あるキリスト者のつぶやき… -4ページ目

都会の朝明け

朝が苦手な私にとって、朝明けとは滅多に目にすることのない眺めである。

先日の徹夜作業の時のことだ。作業の終盤、一段落した時間帯というのが、ちょうど日の明ける時間帯であった。窓の外が徐々に明るくなり始めたので、ブラインドの隙間からちょっと外を覗いてみると、このような景色を臨むことができたのだ。

あるキリスト者のつぶやき…-新宿朝焼け

美しい朝明けだ。都会の朝明けだ。都心部から眺める朝焼けが、これほどまでに美しいものだとは、ちょっと意外にも思えた。空の色合いの変化に見入ってしまった。何とも言葉では形容しがたいし、絵心のない私には筆をとっても再現することはできない繊細な色である。iPhoneのカメラで撮影するのが関の山だ。

この風景、作業場所であった新宿にある高層ビルの16階からの眺めである。慣れない土地なので方向感覚がないので、どちらの方向を向いているのかイマイチよく分からなかったのだが、ちょうど都庁ビルに背を向ける位置になるだろう。写真だとよく分からないかもしれないが、正面遠方に塔を二つ見ることができるのだが、左手にある方が現在建設中の東京スカイツリーである。ちなみに写真には収まっていないが、ちょっと右の方をみると現在の東京タワーを見ることもできた。

この写真を撮ってから思い出したのだが、これを撮影する1週間ほど前にも同じ場所から夕方の風景を撮影したのを思い出した。

あるキリスト者のつぶやき…-新宿夕景

意図したわけではない。まさしく偶然の産物である。同じポイントから見た、新宿の夕景、そして朝焼けだ。都会の空は狭いという印象があるけど、自分が周辺より高い位置にあるので、意外にも空が広々として見えた。作業による疲れがちょっとばかり癒された瞬間だ。

四つの法則

「四つの法」というものをご存じであろうか?

おそらく私のように若い頃、とくに学生の頃にクリスチャンになった人たちは知っているだろう。「四つの法則」というのは、キリスト教の伝道でよく使われる小冊子の名称である。何が書かれているかというと、概要を簡単に説明すると、キリスト教信仰とは何か、救いとは何かということが四つのポイントで書かれているものである。1965年にCampus Crusade for Christという米国の宣教団体が発行したのが始まりである。

かく言う私も米国留学中に英語版、日本語版の「四つの法則」を読んだことがあるし、中国語やら韓国語やらその他様々な国々の言語で発行されていたのを見たことがある。知る人ぞ知る、有名なものである。もしかしたら私の持ち物をひっくり返せば、いくつか出てくるかもしれない。

さて四つのポイント、すなわち四つの法則とは何であろうか。Campus Crusade for Christのサイト http://www.japanccc.org/ に記載されているものを一部抜粋させていただく。

  1. 神は私たちを愛しておられ、個人的に神を知ることができるように、私たちを造ってくださいました。

  2. 人には罪があり、神との間に深い断絶があります。そのため、神を知ることも、神の愛を体験することもできなくなっているのです。

  3. 人の「罪」のために、神が用意してくださった唯一の解決が、イエス・キリストです。私たちは、イエスを通して、神を知り、神の愛を体験することができるようになります。

  4. 私たちは、それぞれ個人的に、イエス・キリストを、罪からの救い主、人生の導き手として迎え入れる必要があります。そうすることで、私たちは個人的に神を知り、神の愛を体験するようになります。
さて、なんで私がいきなり「四つの法則」を思い出したのかというと、今日横浜駅を歩いていたら、「四つの法則」を使って伝道している人たちを見たからだ。ちょうど今時の女子大生っぽい子が二人、女子高生と何やら話しているところを見掛けたので、新手のキャッチセールスか何かかな?と思って近くを通ったときにちらっと見たら、ちょうどこの「四つの法則」が見えたのだ。まだ「四つの法則」が現役で使われていたとは!すっかりその存在を忘れていただけに、ちょっと驚きでもあった。私が学生だった頃も今も、変わらないものは変わらないものである。良いものは、いつの時代でも通用するということなのかもしれない。

休稿日

本日、仕事の都合により休稿します。

たとえ理想はそうだとしても、文筆業ではないので、生きて行くためには飯代を稼がなければならない。そのためには好き嫌いを度外視してでも働かなきゃいけないのである。ということで、今日も今日とで現代版「野良稼ぎ」ってことだ。

なんせ久し振りの徹夜作業でね。徹夜作業と言っても、普段の事務所でやるのならばまだしも、客先でやるわけだから、ブログの記事を買いたり、本を読んだり、ビデオを見たり、ゲームで遊んだり、夜食を食べたり、居眠りしたり……などという自由がきかない場所なのである。ひとまず歯磨きセットは持参したが、果して歯を磨く余裕があるのかさえ怪しいくらいだ。

ということで、皆さん、また明日!

