魔法の言葉
魔法の言葉、とは何ぞや。
最近「○○する魔法の言葉」「△△させる魔法の言葉」という雰囲気のタイトルの本が出回っているような気がする。果たして私の気のせいなのかどうかと思って、ちょっとばかりAmazonでキーワードに「魔法の言葉」と入力して検索をかけると、「検索結果1673件」とか返ってくるので、あながち私の思い過ごしではないようである。
ざっと見ると……「子どもが育つ魔法の言葉」というのもあれば「ツキを呼ぶ魔法の言葉」とか「2週間で一生が変わる魔法の言葉」とか言う具合である。何となく自己啓発的な本が多いような。読んだこともないから、あれこれ批評することもないのだが、そんな言葉で人の一生が変わるとは思えないのであるが……私が疑り深いだけなのだろうか。というよりも、本を読んでもいないのに偉そうなことを書くなって感じである。
まぁ、そんなことを書こうというわけじゃない。魔法の言葉というのは、いわゆる魔法の呪文というものではない。言葉に秘められた魔力、いやいや、そんな怪しげなもんじゃなくて、簡単に言ってしまえば言葉が持っている影響力のことなのであろう。ところで、私がつい最近出会った魔法の言葉というのがある。何かというと……
「インターネット限定1万円以上のご購入で送料無料!」
「2点以上で1点あたり500円OFF、3点以上で1点あたり1000円OFF」
……である。ただの宣伝文句だからと言って侮るなかれ!
最近、仕事に着ていく白いワイシャツの襟が汗で黄ばみが目立ってくるようになったので、ぼちぼち新しいのを買わなければなぁと思って、いつも利用しているランズエンドのオンラインストアを見ていて、見つけたのが、この魔法の言葉なのである。うーむ、なんだか購買意欲がそそられるではないか。4980円のシャツを2点購入しようと考えたのだが、そうすると1点あたり割引後は4480円になる計算だ。それが2枚だから、8960円。ここで問題だ。あと1040円分購入して送料を無料にするか、それとも諦めて送料を払うか。送料がいくらなのか分からないけれども、いずれにせよ、送料払ったらそれで1万円近くなってしまうのでは……と考え始めると……なんのなんの、悩むようなことではあるまい。セールのTシャツでも買って1万円越えちゃえばいいじゃないか!
なんとう言葉の魔力!というのは、ちょっと大げさか。宣伝にのせられちゃったぜ。
いずれにせよ、言葉が人に与える影響力は絶大である。人生の岐路に立たされたときの大きな決断であれ、ワイシャツを買うという些細なことであれ、人は耳にする言葉に左右されてしまうのだ。聞くにしろ、話すにしろ、読むにしろ、書くにしろ、気をつけなければなるまい。
最近「○○する魔法の言葉」「△△させる魔法の言葉」という雰囲気のタイトルの本が出回っているような気がする。果たして私の気のせいなのかどうかと思って、ちょっとばかりAmazonでキーワードに「魔法の言葉」と入力して検索をかけると、「検索結果1673件」とか返ってくるので、あながち私の思い過ごしではないようである。
ざっと見ると……「子どもが育つ魔法の言葉」というのもあれば「ツキを呼ぶ魔法の言葉」とか「2週間で一生が変わる魔法の言葉」とか言う具合である。何となく自己啓発的な本が多いような。読んだこともないから、あれこれ批評することもないのだが、そんな言葉で人の一生が変わるとは思えないのであるが……私が疑り深いだけなのだろうか。というよりも、本を読んでもいないのに偉そうなことを書くなって感じである。
まぁ、そんなことを書こうというわけじゃない。魔法の言葉というのは、いわゆる魔法の呪文というものではない。言葉に秘められた魔力、いやいや、そんな怪しげなもんじゃなくて、簡単に言ってしまえば言葉が持っている影響力のことなのであろう。ところで、私がつい最近出会った魔法の言葉というのがある。何かというと……
「インターネット限定1万円以上のご購入で送料無料!」
「2点以上で1点あたり500円OFF、3点以上で1点あたり1000円OFF」
……である。ただの宣伝文句だからと言って侮るなかれ!
