あるキリスト者のつぶやき… -32ページ目

W.C.はどこから

街を歩いていると、たまーに「W.C.」という文字を見かけると、トイレを連想してしまう。たしかに、W.C.はトイレを表しているのだが、はて、改めて考えてみるに、なんでW.C.がトイレなんだろうか。アメリカでは見かけたことがないので、世界共通のものではないのだろう。それに英語でもないだろう。英語であれば、個人の家ではBathroomだし、公共の場所ではRestroomになる。単純にMenとかWomenという表記もある。ということは、W.C.とは英語の頭文字ではないだろう。ちなみにトイレは英語では普通使わない。トイレット……やはり使わない。たぶん通じるだろうけど、日常的な言葉ではない。日本語で言うところのトイレットペーパーもBathroom tissueか、もしくは単純にPaperである。便所で紙と言えば、普通にトイレットペーパーが思い浮かぶからだろう。もしかしたら、英国英語では違うのかもしれないが、少なくとも米国英語ではそうだ。無駄を省くことが好きというか、なるべくなら楽をしようと考える国民性の現れだろうか。

そんなことを考えると、W.C.というアレは、日本独自の記号というかそういったものなのだろうか。

ということで、ちょっと調べてみた。W.C.とはWater Closetの略称であるらしい。そしてWater Closetとは、いわゆる水洗便所の19世紀における呼び名だとか。というわけで、日本発祥のもではないらしい。

ちなみに、W.C.というのは、現在でもドイツ、オランダでは使われているそうな。また実は米国でも一部においては現役として使われているとか。どんな場合かというと、Plumbing Codes、日本語に訳すとすれば、配管に関する条例とでも言おうか。

まぁ、どうでもいい、まったく何の役にも立たない雑学程度になったかな。少なくとも、W.C.がどこからやってきたかという、長年の謎は解決した。

ThinkPad

Lenovo(旧IBM)のノートPCであるThinkPadシリーズが、今月で発売から18周年を迎えた(迎える?)そうな。全世界で累計6000万台も売れたそうである。果たしてそれが多いのか少ないのか分からないが、私もThinkPad愛用者として、以前使っていたX40と今使っているR61の2台を今まで所有している。つまり6000万分の2、つまり3000万分の1は私なのである。そう考えると、何やらちょっと嬉しいような気がする。日本の人口が1億2000万ということを考えると、仮に今まで発売されてきたThinkPadを日本に集めると、2人に1人はThinkPadオーナーということになる。うーん、そう考えてみると、結構すごいかもしれない。

私の予定では今後もThinkPadを利用していこうと考えているが、一体型デスクトップのThinkCentreM90zもちょっと魅力的に思える。

さてさて、ThinkPad(ThinkCentreもそうらしいけど)シリーズの良いとことは、やはりメンテナンスのしやすであろうか。今時のノートPCにしては珍しく、部品の交換の仕方がちゃんとマニュアルとして付属していることだ。R61なんかはオークションで中古で買ったがために、マニュアル類は何一つ付属していなかったが、それでもLenovoのサイトから自由にダウンロードして見ることができる。おかげで、何の苦もなくキーボードの交換、HDDの交換、メモリーの増設もできるのだ。ユーザーによるそのような作業を事前に想定しているのだ。これが普通のノートPCだったら、一度でも分解しようものなら、保証対象外になってしまうだろう。自分でカスタマイズできる安心。

それと忘れてはならないのは、7段のキーボードと赤いポッチのポインティングスティックであろう。もっともこれは最近のシリーズでは他のノートPC同様に6段やトラックパッドになりつつあるのだが、使いやすさが格段に違う。たまに仕事でPanasonicのLet's Noteを触ってみると、もうどうにも雰囲気が違って使いづらいことこの上ない。もっとも、これについては、慣れっていうものがあるからかもしれないけどね。もうね、ポインティングスティックの使いやすさって言ったら、マウスの比じゃない!今後、ThinkCentreに移行するとしても、キーボードだけはスティックが組み込んであるのにしようと思う。

そんなことを考えると、やっぱりThinkPad(同じくThinkCentre)から他のメーカーの製品にのりかえようと思わない。

ビジネスでの利用が考えられているのだろうか、デザインや外観は、一般のメーカーと比べると、ちょっと見劣りしてしまうのは否めない。もっともXやTシリーズのような上位グレードはそれでも質感にこだわりが見られるが、今私が利用しているRシリーズに至っては、パワー的には上位グレードと大差ないものの、質感について言えば、もう安っぽいプラスチックの固まりである。ちょっと強く押すとぺかぺか音がするくらいだ。もっとも内部構造は金属製のロールケージで守られているので、ちょっとやそっとでは壊れないのは頼もしい。

Padと言えば、AppleのiPadばかりが目立っているが、やはりPadの元祖はThinkPadであろう。ThinkPad、万歳!

