司馬遼太郎「尻啖え孫市」 | あるキリスト者のつぶやき…

司馬遼太郎「尻啖え孫市」

紀州雑賀の領主であり、当時はまだ珍しかった鉄砲の腕前の鮮やかさの故に鉄砲大名との異名をとった雑賀孫市の物語。戦国の世に生まれ、鉄砲を中心とした強力な兵力を持っていたにも関わらず、天下を取るという欲もなく、自由気儘に生きることを好んだ人物である。そして無類の女好きであり、一目その足首を見て惚れ込んだ女性が織田信長の縁者であると思いこんで、信長の軍勢と共に戦ったかと思えば、実はそうではないことがわかったら、あっさりと破竹の勢いの信長軍を捨て故郷に帰る奔放さ、そして好いた女性が織田に対抗する大勢力である本願寺の門徒であり、鉄砲伝来の恩人の縁者であることを知るや、本願寺軍の総大将に納得しきれないながらも推戴されその軍略の才を発揮する。大胆勇猛な姿と一緒に見られる単純さ純粋さに人としての魅力を感ぜずにはいられない。
それはそうと、孫市の女好きは、実にユニークなものである。普通、女好きというと、恋愛の対象としての女性、性の対象としての女性、つまりは男が自らを満足なり納得させるために女性を求めるものだが、孫市はまったく違うのである。それは出会う女性出会う女性を「品定め」し、身も心も人として魅力のある女性に観音の位を与えるくらいである。おそらくその「品定め」のプロセス故に、好色に思われてしまったのだろう。
それにしても、女性に観音の位を与えることに喜びを見出し、土地や所領を得るための戦には興味を示さず、そのくせ人から頼まれれば戦をし、たとえ敵味方に分かれたとしても、友との関係を大事にするその人柄は、見ようによっては無私無欲にも近いといえるだろう。勝手気ままに振る舞うわりに、欲がない。人として実に魅力的な生き方ではないだろうか。小心者の自分には到底真似のできない行き方であるが故に、憧れを感じてしまう。