最近、仕事に着ていく白いワイシャツの襟が汗で黄ばみが目立ってくるようになったので、ぼちぼち新しいのを買わなければなぁと思って、いつも利用しているランズエンドのオンラインストアを見ていて、見つけたのが、この魔法の言葉なのである。うーむ、なんだか購買意欲がそそられるではないか。4980円のシャツを2点購入しようと考えたのだが、そうすると1点あたり割引後は4480円になる計算だ。それが2枚だから、8960円。ここで問題だ。あと1040円分購入して送料を無料にするか、それとも諦めて送料を払うか。送料がいくらなのか分からないけれども、いずれにせよ、送料払ったらそれで1万円近くなってしまうのでは……と考え始めると……なんのなんの、悩むようなことではあるまい。セールのTシャツでも買って1万円越えちゃえばいいじゃないか!
なんとう言葉の魔力!というのは、ちょっと大げさか。宣伝にのせられちゃったぜ。
いずれにせよ、言葉が人に与える影響力は絶大である。人生の岐路に立たされたときの大きな決断であれ、ワイシャツを買うという些細なことであれ、人は耳にする言葉に左右されてしまうのだ。聞くにしろ、話すにしろ、読むにしろ、書くにしろ、気をつけなければなるまい。
パスタ
生パスタと言えば、生パスタ。生なので火を通さないと食べることができない。生の小麦粉は体に悪いってことを考えると、やはり生パスタを茹でずに食べたら腹をこわしてしまうのだろうか。もっとも腹をこわしてまで試してみようなどとは思わない。それどころか、生パスタなんて買う機会も滅多にない。乾燥しているパスタのように日持ちもしないだろうし、量と比べてみると値段が高いような気がする。さて、あまり口にする機会のない生パスタであるが、味はどうなんだろうか。値段が高い、新鮮などということを考えると、それに比例して味もいいのではないかと期待してしまう。まぁ、ものは試しと言うことで、今度買ってみるかな。
さて、普通に売られている、常温で簡単に保存可能な乾燥パスタであるが、あれを茹でて食べるのは一般的である。誰だってパスタを食べたければあれを茹でて、いわゆる「アルデンテ」にして食べるはずだ。以前、どこかの居酒屋で、あの乾麺が素揚げにされたものが出されたが、あれはあれでうまかった。但し、そんな手の込んだことを一般の家庭ですることは普通ないだろう。
で、そんなパスタを眺めていて、ふと思った。乾燥したままのパスタを食べたらどうなんだろうかと。実際にはやっていないが、たぶん固くて、味気なくてマズイだろうと思う。で、あの乾燥パスタ、ちょっとは火は通しているんだろうか?それとも生をそのまま乾燥させたのだろうか。うーむ、どちらなんだろう。小麦を練って延ばして細切りにしたものをそのままにしておいたら悪くなってしまいそうな気がするから、生麺をそのまま乾燥っていうのは、ちょっと考えられない。もしかしたら、何か特殊な製法をつかって、生麺でも傷まない工夫がしてあるのかもしれないが、果たして真相や如何に、ってところである。だからといって、調理してあるとも思えない。調理してあるものをもう一度調理するっていうのも、ちょっと考えられない。そんなことをするとまずくなってしまいそうだ。家でパスタを使う時だって、一度茹でたものを冷蔵庫とかで保存しておいて、後日また食べようとするときにちょっとお湯をかけただけでもクタクタになってしまい、とてもじゃないが食べてもうまくない。時間が経って固くなった場合には、炒めるとかして別の調理法で料理してやらないといけないだろう。というと、普通にスーパーで売っている乾燥パスタというのは、生パスタを茹でて乾燥させたものではないだろう。
なんてことを考えていると、あの乾燥パスタはどうしたら乾燥パスタになったのか、ちょっと疑問に思えてくるのだ。
あぁ、なんかまたどうでもよいことを書いてしまったなぁ。
さて、普通に売られている、常温で簡単に保存可能な乾燥パスタであるが、あれを茹でて食べるのは一般的である。誰だってパスタを食べたければあれを茹でて、いわゆる「アルデンテ」にして食べるはずだ。以前、どこかの居酒屋で、あの乾麺が素揚げにされたものが出されたが、あれはあれでうまかった。但し、そんな手の込んだことを一般の家庭ですることは普通ないだろう。
