あるキリスト者のつぶやき… -45ページ目

姥捨山

なんだか最近、100歳以上の年寄りが行方不明になることが多い……というわけではなくて、死んでいるのか生きているのか、どこに行ってしまったのか分からないまま放置されていたという事件?事故?が徐々に報告されるようになってきた。日本の平均寿命が変わっちゃうんじゃないのかね?

自分の親なり祖父母なりの行方が分からないって、なんだよ、どっかの山奥にでも捨ててきたのかいな?

いやぁ、これじゃまるで姥捨山なり爺捨山が復活したのかよって感じである。本人の所在や生死はともかくとして、ひとまず生きていることにしておけば、色々と手に入って、もらう側としては濡れ手に粟な状態だったのかもしれない。もっとも、すべてがすべてそうだとは思わないけど、それにしても自分の身内が何年にもわたって生きているのか、死んでいるのかよく分からないって、一体どんな生活をしているんだろうか。人のつながりが希薄な時代になったとか、巷では言われそうなもんだけれども、それ以前の問題な気がしてならない。なんだかよく分からない時代になったもんだ。

それにしても、姥捨山って言葉は聞くけど、本当にそんなもんは存在したのだろうか。もしや昔話の世界だけの話なのか。わざわざ考えたことがないので、実際はどうだったのだろうか。

しかし、その考え方は、その時代なり環境なりによっては必要なものだったのだろう。それこそ、貧しい時代には、自分の子どもを手放すこともあったのだから、親を捨てるということもあったのかもしれない。捨てる方も捨てられる方もそれなりの覚悟なり心構えなりがあったのかもしれない。

今はそんな時代でもないだろうに。自分で捨てに行ったわけでもないのに、生きてるのか死んでいるのか分からないっていうのも不思議なもんだが、もらえるものはもらっておこうなんていうのは、ずいぶんと都合の良い話のように思える。

キーボード

パソコンのキーボード。会社では日本語配列のものを使っているが、自宅では英語配列のものを使っている。個人的には英語配列の方がスペースキーが大きくて好きなんだよね。家のPCはノートPCなんだけれども、わざわざお金を払ってキーボードを取り寄せて、自力で取り付けて……という具合で手間をかけなければいけないんだけれども、それでも英語のが使いやすい。見た目もすっきりしていいんだよね。日本語だとひらがなが書いてあったり、変換とか書いてあったりして、見た目がごちゃごちゃして、どうにも好きになれない。

普段の利用するにはこの差は大したことないんだけれども、たまーに家のPCでエディタでviなんかを使うと、これがすごい苦労する。相対的に見て、viは仕事で使うことがほとんどなわけで、vi=日本語キーボードという具合に指が覚えているのだ。そんなわけで、何ヶ月ぶりかで英語キーボードでviを使おうとすると、一番基本的な「:」の場所に迷ってしまうのである。ちなみに英語配列だと「:」はshiftを押しながら「;」を押さないとでてこない。

そんなことを考えていたら、会社のPCのキーボードも英語配列に変えたくなってきたよ。つっても、今の状況で会社に買ってくれと言っても、聞いてもらえないだろうな。どうしても必要なものでもないし、あくまでも個人的な趣味というか、好みの問題なんで。そのうち、自分で買うとするか。個人的に「これがいい!」って思うのはIBMじゃなくてLenovoか?のキーボードとポインタが一緒になっているやつ。個人的にはマウスよりも、この赤いぽっちのが使い安いんだよなぁ。しかし、希少品なので、ちょっと高いみたい!場所とらないし、良いと思うんだけどなぁ。

明太子ピラフ

先日、実家から明太子をもらった。ところが、今週の月曜日から妻が娘たちを連れて実家に帰省しているので、最後に残った明太子1腹が冷蔵庫に残されたのである。ご飯を炊いて、そのまま食べても良いのだろうが、いつもそれなので、たまには何か別のことをしようと思ったので、明太子ピラフを創作してみた。

まず用意したのはこちら。

あるキリスト者のつぶやき…-明太子ピラフ1

はい、用意したのはごらんの通り。バター、ニンニク、ダシのもと、醤油、酒、米、そして明太子。もちろん、レシピなんてありません。私の創作です。どうなるか、出たとこ勝負!

