下書きですが
今日は使徒の働きが読めなかった。なぜかというと、私は毎週教会の週報に載せるためのエッセイを書いており、今はシリーズモノでヨハネの福音を読んで思ったことを書いているからである。というわけで、今夜は使徒の働きはパスさせてもらいます。
でも、せっかくなので下書きを載せておこうかな。これから見直して、清書して、そしたらやっと眠れるわけだ。
まだ私がアメリカにいる頃、羊の群れを背景に子羊を抱いたイエスの姿が描かれた絵をよく見かけた。おそらく著名な人が書いた絵なのだろう。教会やキリスト教系の書店やカタログで目にすることが多かった。もっとも帰国してからはそのような絵を見ることもなくなってしまったので、絵の詳細は忘れてしまった。もしかしたら、今の私の記憶にある絵は実際の絵の姿とは異なるかもしれない。背景に羊の群れがいたかどうかについては、ちょっとばかり怪しいところもある。さて、その絵が好きであったかどうかというと、どうもリアル過ぎて好きになれなかった気がする。
イエスはヨハネの十章で自分は羊の囲いの門であり、良い牧者であると言っている。すると、私たちは羊ということになるのだ。
羊というと、あの白くてふわふわした姿を思い浮かべるであろう。どこか温和しげで、純粋無垢であるような印象を受けてしまうだろう。では、あの羊というのはどのような生き物かというと、実に哀れなほどに間抜けな動物なのである。羊というのは、まるで小学校でやった遊びのように、群れの中の一匹がする動きを他の羊が追従するのである。さらに、群れの中ではリーダーというのがおらず、百匹の群れの中のどれか一匹が右を向いてしまえば、残りの九十九匹も右を向いてしまうという具合である。要するに自分で考えて行動するということがないのである。いつだったか、トルコだかどこだか忘れてしまったが、要するに中近東の方であるが、四百匹ほどの羊の群れが移動しているとき、その中の一匹が過って崖から落ちてしまったのである。すると残りの羊が最初に落ちた羊に従って、文字通り崖から死のダイブをしてしまったのだ。半数はすでに先に落ちた羊がクッションとなったのでどうにか助かったという。呆れてしまうというか、何というか。お世辞にも利口な動物とは言えない。
さて、そう考えてみると、イエスが私たちを羊とたとえているわけは、私たちが可愛いからというわけではなさそうである。むしろ、私たちが愚かしいから、羊と譬えているのではないだろうか。
なるほど、そのように思われてしまっても仕方がないのではないかと思える。人というのは、不思議と大勢に流されてしまいやすいモノであることは否定できないであろう。私が小学生くらいの頃に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という、今考えてみればアホな言葉がはやったが、そのような考えは「朱に交われば赤くなる 」ということわざがあるように、ずっと昔からあったものである。要するに、人というのは流されやすいものなのである。
そんな私たちであるからこそ、導いてくれる牧者が必要なのである。牧者といってもただの牧者ではいけないのである。崖からダイブした羊の群れにも牧者はちゃんといたのだ。牧者がいたとしても、羊は皆崖から落ちたのである。そうならないためにも、私たちには良い牧者が必要なのである。まさしくイエスはそのような牧者なのである。良い牧者は羊を決して見捨てることなく、私たちを救うためには自らのいのちをも犠牲にしてくださるのだ。
私たちは救うに値するほど純粋な者ではない。実際は、救いが必要な程どうしようもない罪を負った者なのである。そのような私たちのために牧者となってくれるのが、イエス・キリストである。
ちなみにエッセイの正式版は日曜日に本家のサイト で公開します。
何となく
またテンプレートを変えてみた。今まで使っていたテンプレートは、最初の記事の背景に花の絵が来てしまって、どうも読みづらかったんだよな。自分でも見づらいと思ってしまうようなモノを、人様に見せるのもなんか気が引けてしまうので、背景が見やすくて、あまり堅苦しくならないようなものにしてみた。
それにシャボン玉を吹いている女の子の天使が、どっかうちの子に似ているんだよね。頬杖ついている様子とか、あの髪型とかが、そっくり。
それはそうと、ブログで物語を書いてみるのも面白いんじゃないかと思う今日この頃。しばらく前にStephen Kingの"On Writing"を読んだのだけれど、物語の登場人物に自由に行動させると、物語が思いも掛けない方向に展開して書き手が想像しているものよりも面白い作品に出来上がると書いてあったような気がする。なるほどと思うのだけれど、なかなかそれは言うほどに易しいものでもないような気がする。うーむ。まずは、少しずつ書いて、ストーリーがどのように展開していくのか見守ろうとするかな。
その目でどこを見る?その耳で何を聞く?