で、そんなパスタを眺めていて、ふと思った。乾燥したままのパスタを食べたらどうなんだろうかと。実際にはやっていないが、たぶん固くて、味気なくてマズイだろうと思う。で、あの乾燥パスタ、ちょっとは火は通しているんだろうか?それとも生をそのまま乾燥させたのだろうか。うーむ、どちらなんだろう。小麦を練って延ばして細切りにしたものをそのままにしておいたら悪くなってしまいそうな気がするから、生麺をそのまま乾燥っていうのは、ちょっと考えられない。もしかしたら、何か特殊な製法をつかって、生麺でも傷まない工夫がしてあるのかもしれないが、果たして真相や如何に、ってところである。だからといって、調理してあるとも思えない。調理してあるものをもう一度調理するっていうのも、ちょっと考えられない。そんなことをするとまずくなってしまいそうだ。家でパスタを使う時だって、一度茹でたものを冷蔵庫とかで保存しておいて、後日また食べようとするときにちょっとお湯をかけただけでもクタクタになってしまい、とてもじゃないが食べてもうまくない。時間が経って固くなった場合には、炒めるとかして別の調理法で料理してやらないといけないだろう。というと、普通にスーパーで売っている乾燥パスタというのは、生パスタを茹でて乾燥させたものではないだろう。
なんてことを考えていると、あの乾燥パスタはどうしたら乾燥パスタになったのか、ちょっと疑問に思えてくるのだ。
あぁ、なんかまたどうでもよいことを書いてしまったなぁ。
565枚
私が一年に書くブログの記事の数は365である。毎日欠かさず書いているので数に誤りはない。それにしても、なぜ毎日休むことなく書き続けているのだろうか?我ながらよくもまぁ続くものだと関心してしまう……というか、あきれてしまう。
そんなに書くことがあるのかというと、そういうワケでもない。それどころか何を書こうかと考えてしまうことの方が多いくらいだ。飽きないのかと言われてしまうと、確かに飽きてしまうことも幾度かあった。ぼちぼちやめようかと思ったこともあるけれども、やはりやめられずに続けているから何とも不思議なものである。やめようにもやめられないと言ったところか。私にとっては譲ることのできない、妥協することのできないものとなっている。そもそも続けることに何か意義があるのかと言うと、そう言うわけでもない。ただ自分で続けようと思ったことで色々と頓挫してしまったものが過去にあったし、いや過去に限らず現在でも、そしてこれからもあるだろうが、せめて何か一つだけはあきらめずにいようと思うくらいの話だろう。
それにしても結構な量を書いていると思う。たくさん書く日もあれば手抜きの日もある。平均すれば少なくとも一日あたり400字詰原稿用紙にして一枚くらいだろうか。一年で原稿用紙365枚、そう考えると結構な量だ。ついでまでに、毎週エッセイを原稿用紙4~5枚程度書いているが、年間に換算すると200くらいになるだろうか。すると合計で年間565枚は下らない。
そう考えると、バカにできない量になる。普段書いてるようなバカなことでなく、もうちょいマシで一貫性のあるコトをそれだけ書ければ一冊の本にできそうである。一年で本を一冊、私にしてみれば、なかなかの偉業ではないか!
そんなに書くことがあるのかというと、そういうワケでもない。それどころか何を書こうかと考えてしまうことの方が多いくらいだ。飽きないのかと言われてしまうと、確かに飽きてしまうことも幾度かあった。ぼちぼちやめようかと思ったこともあるけれども、やはりやめられずに続けているから何とも不思議なものである。やめようにもやめられないと言ったところか。私にとっては譲ることのできない、妥協することのできないものとなっている。そもそも続けることに何か意義があるのかと言うと、そう言うわけでもない。ただ自分で続けようと思ったことで色々と頓挫してしまったものが過去にあったし、いや過去に限らず現在でも、そしてこれからもあるだろうが、せめて何か一つだけはあきらめずにいようと思うくらいの話だろう。
それにしても結構な量を書いていると思う。たくさん書く日もあれば手抜きの日もある。平均すれば少なくとも一日あたり400字詰原稿用紙にして一枚くらいだろうか。一年で原稿用紙365枚、そう考えると結構な量だ。ついでまでに、毎週エッセイを原稿用紙4~5枚程度書いているが、年間に換算すると200くらいになるだろうか。すると合計で年間565枚は下らない。
そう考えると、バカにできない量になる。普段書いてるようなバカなことでなく、もうちょいマシで一貫性のあるコトをそれだけ書ければ一冊の本にできそうである。一年で本を一冊、私にしてみれば、なかなかの偉業ではないか!
