終戦記念日 | あるキリスト者のつぶやき…

終戦記念日

今日は終戦記念日。毎年、この時期になると、必ず聞かれる意見が、戦争はいけない、ということである。戦争が善であるか悪であるかと言ったら、それは悪であろう。しかし、戦争というものを簡単に善悪で決めてしまっていいのだろうか。人類の歴史始まって以来、戦争というものは常に存在していた。そして常にそれは血なまぐさいものであった。戦後65年経った日本は平和であることに違いないが、ちょっと外の世界を覗いてみると、至るところで程度の違いこそあれ争いごとというのは起きている。人類の歴史において、争いのない時代というのは、果たしてあったのだろうか、というくらいである。今の日本人が平和ボケと自嘲気味に言っているのも、あながち間違ってはいないだろう。

戦争というのは、善悪で言うならば、それは「悪」である。では、必要か不要かで言うならば「必要」である。すなわち、戦争とは「必要悪」というものだろう。

争いごとはというのは、意見の相違、考えの相違、様々な誤解から生じるものだ。双方話し合いで解決できるのが何よりであるが、お互いにこれだけは譲れぬ一線というものが存在するだろう。その譲れぬ一線を死守する時に、争いは起こるのであろう。今の日本は、考えるならば、この譲れぬ一線というものが存在していないのかもしれない。周囲と波長を合わせてさえいれば争いは生じない。争いは生じない代償として、主体性というものが失われているのではないか。

聖書には、右の頬を打たれた、左の頬も打たせろ、と書いてある。だが、これは一対一もしくは一対多の場合だろうと私は考えている。多対多の場合には、このルールは残念ながら当てはならないだろう。人が集団で生活する場合には、人はその集団そのもの、もしくはその集団の考え、集団の構成員を守らねばならない。簡単な例で言えば、それは家庭であり、大きなスケールで考えるならばそれは国家である。人は家族を守らねばならぬし、国家を守らねばならぬ。自治体によっては不戦を決め込んでいるところもあるようだが、これは愚の骨頂…を通り越して、哀れとしか言いようが無い。彼らは自分たちを守ることを捨てているのだ。家族を守る意志を捨てていることにもなるのではないか。

反戦を論じるのは結構である。しかし本気で反戦不戦を目指そうとしているのであれば、それは守るべきものが何も存在しないという、実に哀れな考えとしか言えない。何も守るものが存在しない、もしくは何も守ろうとしない。それは本当の平和ではなかろう。