携帯電話

携帯電話とは、携帯できる電話のことだろう。もっとも最近の携帯電話は携帯できる電話以上であるが。

さてさて、いよいよauから歴としたAndroid携帯、いわゆるスマートフォンが発売されることになったとか。確か11月末から発売の予定かな。auのスマートフォンとしてはIS01、IS02に続く第三弾にあたるので、IS03という。これはちょっと欲しいかもしれない。まず、Androidっていうのが魅力的だ。なぜって、Androidと言っても基本になっているのはLinuxなんだろう。だったら、ちょっと頑張れば自分でアプリとか作れそうな気がする……もちろん、そんな気がするだけで、実際には敷居が高いんだろうけども。それにAndroid向けにアプリを作るスキルがあれば、iPhone向けのアプリも作れるかも。まぁ、片方ができればもう片方もできそうだ。でも、自分では作れなかったとしても、世界には色々とAndroid向けのアプリが出回っていることだろうと期待。私はiPhoneユーザーなんで、Androidにどんなアプリがあるかは、ちゃんと調べたことがないけど、Android携帯はiPhone以上に種類が豊富で、世界中で流通しているようだし、きっとアプリの数も半端じゃないだろうと思っているのである。あくまでも私の期待値であるが。

うーん、それだけでも十分魅力的だ。

しかし、冷静になって考えてみると、スマートフォンを2台も所有する必要はないだろう。毎月の利用料金だって、どう考えても今より安くなるわけではないだろうし。iPhoneを持っている我が身として、携帯は純粋に通話とメールのためにしか使わない。それを考えると、スマートフォンを持つ意味がない。しかも、IS03はiPhoneよりでかいときた。これでは2台持ち歩くにはかさばってしかたがない。だったらむしろ、サイズの小さな携帯を持っているだけで十分ではなかろうか。まぁ、iPhoneのキャリアであるSoftBankのサービスエリアがしょぼいことを考えると、あれだが……。

あぁー、悩ましい……。

いや、そんなに悩むことでもないか。予算もないうえに、そもそも携帯にそんな高機能を求めるわけでもない私にとっては、今の携帯をダメになるまで使い続けるのが最善なのだろう。

季語

日本語の素晴らしいと思える特徴のひとつに、季語というものがある。手紙やら俳句やらで、その季節柄を表現するための言葉である。英語には存在しない。英語以外の言語には通じていないので、他の言葉は分からないからなんとも言えないが……なぜ季語というものがあるのだろうか。日本人の美意識というものだろうか。四季がはっきりしている国土に長い年月住み続けてきたが故に、季節を感じること、そして季節を表現することに良い意味で敏感になっているのかもしれない。身びいきな言い方かも知れないが、日本が奥の深い言語であると思う。とは言っても、私は英語との比較しかできないから、あまりえらそうなことは言えないが。もっとも、英語は英語の良さというものもある。どちらも場合に応じて使えばよい。

さて、今は9月。暦の上では思いっきり秋である。今の季節の季語は……ここで、ぱっと思いつくことができれば理想的なんだけれども、どうにもそんなセンスはないらしい。

というわけで、残念ながら季語についてあれこれ述べるのは、どうも私の知識ではこれ以上無理っぽいのでやめておこう。

それはそうとして、今は秋である。秋っていうとちょっと涼しい印象があるんだけれども、なんだか今年はそんな気分にならない。それというのも、まだまだ体を動かすと汗ばんでしまうからだ。暑がり汗かきの私にとっては、もう一踏ん張りというところか。最高気温が20度未満になるくらいが、ちょうど良いのである。北国出身ってわけじゃないんだけれどね。今くらいなら半袖で平気なくらいだ。いや、半袖でも歩いてると暑くなるし、夜寝るときはTシャツ+短パンがちょうど良い。

という私のような者もおれば、先日などは電車の中でダウンのベストを着て、厚手のタイツに、ふかふかのブーツを履いている若い女性を見かけてしまった。今からダウンのベストですか!?しかもフードの裏地は毛糸で、周囲には(偽物だろうけど)毛皮なんかついちゃってるし。今からそんなに寒がってたら、冬になったら一体どうするつもりなんだろうか。

ヘンな話ではあるけれど、季節感を感じることのできる季節になってもらいたいものだ……。秋なら秋らしくね。

呉越同舟

「呉越同舟」

先日のことであるが、新聞で日本語検定の記事が載っていたらしく、妻が「呉越同舟」という字を見て「何て読むの?」と聞いてきた。「ごえつどうしゅう」と答えた。どうやら妻は別の読み方をしていたらしい。なんでアメリカに6年間住んでいて日本語のブランクがある私の方が読めるのだ……。

んで、妻は「どんな意味なの?」と聞いてきた。それはだな……何だよ、忘れちゃったじゃないか。「同舟」っていうのは、同じ舟ってことだろう。だから「呉越」っていうのは、きっと昔の中国には「呉」って場所があってだな、それを超えるっていうことだ。つまり、同じ舟に乗って呉を越えるっていう意味だろう……なんて、一瞬思ったのだが、それでは四字熟語として意味がない。だからきっと何かもっと正しい意味があるに違いない。ひとまず、妻の質問には「さぁー、忘れちまったよ。」と答えて逃げた。

というわけで、後から辞書で調べてみた。「同舟」は間違ってはいなかったけれども、「呉越」は大間違いであった。確かに「呉」は国の名前だという点においては、あながち間違ってはいないとしよう。「越」というのは、「越える」という意味ではなく「越」という国の名前である。中国の戦国時代において、両国は仲が悪く、互いに争いあっていたということだ。そんなわけで「呉越」というのは仲が悪いことの例えとして用いられていたそうな。

ではなぜ、そのような仲の悪い「呉越」が「同舟」したのか。それは互いに同じ目的を達成するため、敵同士であることを一旦脇に置いておいて助け合ったということに由来するらしい。らしい、というのは詳細を知らないからだ。果たしてその共通の目的が何であるのか、分からない。という故事が転じて、敵同士が行動を共にすることを、「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」という。

うーん、ひとつ勉強になった。