人というのは不思議な物事や、非日常的な物事に興味を覚えてしまうものなのかもしれない。インターネット通じて世界のあらゆる情報を集めることのできるこの時代にあってさえ、多くの人々は占いというものに興味を寄せるのはそのためであろう。真剣に考えたことはないが、占いの歴史というのは相当古いモノだろう。昔の遺跡からあれこれ占いの儀式で用いたと思われる骨だの何だのが見つかることを考えると、聖書の歴史並に古いのかもしれない。聖書はあまりもてはやされることはないのであるが、占いというやつはなかなかどうして、人々を惹き付けてやまないようである。去年の夏くらいに中華街にマンゴーフラッペを食べに行ったのだが(まぁ、ずいぶん昔の話だねぇ)そのときガラス張りのきれいなビルの一階のテナントがなんと占い屋であったのが、今でも記憶に鮮やかである。あれはまるで、不動産屋か何かのショールームのように人がわんさと入っていた。
さて、使徒バルナバとサウロはキプロスへとキリストの福音を伝えるため、旅に出たのである。ある時、キプロスの地方総督が神のことばを聞きたいと考え、二人を招いたのであった。ところがエルマという名の魔術師が、総督を信仰に入らせないようにと、あれこれ邪魔をしていたのである。もしかしたら、エルマは以前から総督の前で様々な不思議な業を見せて、総督を自分の都合の良いように使おうと企んでいたのかもしれない。とにかくエルマは使徒が気に入らなかったのである。ところが、サウロが彼を叱りつけると、エルマは視力を失ってしまったのである。
そして、それを目の当たりにした総督は、神のことばに感心して、信仰を持つようになったのである。さて、ここで肝心なことは、総督はサウロの起こした奇跡をみて驚きはしたものの、それだけで信仰に入ったのではないということだ。総督は神のことばに揺り動かされて信仰に入ったのである。13章12節は見過ごしてしまいやすいような短い一節であるが、ここに書かれているのは大事なことであることを忘れてはなるまい。人を本当の信仰に導くのは、奇跡ではなく、神のことばであるということなのだ。
ちなみにこの頃を境に、サウロはパウロと呼ばれるようになる。理由は、知らないのだけれどね。
さて、キプロスからエルサレムに戻った二人は、その後アンテオケ地方へと向かった。そして、会堂に入ると信仰に入った人々ーイエスを信じたユダヤ人もいれば改宗した異邦人もいたのであろうーに神のことばを教えていたのである。ところが、この地方でもユダヤ人たちは、勢力を増しつつあるキリスト教徒たちを妬んで敵視していたのである。彼らは信仰者に向かって散々悪口を言ったのである。さて、パウロとバルナバはそのような彼らにこう言った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」
これもまた、忘れてはならないことだろう。神は人を拒んだりするような方ではないのだ。それはイエスの生き方を見ても分かるだろう。人が神と隔てられているのは、実は人が神を拒んでいるからなのである。クリスチャンとなった後も、神が遠くに感じられることがあるかもしれない。私もそのような時がある。でも、それは神が私を見限ったからではなく、私が神から目をそらしているからなのだ。
何やら、今夜は長く語ってしまった。
連鎖反応
使徒の働きを続けて読もう。今日は12章。よくぞここまでやってこれた。
さて、ローマ政府に推されてユダヤの王となっていたヘロデという人物がいた。赤ん坊のイエスを殺そうと企てたヘロデとは別のヘロデであるが、その悪しきことに違いはない人物であった。ヘロデ王、どうやら自らの足下で勢力を広げつつあるクリスチャンたちが嫌いだったらしい。そんなわけで、とうとう弟子ヤコブを捕らえて殺してしまった。これが一部のユダヤ人に喜ばれたので、味を占めたヘロデ王は、今度はペテロを捕らえたのである。ペテロが逮捕されたことを知った人々は彼のために祈り続けたのであった。
さて、ある晩のこと、ペテロの牢獄に神の御使いが現れたのであるが、面白いと言うか何と言うか、御使いは彼にこう言ったのである。「帯を締めて、くつをはきなさい。上着を着て、私についてきなさい。」なんとも冷静な態度。牢屋から逃げるのであれば、何はともあれ、まずは逃げることを優先にするだろう。身の周りに構ってはいられないと考えるのが普通ではないだろうか。果たして外が寒かったのかどうか…それとも、神がペテロの逃げ道を用意されたということは、つまりそれは何者も邪魔することのできない確かな逃げ道であって、なにも恐れて慌てて逃げる必要がないということなのだろうか。後者ではなかろうかと、私は理解している。個人的な考えではあるが。
さて、身支度を調えたペテロは弟子の集まる家に行き、開けてくれと、ドアをノックしたのである。やってきたのは女中のロダ。ペテロの声が聞こえると、すっかり焦ってしまってペテロをドアの外で待たせたまま、他の弟子に知らせに行った。女中さん、大事な人を忘れている…ところが弟子に告げると「気が狂ったか!?」と言われる始末。何とも残念な役回りである。が、ペテロがドアを叩き続けていたので、やっと皆気付いたのである。奇跡が起こったと良い知らせを告げる者は、奇跡を見ていない周りの人々から笑いものにされてしまうということなのだろうか。いやいや、そんなに深い意味はないのかもしれないけど、なんとなく面白いものだと思った。
一方、ペテロがいなくなったことに気付いたヘロデ。すっかり逆上して牢屋の番をしていた兵士を処刑してしまったのである。悪い奴は本当に悪い。兵士が実に哀れである。
しかし、ヘロデの極めつけの悪業は、民衆に自分のことを神だと平気で言わせたことである。とうとう神も堪忍袋の緒が切れたのか、ヘロデの息を絶えさせたのであった。人は決して神を超えようなどと思うものではない。人は所詮人でしかないのだから。創られた者が創った方を超えようとしてはならないのである。
司馬遼太郎「尻啖え孫市」
それはそうと、孫市の女好きは、実にユニークなものである。普通、女好きというと、恋愛の対象としての女性、性の対象としての女性、つまりは男が自らを満足なり納得させるために女性を求めるものだが、孫市はまったく違うのである。それは出会う女性出会う女性を「品定め」し、身も心も人として魅力のある女性に観音の位を与えるくらいである。おそらくその「品定め」のプロセス故に、好色に思われてしまったのだろう。
それにしても、女性に観音の位を与えることに喜びを見出し、土地や所領を得るための戦には興味を示さず、そのくせ人から頼まれれば戦をし、たとえ敵味方に分かれたとしても、友との関係を大事にするその人柄は、見ようによっては無私無欲にも近いといえるだろう。勝手気ままに振る舞うわりに、欲がない。人として実に魅力的な生き方ではないだろうか。小心者の自分には到底真似のできない行き方であるが故に、憧れを感じてしまう。