あるキリスト者のつぶやき… -43ページ目

終戦記念日

今日は終戦記念日。毎年、この時期になると、必ず聞かれる意見が、戦争はいけない、ということである。戦争が善であるか悪であるかと言ったら、それは悪であろう。しかし、戦争というものを簡単に善悪で決めてしまっていいのだろうか。人類の歴史始まって以来、戦争というものは常に存在していた。そして常にそれは血なまぐさいものであった。戦後65年経った日本は平和であることに違いないが、ちょっと外の世界を覗いてみると、至るところで程度の違いこそあれ争いごとというのは起きている。人類の歴史において、争いのない時代というのは、果たしてあったのだろうか、というくらいである。今の日本人が平和ボケと自嘲気味に言っているのも、あながち間違ってはいないだろう。

戦争というのは、善悪で言うならば、それは「悪」である。では、必要か不要かで言うならば「必要」である。すなわち、戦争とは「必要悪」というものだろう。

争いごとはというのは、意見の相違、考えの相違、様々な誤解から生じるものだ。双方話し合いで解決できるのが何よりであるが、お互いにこれだけは譲れぬ一線というものが存在するだろう。その譲れぬ一線を死守する時に、争いは起こるのであろう。今の日本は、考えるならば、この譲れぬ一線というものが存在していないのかもしれない。周囲と波長を合わせてさえいれば争いは生じない。争いは生じない代償として、主体性というものが失われているのではないか。

聖書には、右の頬を打たれた、左の頬も打たせろ、と書いてある。だが、これは一対一もしくは一対多の場合だろうと私は考えている。多対多の場合には、このルールは残念ながら当てはならないだろう。人が集団で生活する場合には、人はその集団そのもの、もしくはその集団の考え、集団の構成員を守らねばならない。簡単な例で言えば、それは家庭であり、大きなスケールで考えるならばそれは国家である。人は家族を守らねばならぬし、国家を守らねばならぬ。自治体によっては不戦を決め込んでいるところもあるようだが、これは愚の骨頂…を通り越して、哀れとしか言いようが無い。彼らは自分たちを守ることを捨てているのだ。家族を守る意志を捨てていることにもなるのではないか。

反戦を論じるのは結構である。しかし本気で反戦不戦を目指そうとしているのであれば、それは守るべきものが何も存在しないという、実に哀れな考えとしか言えない。何も守るものが存在しない、もしくは何も守ろうとしない。それは本当の平和ではなかろう。

バランス

世間ではお盆休み、ってワケで、今日はプールへ行ってきた。設備が充実している私営のプールへ行ってみたいとは夏になる前から考えていたのだけれど、いかんせん料金が高い。それに遠方にあるので覚悟を決めて行かなければならないので、ちょっと躊躇してしまう。ということで、今年はずっと近場の市営プールにしか行っていない。もちろん今日もそうである。市営と言っても、設備が粗末ということを除けば、プールとしての価値は十分にあるのでありがたいことだ。今日は朝9時を目標に出発しようとしたのだが、何だかんだで一時間ほど遅れてしまった。そしたら駐車場はすでに満車で3時間待ち…。まぁ実際にはそんなに掛からなかったけどね。夏だし週末なので仕方がない。駐車場の入り口は見えているので、妻と子供たちは先にプールへ向かった。

それはそうと、今年はイルカのフロートを買ったのだ。商品名にはオルカとあるので、ホントはイルカじゃなくてシャチなんだけど、子供たちは気にしない。父がイルカと言ってるので、疑うことがない。

このフロートに子供たちを乗せてスイスイとやって、喜ばせてやろうと思ったのだが、これが難しい。バランスが取れないのである。支えてないと子供なんかボッチャンとプールに落ちてしまう。では、父がお手本を…とフロートにまたがったのだが、確かに難しい。一回転してプールに落ちてしまった。

簡単そうに見えて案外難しいものだ。バランスさえ取れればいいんだろうけど、このバランスが一番のクセモノだ。フロートに限らず、何事もそうなのかもしれない。

東京タワー

今日は東京観光、ということで東京タワーに行ってきた。前に東京タワーに行ったのがいつのことだか思い出せない。いや、もしかしたら思い出せないんじゃなくて、実際は行ったことがないのかもしれない。だとしたら、38年弱生きてきて、初めて行ったということになる。そんな遠方に住んでいるわけじゃないのにね。