たんたんたぬき
たんたんたぬき、と言えば……
たんたんたーぬきのきんどけーい~かーぜもないのにぶーらぶら♪
という歌を思い出してしまうのは、果たして私だけだろうか。一体どこの誰が、いつの頃に、最初に歌い始めたのか分からないが、私が子供の頃からあったことはたしかである。もしかしたら、もっと古い時代からあったのかもしれないし、私が子供の頃に誰かが歌い始めてはやったのかもしれない。調べれば分かることかもしれないが、なんだか調べてしまっては、それはそれで手品の種明かしをされてしまうようで、ちょっと味気ない気もする。だから、あえて起源についてはあれこれ詮索しないでおこう。
ところで、この歌……「きんどけい」すなわち「金時計」の「時計」の部分を、「玉」すなわち「金玉」-どうも漢字で書くとしっくりこないようなので、もっと分かりやすく露骨に書くと「キンタマ」になるわけだが-に言い換えた替え歌がある。なんて、ことは今更言うまでもないだろうと思う。金時計の方を知っていれば、おそらくかなり高い確率で「キンタマ」の方も聞いたことがあるはずだ。
しかし考えてみるに、「金時計」「キンタマ」、はたしてどちらが先に出来た歌詞なのだろうか。
金時計という方がそもそものオリジナルであって、それを誰かがふざけてキンタマにしたのだろうか。「たんたんたーぬきのキンタマは~」でも自然に歌えてしまうのだから不思議なものだ。韻律としても不自然さがないので、歌いやすい。ふざけてやったにしろ、なかなかうまくできていると思うのだ。
それともキンタマがオリジナルであって、さすがにそれではおおっぴらに歌うには下品過ぎるだろうということで、ちょっと真面目な金時計にしたのであろうか。
ことの真相は分からない。いや、分からない方が楽しめるというものだろう。
世の中すべてのことに答えを求める必要はあるまい。楽しめるものがあれば、素直に楽しめばよいではないか。
たんたんたーぬきのきんどけーい~かーぜもないのにぶーらぶら♪
という歌を思い出してしまうのは、果たして私だけだろうか。一体どこの誰が、いつの頃に、最初に歌い始めたのか分からないが、私が子供の頃からあったことはたしかである。もしかしたら、もっと古い時代からあったのかもしれないし、私が子供の頃に誰かが歌い始めてはやったのかもしれない。調べれば分かることかもしれないが、なんだか調べてしまっては、それはそれで手品の種明かしをされてしまうようで、ちょっと味気ない気もする。だから、あえて起源についてはあれこれ詮索しないでおこう。
ところで、この歌……「きんどけい」すなわち「金時計」の「時計」の部分を、「玉」すなわち「金玉」-どうも漢字で書くとしっくりこないようなので、もっと分かりやすく露骨に書くと「キンタマ」になるわけだが-に言い換えた替え歌がある。なんて、ことは今更言うまでもないだろうと思う。金時計の方を知っていれば、おそらくかなり高い確率で「キンタマ」の方も聞いたことがあるはずだ。
しかし考えてみるに、「金時計」「キンタマ」、はたしてどちらが先に出来た歌詞なのだろうか。
金時計という方がそもそものオリジナルであって、それを誰かがふざけてキンタマにしたのだろうか。「たんたんたーぬきのキンタマは~」でも自然に歌えてしまうのだから不思議なものだ。韻律としても不自然さがないので、歌いやすい。ふざけてやったにしろ、なかなかうまくできていると思うのだ。
それともキンタマがオリジナルであって、さすがにそれではおおっぴらに歌うには下品過ぎるだろうということで、ちょっと真面目な金時計にしたのであろうか。
ことの真相は分からない。いや、分からない方が楽しめるというものだろう。
世の中すべてのことに答えを求める必要はあるまい。楽しめるものがあれば、素直に楽しめばよいではないか。
きれいな空気
人間、生きていくためには空気が必要である。たかが空気、されど空気。ひとこと空気と言っても、世の中には様々な空気というのがある。屋内の空気に、屋外の空気。都会の空気に、自然の空気。日本の空気に、外国の空気。そう言えば、私は買ったことがないから分からないが、空気の缶詰というものもあるらしい。
さてさて、これから暖かくなるにつれて花粉が空気に紛れ込んで花粉症の方々は難儀な思いをするのだろう。予想では今年は例年以上に花粉の飛散する量が多いらしく、花粉症ではない人でも花粉症になってしまい易くなるとか。などと一部では言われているようだが、その根拠はどこにあるのだろうか。似たような環境で生活していて、花粉症になる人もいれば、ならない人もいるわけだ。一概に花粉が多いから花粉症になってしまいやすくなる、というのはにわかに信じがたい。もっとも、人の話に流されやすい妻は、私にマスクをさせるつもりらしい。個人的にはマスクは息苦しいし、臭いし、好きではない。まぁ、とは言っても家から駅までの間だから仕方ないか。私が風邪をひいているとかで、まわりに迷惑を掛けないためというのであれば、マスクをするが、そうでもないのならねぇ……と捻くれた私は思ってしまうのだ。
