイプされたのだろうか。
わからないことだらけのもやもやしたその感情は、日増しに憎悪へと形を変えていき、今となっては誰に対しての憎悪なのか、何に対しての憎悪なのかも圭介には判断がつかないでいた。


雪に対しての憎悪でないことは確かだが、犯人を見つけ出せば自分の中の釈然としない何かが姿を現す気がしていた。
仮に犯人が見つかった場合、自分はそいつをどうするのだろう。殺すのだろうか。自分自身その時になってみないとわからない。

入所の直前に、圭介は探偵所に事件の調査を依頼していた。想像していたよりも1つ丸が多い金額だったが、どれだけ懇願しても警察は再捜査してくれそうになく、残された手段はこれしかなかったのだ。


定期的に送られてくる情報には、警察の捜査からは出てこなかった情報が次々と浮かび上がってきている。それを見るたびに、警察の怠慢な捜査に怒りを感じる。よほど凶悪と言われる事件が起こらない限り、警察もその重い腰を上げようとはしない。レイプされて自殺。被害者側の人間にとって、はらわたが煮えくり返るほどの事件でも、世間一般的に見ればそこまで騒ぎ立てるほどのことではない。

ましてや、レイプされて殺害されたのではなく、レイプの後に自殺しているのである。よって、警察側からすればレイプが直接的な原因であったかどうかも定かではなかった。


探偵所からの情報が来るたびに、わずかながらに気持ちが静まっていくのがわかる。自分がこうして動けない立場にいる間にも、徐々に犯人に対する包囲網は狭まっているからだ。4月の終わりにきた5回目の報告書には、ようやくあと数人のところまで犯人が絞り込めてきた、とあった。ただ、どれも疑いは充分にかけられるのだが、決定的な証拠がないということだった。


雪の交友関係、職場関係を他人に覗かれるのは気分が良いものではないが、仕方ない。探偵はどうやら職場周辺を重点において調べているようだ。


雪は心理カウンセラーの仕事を行っていた。昔から心の優しい女性だった雪は、患者からも慕われていたことだろう。カウンセラーに成り立ての頃は、しばしば患者について圭介も相談されたりしたが、しばらく経つと要領を覚えたのか、ほとんど仕事についての話は聞かなくなった。かといって、雪が圭介に対して仕事について何か隠していた、というような雰囲気は全くなかったと言っていい。

どちらかと言えば、カウンセラーという職業に明るくない圭介に対して、わかりやすいように話してくれていたと思う。数名の患者の話を聞いたことがあるが、なんという名前だったかは覚えていない。

今は耐えるしかない、、、。

消灯から3時間ほど過ぎ、圭介はようやくわずかな眠気が来たことにほっとし、静かに瞼を閉じた。

2000年 バンクーバー

12時間のロングドライブを経て、バンクーバーのメインストリートに位置するバスディーポに茶子は降り立った。このバスディーポからカナダ全土へ向けて様々なバスが旅立っていく。

ロビーには家族旅行やツアー客が溢れかえっていた。マクドナルドの前で泣き叫ぶ女の子、シアトル行きのバスに乗ろうとする老人団体。皆それぞれこれから始まる旅に心躍らせているようだ。


茶子がここ、バンクーバーに降り立つのは実に3年ぶりになる。雪姉さんの死をきっかけにすっかり疎遠になってしまったカナダ第3の都市バンクーバーの喧騒は田舎から長時間を経てたどり着いた茶子に一層の疲労を感じさせた。


小さいながらも自分の夢を着実に膨らませ、出店まで漕ぎ着けようとしている茶子の最後の仕事が、ここバンクーバーにある。
最後の仕事は今までの試練に比べたらいとも簡単に終えてしまいそうなことだったが、茶子にとっては一番気の重くなる仕事であり、一番不安なことだった。

この一年、忙しい合間を縫って初めての出店に向けて一つ一つ難題を片付けてきた。一番の障壁は当然のことながら資金繰りであった。

小さいといいながらも、カフェの出店となればそれなりの資金が必要となる。当初は6万ドル前後で収まるだろうと思っていたが、当面の運転資金やスチーム機材等を含めると8万ドルになってしまった。8万ドルという額のお金を茶子は今まで見たことがないし、全く想像もつかない。