八朔

八朔と書いて、はっさくと読むらしい。今日の帰り道に駅前のスーパーの前で果物を売っているところを通り掛かったのだが、そこに「八朔」そしてその下に小さめの字で「はっさく」と書いてあるのを発見してしまった。はっさくが何であるかは知っているが、はっさくを「八朔」と書くのは初めて知った。考えてみれば「八朔」という字を見たことは今までに何度かあったように思えるが、果たしてそれを何と読むのかなどとは、気にとめたことさえなかった。

知ったから何か良いことがあるわけでもないし、はっさくを「八朔」と書くことを知ったからといって、何か特別に役に立つわけではないのだが、ちょっと得した気分になったことは否めない。

本をたくさん読む方だと自負している私であるが、改めて考えてみると、まだまだ知らない漢字、単語、読みというものが数多くあるものだ。「はっさく」なんでいうものは実に身近な存在なのであるが、それが「八朔」とは全然結びつかなかったというくらいだ。意外と毎日の生活の中で無意識に見過ごしているものがあるのではないだろうか。

読書は私の趣味でもあり、また習慣でもあるのだが、そこに出てくる言葉でも初めて目にするものが往々にしてあるものだ。何のことはない、私の語彙が少ないだけなのだろうか……まぁ、若い頃の6年間を海外で過していたのだから、そうなっても仕方ないだろう。なんていうのは、所詮私の知識不足の言い訳にしかならないのだろうか。

何はともあれ、新しく目にしたり耳にした言葉を覚えていけば良いのだろう。とは言うものの、もはや見たり聞いたりすることを片っ端から記憶に留めておくことができるような脳みそではない。いや、昔っから記憶力はあまり良い方ではなかったが、年齢を重ねれば重ねるほどに、新しいことを留めておくのは難しくなっていくようだ。こればっかりは人間の脳の仕組みがそうなっているのだから私にはどうにも変えることはできない。

しかし何もできないわけでもないだろう。新しく知った言葉を使うように心がければ、自然と身についてくるものであろう。そのような心がけ一つでなんとでもなるのではないだろうか。



……なんて、ことを去年も書いた気がする。だとすれば、あまり学習していないよな。情けなや。

砂上の楼閣

最近の中東における民主化運動に関する報道を見聞していると、この言葉を連想せずにはいられない。

砂漠の地で権力の座に就いていた者が、わずかの時間で引きずり落とされてしまう。文字通り、砂上の楼閣と言う言葉の通りではないか。人の目には揺るぐことのない、揺るがされることのない堅固な座に見えようとも、土台がしっかりとしていなければ足元の砂はどんどん流れ出してしまうい、そこに据えられた座は自然な力で倒されてしまう。

さてさて私にしてみれば、中東情勢については詳しくないので、ことの是非を問うわけではないが、原油高の上昇がやや気になるくらいだろうか。幸い灯油を買う季節はぼちぼち明けようとしている。すぐにどうこうなるとは考えにくいが、最近値上がり気味のガソリンが、今以上に高くならないことを願うのみである。まぁ、それくらいのことを気にして、対岸の火事とばかりに安穏と暮らしていけるのだから、日本は平和なものである。

確かに色々と各所において現政権に対する批判やら不満も燻っているようだが、さすがに国民をあげての大規模なデモにはならない。何より日本には独裁政権というものも存在しなければ、当然ながら独裁者も存在しない。その気になって、ある程度の財力的な後盾があれば、誰でも表舞台に立とうとすることが可能である。もちろん立てるか否かは民衆からどう評価されるかに依存するのであるが。良くも悪くもこれが民主主義というものである。民衆が愚かであれば舞台に立つのも愚かであり、民衆が賢ければ舞台に立つのも賢い者となろう。

砂上の楼閣。我が日本が、今も後もそうならないことを願う。