ということで、今年の春の空気は花粉が多いらしい。そんな空気もまた空気。真空状態や酸素が希薄な環境では生きていけない人間であるから、花粉だらけの空気を吸ってでも生活せねばなるまい。窒息するよりはマシだろ。
ところで、今日は朝から終日出張というわけで、某大手通信キャリアの事務所に一日詰めていた。そこで感じたことなのだが、換気の状態が非常に良い。だから作業をしていても、実に快適なのである。客先なので自由は束縛されて、トイレにも思いのままに行けないわけだが、空気が良いから缶詰に近い状態でも苦にならないのだ。一方で私が普段勤務している南町田の事務所の換気はホントにクソである。行動に制限はされていないものの、あの換気の悪さゆえに、事務所のなかにいること自体が苦痛なのである。午後から急に室温があがったり、空気の流れがまったくなかったり、あれじゃ時間が経てば経つほど二酸化炭素濃度が濃くなってしまうんじゃないかって思う。おまけに窓際に座る人たちは寒いのか何なのか、窓を開けて空気を入れ換えようともしない。さすがに病気にはならないけれども、あれではストレスが貯まるではないか。誰もが換気の悪さを口にするのだが、改善される見込みがなにもない。おまけに私にとっては自分の会社ではないのでどうすることもできない。自分の会社であれば遠慮なく言うのであるが。
大自然の空気のようにきれいに澄んだ空気が欲しい!などと贅沢は言わない。横浜という街に住んでいる以上、多少の排気ガスや花粉には、慣れっこなわけだからね。しかし換気が悪いのは、はっきり言っていただけない。朝から夕方まで閉じられた空間で、百人くらいの人間が同じ空気を吸い続けるわけだから、どう考えても健全とは言えまい。
さてさて、これから暖かくなるにつれて花粉が空気に紛れ込んで花粉症の方々は難儀な思いをするのだろう。予想では今年は例年以上に花粉の飛散する量が多いらしく、花粉症ではない人でも花粉症になってしまい易くなるとか。などと一部では言われているようだが、その根拠はどこにあるのだろうか。似たような環境で生活していて、花粉症になる人もいれば、ならない人もいるわけだ。一概に花粉が多いから花粉症になってしまいやすくなる、というのはにわかに信じがたい。もっとも、人の話に流されやすい妻は、私にマスクをさせるつもりらしい。個人的にはマスクは息苦しいし、臭いし、好きではない。まぁ、とは言っても家から駅までの間だから仕方ないか。私が風邪をひいているとかで、まわりに迷惑を掛けないためというのであれば、マスクをするが、そうでもないのならねぇ……と捻くれた私は思ってしまうのだ。
ということで、今年の春の空気は花粉が多いらしい。そんな空気もまた空気。真空状態や酸素が希薄な環境では生きていけない人間であるから、花粉だらけの空気を吸ってでも生活せねばなるまい。窒息するよりはマシだろ。
ところで、今日は朝から終日出張というわけで、某大手通信キャリアの事務所に一日詰めていた。そこで感じたことなのだが、換気の状態が非常に良い。だから作業をしていても、実に快適なのである。客先なので自由は束縛されて、トイレにも思いのままに行けないわけだが、空気が良いから缶詰に近い状態でも苦にならないのだ。一方で私が普段勤務している南町田の事務所の換気はホントにクソである。行動に制限はされていないものの、あの換気の悪さゆえに、事務所のなかにいること自体が苦痛なのである。午後から急に室温があがったり、空気の流れがまったくなかったり、あれじゃ時間が経てば経つほど二酸化炭素濃度が濃くなってしまうんじゃないかって思う。おまけに窓際に座る人たちは寒いのか何なのか、窓を開けて空気を入れ換えようともしない。さすがに病気にはならないけれども、あれではストレスが貯まるではないか。誰もが換気の悪さを口にするのだが、改善される見込みがなにもない。おまけに私にとっては自分の会社ではないのでどうすることもできない。自分の会社であれば遠慮なく言うのであるが。
大自然の空気のようにきれいに澄んだ空気が欲しい!などと贅沢は言わない。横浜という街に住んでいる以上、多少の排気ガスや花粉には、慣れっこなわけだからね。しかし換気が悪いのは、はっきり言っていただけない。朝から夕方まで閉じられた空間で、百人くらいの人間が同じ空気を吸い続けるわけだから、どう考えても健全とは言えまい。