決して野心家でも起業家でもない茶子が、書いたこともない事業計画書に着手し、投資家、銀行に頭を下げる。当然のことながら軒並み首を左右に振られるばかりであった。

担保になるものは、亡き両親が残してくれたエレファントマウンテンの裾野に広がる1000坪の土地。しかしこの寒村の土地など担保に相当するような価値のあるものではなかった。ましてや子供の頃に誓った夢をかなえるためにカフェをオープンしようとしている茶子に、投資家達を納得させられるだけの大義名分など持ち合わせていなかった。


何度もくじけそうになりながらも、独り頑なにあの頃の夢にこだわっている自分が哀れにも思えた。今まで心の中で強く燃えていたオープンの夢も、気が遠くなるような道のりに何度も挫けそうになった。雪の死がなければ、これほどまでにがんばれなかったかもしれない。


そんなある日、しばらく会っていなかった叔父が突然尋ねてきたのだった。

「茶子、なんか面白そうなことをやってるらしいね。先日、バンクオブモントリオールの人間がうちに来てね。一見おとなしそうな 女の子が、いかにも説得力のない事業計画書を持ってきてひたすら融資を頼み込んできたって言っててね。よくよく話を聞いてみるとどうやら私の姪っ子らしい。どうしたんだい?なんで私のところに話を持ってこない。」

「だって、、、、」

茶子の叔父はロイヤルバンクのネルソン支店長。まだまだ差別や偏見の残るこの田舎街にして、日系人としては異例の出世といえる地位を叔父は築いていた。茶子は、自分にとって一番頼れる存在とわかっていながらも、叔父に頼むことは甘えることだと思い頼めないでいたのだった。

「まずは話を聞かせてくれないか?説得力があるかないかは別として、一銀行マンとしてあなたの夢を聞いてみたい」

そう叔父はいい、幾分白髪が目立つようになった髪を掻き分けながら、優しい眼差しを向けてきた。
茶子は叔父の優しさに心を打たれながらも、これが最後のチャンスと自分に言い聞かせ、一生懸命包み隠さず話した。


子供の頃みんなで誓った夢のこと。仲間達が皆ネルソンからいなくなり、自分が唯一彼らとの繋がりを保持できる最後の夢だということ。姉の死、姉の叶えたかった夢のこと。
そこには投資家に対しての作られた事業計画ではなく、売上予測も立たないような絵空事でしかなかったが、叔父は話が終わるまでそんな茶子の姿を何も言わずに見守ってくれた。

「自己資金は約1万ドルあります、、。担保に相当しないだろうけど、エレファントマウンテンの近くの土地もあります、、」

茶子は頼み込むように自分のすべてを話した。叔父はどんな反応をするだろうか?全く予想がつかない。これが駄目だったらどうしよう、そんな思いが頭をよぎる度に、叔父の優しい視線が胸を痛める。

「7万ドルか。結構な大金だね。」

一呼吸置くと、叔父は葉巻に火をつけた。何か考え込んでいるようだ。白い煙がもくもくと立ち込める。葉巻をおいしそうに吹かす姿は2年前と全く変わっていない。
叔父は壁に掛けてある雪の写真に目をやり、そして優しく茶子に語りかけた。

「やってみなさい」

突然の言葉に茶子は一瞬理解できなかった。そんな茶子を見透かしたように叔父は続けた。

「その代わり、場所はベーカーストリートの私の土地を使ってくれ。こんな僻地でカフェをするなら、それこそ立地が勝敗を分ける。私の土地はうちの会社から数十メートルしか離れてないし、それなら私も毎日だって通えるだろ?」

「ありがとうございます!!」

思わず茶子は立ち上がり、深く頭をさげていた。涙でかすんで叔父の姿がはっきりと見えなくなった。今までたまっていた不安、挫けそうになった夢。心細かった毎日。すべてを吐き出すように、とめどなく涙が流れ出た。


叔父は何も言わず、茶子の肩を抱きしめた。


すべてがうまく回り始めた。後はバンクーバーでみんなにこのことを伝えるんだ。バスディーポの外でタクシーを捕まえ、
宿泊予定のホテルへと向かう。
茶子は今回のバンクーバー行きが最後の大仕事であることを、一年以上前から知っていた。どんなに自分の思い通りの店ができても、みんなが帰ってきてくれなければ意味がない。たとえみんなが帰ってきてくれなくても、あの頃の思いを果たして何人が心の中に保ち続けていてくれるだろうか。