まず、バター大さじ2くらいをフライパンでとかします。そこにスライスしたニンニクを入れて、茶色くなるまで炒めます。うーん、良い香り。

あるキリスト者のつぶやき…-明太子ピラフ2

研いだ米を2合投入して、米が透明になるくらいに炒めます。すげー、良い香り。ついでに明太子を半分いれてさらに炒めます。明太子は皮をむいた方がいいんだろうけどね、面倒だからそれはしてないよ。

具合よく炒めたら、残った明太子をどーん!

あるキリスト者のつぶやき…-明太子ピラフ3

こんな贅沢が許されるのだろうか?でも、生の明太子を数日に分けて食べてばかりいるので、たまにはいいだろ。

あるキリスト者のつぶやき…-明太子ピラフ4

はい、チャーハンではないので、これから米を炊かなきゃいけませんね。ということで、水分を追加します。米2合なんで、水は360ccくらい。その上に適当にダシのもとを振りかけて、醤油大さじ1、酒大さじ2を入れたと。この分量に根拠はないです。なんとなく、これくらいかなぁーと。

ふたをして弱火にして、20分ほど待つ。

じゃーん!できあがり。

あるキリスト者のつぶやき…-明太子ピラフ5

黒いのは何?はい、お焦げです。さすがに20分は長すぎたみたい。ちょっとご飯が固くなりすぎちゃった。もしかしたら、15分程度がちょうど良いのかもね。

で、ここで思い出したのだ……塩とコショウを入れてないってことをね。

さて出来はどうだったか?香りは良かったんだけど、味がちょっと薄かった。ということで、5段階評価でいうと、2.5くらいってところかな。まだまだ改善の余地はあります。まず塩コショウを忘れないように。あと明太子の半分は半生で頂いた方がよいですね。最初に投入しちゃうと、完全に火が通ってしまって、明太子の風味がちょっと失われしまうようで。あとは彩り。せめてワケギとか、長ネギとかいれたらよかったのかもね。ミックスベジタブルでもOKかもしれない。

次回はもっとうまくできそうだな。

日記じゃないか

ふと書いていて思うのだが、このブログはただの私のたわごとでしかない。理想を言うのであれば、もっと内容のあることを書けたら良いと思うのであるが、そう毎日毎日、中身のあることを思いつくわけでもないし、そんなしっかりしたことを毎日書き続けるだけの余裕もない。

そんなわけで、毎日こんなこと書いてもどうしようもないんじゃないかと、思われるような、ろくでもないこと、何の役にも立たないことばかりを書いてる気がしてしようがない。だったら、毎日続けても意味があるのかと思うのだが、考えても見れば日記を公開して、人様に読んでもらって、何か役に立ち情報を提供しようなんて思うのが、贅沢である。そもそも日記なんて人に見せるようなもんでもないだろう。だったらこっそり書いて、人に見られないように隠しておけばよいのであろうが……なんで、こんなことを公開しているのだろうか。もちろん、人にしてみれば、見たくなきゃ見る必要もないし、読みたくなきゃ読む必要もない。そう考えると、一文のありがたみもない文章を毎日書き続けて、公開し続けているものの、人から読まれるのかどうかも分からなければ、むしろ読み手の時間を浪費させてしまっているような気がして、なんだか申し訳なくさえ思えてしまい、果たして自分は何をやっているのだろうかと思ってしまうのだ。

そこまで気付いているのであれば、もっと目的のはっきりした、内容も意味を持つようなものを書いていければいいんだけれども……という感じで、堂々巡りになってしまう。

が、改めて考えてみると、これはそもそも自分にとっての訓練なのである。自分が書いて納得すればそれでいいのだろう。ひとまず今のところは。自分の考えを形に表すことが、まずは大事。目的意識をしっかりと持って物事を考えるようになれば、自然とブログも実のあるものになるのかもしれない。なんてことを期待する今日この頃である。

花火大会

今日は8月1日。8月1日は神奈川新聞主催の花火大会の日だ。前は横浜の花火大会は夏の間に2回ほど開催されたと思うのだが、いつからだったか、その回数が減ったとか、減らないとか……よく覚えていない。少なくとも、横浜開港記念日の花火大会と、神奈川新聞主催の花火大会の2回が、今年は開催されたようだ。

我が家からは音は聞こえるのであるが、姿は見えない。

もうここ何年か行ってないから、ちょっと恋しくなってきた。娘たちがもうちょっと大きくなるまで待つとするかな。