あるキリスト者のつぶやき… -151ページ目

ぼちぼち時間かな

しばらく前に、クリスチャンになった経緯を題材に、半自伝的なエッセイを書いた。それなりのボリュームになったのだけれど、二十数回に分けて書いたので、続けて読むとなんとはなしに、まとまりに欠けているような気がする。それに、書いてからそのまま放置されているのも、なんか勿体ないような気もする。せっかくなのでこれを機会にまとめて、コンテストに応募しようかと思う。さて、どうしたものかと考えてしまう。
まずは出だしを見直してみようかと思う。ちなみに、エッセイはこのように始まっている。最初に書いたときから、ほとんど手を入れられていない状態ではあるが…


私が人に「俺、クリスチャンなんです」とか「俺、教会通ってるんです」などと言うと、クリスチャンではない周囲の人たちからは「ふーん、そうなんだ」とか「お前ンとこはクリスチャンなのか?」とか「それは偉いねぇ」などといった様々な反応が返ってくる。ところが、なぜ私がクリスチャンであるかを聞いてくる人は皆無と言ってもいいほどいないのである。どうやら、彼らにしてみれば私がクリスチャンであるのは、つまり私がクリスチャンの家に生まれたからクリスチャンなのであろう、といった解釈をしているに違いない。だいぶ前の話であるが、クリスチャンとは生まれつきではなく、自分で決めてなるものだと言ったときに驚かれたことがあるくらいだ。そんなわけで、「両親もクリスチャンなんだ?」と聞かれ「いや、違うよ」と答えると、毎度のように決まって不思議そうな顔をされ、会話がそこで途切れてしまうのである。

ちなみにタイトルは「話せば長い話」とオリジナルではつけらている。ついでと言ってはなんだけど、これももう少し印象に残りやすいもの、本文の内容を反映するものに変えてみるかな。そう考えると、タイトルと本文のどちらを先に整理するべきなのだろうかという課題がでてくるのだ。

分け隔てなく

使徒の働き10章。そう言えば、昨日は読まなかったなぁ~。へへっ、まぁそんなこともあるってことで。

使徒の働きの舞台となった時代では、ユダヤ人は外国人とはあまり関係を持たなかったのである。さて、ここにでてくるコルネリオという人物は、ローマ軍の部隊の隊長であった。根が善良なのか、彼はユダヤ人に親切に接し、家族共々神に祈りを捧げていた。が、どうやら、彼らはイエスのことは知らなかったようである。そんなわけで、ある時、天使が彼のところにきて、弟子のペテロを呼んできなさいと伝えたのである。おどろいたコルネリオは使いをペテロのところに遣ったのである。

一方ペテロはどうかというと、天使がコルネリオに現れた翌日、妙な夢を見たという。ユダヤの戒律で食べてはいけない動物を食べろという声が聞こえたので、それを拒んでいると「神がきよめたものを、きよくないと言うな」という声が聞こえたという。さて、目を覚ますとコルネリオの使い達がきていた。

ペテロにしてみれば、なんでわざわざローマ人のところに行かねばならぬのか、と思ったであろうが、夢の意味を理解して、そのまま出掛けていったという。異邦人たちがイエスがペテロに命じたことを聞きたいというと、ペテロはこう告白した。

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」


人はみな平等というが、今の世の中、それはいくらなんでも現実味がない。富んでる人がいれば乏しき人もいる。あらゆる悪がはびこるこの世界、平等というのはまやかしごとに過ぎないだろう。しかし、真に平等であることが一つある。それは、神を恐れるのであれば、性別、年齢、富や権力…それらのものに関わらず、神は受け入れてくださるのだ。神の前にあってこそ、人ははじめて平等になれるということではないだろうか。

駅弁、駅伝、そして車検

昨日は朝から晩まで、ばたばたしていたので記事を書く余裕がなかった。夜書こうと思ったけど、レンタルしてきたDVDを見ていたら、結局日付が変わってしまったので、こりゃもういいやと諦めて寝ることに。なんとか連続更新していこうと思ったのだけれど、早くも挫折…。一度休むと、休み癖っていうのがつきやすいので要注意だ。前に本家サイトでやっていたブログも、休みがちになって最終的にやる気が失せて消滅してしまったこともあるから、今回は気をつけないといけないな。とは言ってもランキングがあるおかげで、少しはやる気がでてくるというものか。もっともそれ以前に更新することの意味って何?っていうのもある。けど、それは今は考えない。更新することに意義がある、どうでもいいような情報だとしても発信することに意義がある、とでもしておこう。
さてさて、昨日は近所のヨーカドーで駅弁・空弁大会をやっていたので、礼拝後の昼食はそちらで購入することに決定。駅弁大会ってやつはいつも私を魅了してやまない。なんだろう、旅する事への憧れの現れだろうか。ちなみに私を私は仙台の牛タン弁当、奥様は米沢牛肉弁当。でも、2歳の娘は、ヨーカドーのミックスサンドで満足していた様子。うーん、おいしかったなぁ。牛タンは紐を引っ張って暖めるタイプ。暖まるまで数分待たないといけなかったけど、いやぁ、おいしかったー。次はどこの何弁当を食べようかと今から考えちゃう。
そういえば、昨日は横浜国際女子駅伝。雨降る中、みなとみらい~金沢を往復するのは、たとえチームで走るにしてもきつかったであろう。日本はエチオピアと競り合って、4位になってしまうかと思っていたら、赤れんがの前に来たら、ものすごい勢いで追い上げて、3位入賞!いや、感激しちゃったね。トリノオリンピックより面白いかも。そういえば、日本代表の最終走者は18歳。安藤美姫も18歳だったね。安藤美姫は残念な結果だったけど、若い子たちは頑張ってるなぁ。18歳の時、私は何をしていたか…目立たない学生だったわな。
そして、昨日はついでに車検。日産の工場に持って行かなければいけないんだけど、よく考えたら、駅伝のコースと同じルートをたどらないとクルマを持って行けないのでした。というわけで、駅伝のほとぼりが冷めたと思われる夕方にクルマを持って行く。見積もってもらったら15万円。今まで車検を経験したことがなかったのでびっくり!(アメリカには車検なかったし、帰国してからはしばらくクルマ乗らなかったし、その後乗っても車検の前に今のクルマに買い換えたし…)余計なオプションをはずせば安く済ませることはできただろうけど、なんせ命を預けるモノだからケチるのはやめにした。ここでケチって後で高くつくのはイヤだもんね。
色々重なった昨日は、雨の冷たい一日でした。