東京タワーと言ったら、私よりも年上である。半世紀以上も前に作られたものだ。そうやって考えると、かなり古い建築物であるように思えてしまう。が、遠くから見てもそうだが、近くから見ても、そんな古ぼけた雰囲気を感じないし、前時代的な様子も伺えない。デザインが斬新というわけではなく、いつの時代でも受け入れられるシンプルかつ落ち着いたデザインの建築物なのであろう。ある意味、普遍的な印象を感じてしまう。内部も定期的に改修されているのか、古びた感じではなかった。

六本木ヒルズや横浜ランドマークタワーの展望台に登ったことがあるけど、大きな違いと言ったら、東京タワーはビルではなく電波塔なので、鉄骨が剥き出しになっていたことか。しかし、展望台から見る景色は……東京タワーより高いビルが多いこと多いこと。よくよく調べてみると、ヒルズやランドマークの展望台の方が、東京タワーの大展望台(150m)よりも100m以上も上に位置してるのだ。東京タワーの特別展望台はそれでも250mのところにあるが、それでもヒルズやランドマークより下である。ヒルズに至っては、屋上に出ることができるので、東京タワーの展望台を見下げる感じである。高さでは負けるけど、東京タワーには歴史を感じるね。ヒルズなんかの新しいビルには無い風格があるというか何と言うか。

が、やっぱり古いだけあって、展望台のガラスが妙に薄っぺらな感じがした。ヒルズの展望台なんて、まずどんなことをやっても割れない厚みがあったが、東京タワーは鈍器で叩いたら割れそうだった。

ちなみ大展望台に透明なガラス製の床面があった。度胸試しみたいなもんか?

あるキリスト者のつぶやき…-東京タワー

メタボな私も含めて一家4人で踏みつけてもびくともしませんでした。当然っ茶当然だけどな。まぁ、割れないと確信しているので、不安は感じない!

台風の影響か、今日は雨が降ったりやんだりの一日だった。幸い私が出勤する時間帯も帰宅する時間帯も雨は降らないでいたが、地面は湿っており、直前まで雨が降っていたのはあきらかだった。雨雲が低く垂れこみ、空の9割方を覆っていたが、帰宅途中に見た夕方の空は何やら神秘的な雰囲気を帯びて美しく見えた。輪郭がはっきりしない様子などは、非現実的な感じで何やら印象派の絵画を見ているかのように感じられた。そして西の方、日が沈む方には雲の切れ目から青空を覗き見ることができ、そこから夕日の黄金色に輝く光が、手前の雨雲を照らしており、その様子はまさに筆舌に尽くしがたい。そしてどこか遠くでは雨が降っているのか、かすんでみえる空も同じく黄金色に輝いており、それもまた美しかった。

天気は悪いけど、普段みることができない空を見た感じだ。

毎日違った姿を見せる空は、何やら人を惹きつけるものがあるようだ。いや、それとも空に魅了されるのは私だけなのだろうか。いずれにしても、この世界が誕生したときから、この世界が終わる時まで、空はいつの時代も様々な姿を見せてくれるのだろう。空は常に私の頭の上にあり、私がそれを意識しないことがあっても、空を必ずそこにあるのだ。改めて考えれば、感謝なことである。

ひとり

帰省していた妻と娘たちが戻ってきた。のんびりと一人の時間を過ごす間もなく帰ってきてしまったわけだが、やはり家族がいる方が良いのだろう。

一人のときは自堕落な生活を送っていたのだが、やはり家族がいると生活に張り合いがでるというか、ダラダラ過ごすことができない。例えば食事だ。料理は好きな方だが、さすがにひとりじゃ料理をする気にならない。自分で作って、自分で食べるっていうのは、なんとも寂しい。どうせ自分しか食べないんだったら、何でもいいやってことになる。閉店前のスーパーで「50%」のシールが貼られた弁当と総菜で十分なくらいだ。さすがに毎日外食やインスタントやスーパーの総菜では病気になってしまいそうだ。そう考えると、家族がいると、食生活はきちんとしたものになる。

というわけで、今日はハヤシライスを作った。やはり食べてくれる人がいるのが分かっていると、簡単なものでも作り甲斐があるというものだ。

聖書には、人がひとりでいるのは良くないって書いてあったと思うけど、なるほどそうなのかもしれない。もっとも、一人になると自堕落になってしまう私のような人間だから、なおさらそう思うのかも知れないが。

しかし、やはり帰ってくると、せっかく片付けた家の中が徐々に荒らされていくような気がしてならない。うーむ、それを考えると、一人でいるのは必ずしも悪いってわけじゃなさそうだが、一人でいるのが長くなることが分かっていたら、きっと片付けもそのうちしなくなるかもしれないな。やはり、私のような人間はひとりでいるのは好ましくないのだろう。