自分自身、様々な現実に直面し、その思いが揺らぎそうになっていたのも事実。
仮に叔父がロイヤルバンクの支店長でなければ、7万ドルの借金を抱えてまで出店には踏み切れなかったに違いない。

それに、ベイカーストリートのど真ん中の土地を叔父が譲ってくれるという幸運にも恵まれなければ、とても叶わぬ夢だったのかもしれない。叔父は、私に採算のとれる人気カフェに成長することなど微塵も思っていないのかもしれない。

姉の死、友人の度重なるネルソンからの逃避など、叔父は茶子の決して輝かしくない歴史を充分理解しているだけに、背中をおしてくれたのだろう。それに、茶子にとっては大金でも、ロイヤルバンクの支店長ともなれば7万ドルなど痛くも痒くもないはずだ。


とにもかくにも、叔父のためにも、自分のためにも、そしてみんなのためにも、この夢は達成しなければいけないのだ。

まずは、誰から行こうかな、、、。

3年近く会っていない友達の顔が次々に浮かぶ。期待と不安の入り混じった感情を胸に、茶子はタクシーのシートに深く腰掛けた。

「甘いな、これ、、」


初めて頼んだカフェモカの甘さに少々失敗したと思いながらも、オープンカフェになった席に腰を下ろし、圭介の話を反芻した。


「俺のほかに5人仲間がいてな、、みんなそれぞれ趣味や性格なんて異なってるんだけど、不思議と仲が良かったんだ。歳が同じってのもあるしな。で、そいつらとさ、いつかまたネルソンに帰ってきてみんなの夢叶えようって、約束したんだ。そん時俺は郵便屋さんになりたくてな。みんなに大事な手紙届けてやるって、、」

そういってあの日、圭介は自分以外の仲間達のことを話し始めた。これから太郎が会うべき人間達だ。

「まずは、、星子。あいつは昔から歌が大好きだった。ほんとにうまくてさ。いつも歌ばっかり歌ってた。次に、真己。真己は写真が好きでな。いろんなネルソンの風景写真を撮ってきて、、。あいつの撮る写真は、実際の風景より良く見えてな。そりゃあすごいもんだったよ。それから逸平。あいつはちょっと気が弱いんだけど、でも優しくてすげえ良い奴だった。それから、伊佑。ネルソンにたくさん人が来るようにって、ホテル作りたいって言ってた。」

何かとてもよかった思い出を思い出しているように、圭介は話した。

「最後に、、、」


少し間をおいて圭介が再び話し始めた。

「茶子。ネルソンにカフェを造る。みんながいつでも集まれる、そんな空間を造りたいんだって言ってた。」

「へぇ~、なんか何の脈略もないような関係に聞こえるけどな、ほんとに仲良かったのか?」

太郎は軽口を叩きながらも、どこか懐かしい思い出を語るような圭介の横顔を羨ましく思ったし、わずかながらの嫉妬も覚えた。自分にはいない。そんな思いがまだ根底には深く残っているのかもしれない。


圭介もそんな太郎の態度を感じとったのか、友達の話はそこで打ち切りとなった。

「でも、無理しなくていいからな。ゆくゆくは自分でみんなを探そうと思ってたし、それに、せっかく出所するのに俺の私用を頼んじゃあ悪いからさ。暇ができたら、でいいからな。」

と圭介は言った。

「気にすんなって。何度も言わせるなよ。俺はほんとに出所したらやることがないんだよ。昔みたいにどうしようもねえゴロツキに戻りたくないしな。なんか探偵みたいで面白そうだしよ。」

自分でも良くわからないが、太郎はこれから起こる何かに気持ちが高まっていた。それが新しい誰かとの出会いに対してなのか、新しい生活に対してのものなのか。はたまた人のために何かを成し遂げようとしている自分に対してのものなのか、太郎にはまだわからなかった。


ただ一つだけ言えることは、昔の俺じゃないってことだけだった。


「よし、手始めは誰からいくかな。しかし甘すぎて飲めねえなこりゃあ。トールなんて頼むもんじゃねえや」

太郎は半分以上残ったカフェモカをゴミ箱へ捨て、ロブソンストリートを歩き始めた。