目から鱗

この言葉。実は語源が聖書だったりする。普段何気なく使っている言葉の語源が聖書っていうのは、なかなか面白いモンだ。キリスト教が文化の根本にある欧米でのことならともかく、この島国で使われているというのは、不思議なことだ。一体一番最初に使い始めたのは誰だろうかと、ふと考えてしまう。
さてさてそれはおいておくとして、今日は使徒の働き9章。7章や8章はちゃんと読んだけど、とくに思うところもなかったので何も記録には残しませんでした。でも、ちゃんと読んだから今日はこうして9章に至るわけです。そして、9章で「目から鱗」が使われているんですよね。実は7章でステパノという信者が石を投げつけられてボコボコにされて殺されてしまう話が書かれているんだけれど、その時、サウロって言う名前の青年宗教家がいたんだな。8章には青年サウロもステパノを殺すことに賛成していたと書かれているし、何よりもサウロ自身がクリスチャン達を迫害するがために諸地方を旅していたという。9章に至る頃には「脅かしと殺害の意に燃えていた」と書かれているぐらいだから、よほどのクリスチャンに対して敵意を持っていたに違いない。
そんなサウロがある時ダマスコの地方を旅していたんだけど、いきなりまぶしい光に照らされてしまったんだ。実はそのときサウロはイエスの声を聞いたという。「私はあなたが迫害しているイエスである。」その声はサウロだけでなく、サウロと一緒にいた人々にも聞こえたと言うから、皆すっかり恐れてしまったのだ。そしてふと我に戻るとサウロはすっかり目が見えなくなっていたのだ。おまけにショックで食事もできなくなったというから、かなりのトラウマであったのだろう。しかたなく一緒にいた人たちに導かれて、やっとのことでダマスコの町に到着したという。
しかし、実は神は"先回り"してダマスコに住んでいたアナニヤという信者に、サウロのところに行って彼のために祈るようにと命じていたのである。アナニヤにとっては迷惑な話であるが、言いつけの通りにサウロのところに出掛け、盲目になったサウロのために祈ったのである。すると、びっくり、彼の目から鱗のような物がおちて、また目が見えるようになったという。一連の出来事ですっかり心を入れ替えたサウロは、その後は今まで自分が迫害していたイエスのことについて、人々に伝える側へと回ったのである。
人間的に考えれば、たとえクリスチャンであってもサウロを痛めつけたいと考えることであろう。しかし、神はそのサウロを救っただけではなく、さらには福音を広めるために用いるようになるとは…まさしく神の不思議である。

ネクタイ嫌じゃ

今日はお客さんと打ち合わせがあったので、やむなくネクタイをして出掛けた。スーツは私の主義ではないので、せめてもの妥協でネクタイである。しかし、私はこのネクタイが大嫌いである。一時期は、ネクタイを締めると気持ちまで締まるように感じて、ネクタイが好きな時期もあったが、今ではネクタイを締めると首が絞められて息苦しいだけにしか思えない。いやいや、確かに最近太り気味で首の回りに余分な肉が付いてきて、文字通りネクタイをすると絞殺されかけているような気分になるのである。
なんというか、このネクタイってやつはホントに厄介なのである。息苦しくなるのは先に書いた通り。やっかいなもので、息苦しくなると、体がかっかと火照ってしまい仕事に集中できなくなる。どう考えても、考えることでメシを食っているエンジニアにとっては、これほど理不尽なものはない。周りのエンジニア達が平気でこの「首輪」をしているのを見ると、まったく不思議でならないのだ。
あと、気になるのは食事の時、ネクタイが大事な昼飯に接触するのではないかとひやひやしてしまう。貴重なメシをネクタイで汚したくはないのだ…あ、その反対か。そして、洗面所。便所で用を足して手を洗うと、どうしてもネクタイの端っこが洗面台に触れてしまうのである。家の洗面台ならまだしも、そとの洗面台っていうのは、いつも濡れている。するとネクタイに水がついてしまうのだ。ネクタイ嫌いなくせに、ネクタイが汚れるのは許せない。(笑うなら、笑え!)
そんなこんなで、私はよほどのことがない限りネクタイはしないのである。社会人としては失格かしらね?