あるキリスト者のつぶやき… -149ページ目

認め合うこと

昨日は書きそびれてしまったけど、使徒の働き15章を読んだ。んで、今日は16章を読んで、ちゃんと続けて読むことができてます。ふむふむ。


さて、昔々…に限ったことでもないかもしれないけど、少なくとも使徒が宣教を始めた時代には、ユダヤ人の改宗者(つまり元ユダヤ教徒)と異邦人の改宗者(こちらは元異教徒)がおったそうな。当然背景が違うこともあれば、ユダヤ人には旧約聖書の「歴史」だの「伝統」だのといったプライドもあったわけで、ある時意見が衝突したのである。要するに、異教からの改宗者たちもユダヤ人の慣習に従うべきであるかどうかと。まぁ、神が救い出した者に新たに束縛するようなこともないだろうという結論に達したとのことである。もっとも異教の習慣を連想させるような行為については禁止となったのである。
これが当時の話。


さて、今の話…教会とはたった一人のイエス・キリストから始まった信仰であるにも関わらず、2000年も経ると分裂や分派を繰り返して(まるで細胞だな…)数え切れないくらいの教団だの教派だのに分かれてしまっているのである。基本的な教理は同じであるだろうけど、細かいことになるとあれこれ違ってきて、どうもこれがまたやっかいなようである。大きく分ければカトリックとプロテスタント。プロテスタントの中でも長老派だの改革派だのバプテストだの、さらにそれぞれの中で細かく分かれている始末。まぁ、色々と理由があって細かく別れのは問題とは思わないが、互いに違うところを指摘してあーだのこーだの非難しあうという話を聞くと、何というか、見苦しい。共通点を大事にして互いに認め合えば良いものをといつも思うのである。

藤沢周平「暗殺の年輪」

表題作「暗殺の年輪」の他に短編が4作記載されていた。各作品における主人公が、いずれも暗い影を持った人物であるためか、今までに読んできた藤沢作品にはない冷たさというか暗さというか、なんとも後ろめいた雰囲気を持った作品である。読み慣れた快活さというか美しさがなかったのが少し残念であるが、まぁ、好みの問題であろう。
私個人の感想としては表題作よりも、「黒い縄」の方が好きかな。短い物語の中に様々な要素がうまい具合に緻密に編み込まれている。家族の中の確執、恋愛、過去の殺人事件を巡る追う側と追われる側のやりとりが短い中に自然に語られているのだ。このような奥行きと間口の広さを持ち合わせた作品も珍しいのではないか。短いにも関わらず、読み終わった後に「なんだこれだけの話か」と思えることもなかった。そして、物語自体はハッピーエンドではないが、寂しいながらも後腐れがなく、すっきりとした後味を与える作品であろう。表題作にしても他の作品にしても、このような味わいがなかったのが少し残念である。
このような作品を書くことのできる才能が実に羨ましい。生まれ持ったものか、それとも訓練によるものか…

楽器っていいよね

わぁ、今日も長い一日だったなぁ。
今日は朝から町内会の掃除当番。近所の公園の掃除だったんだけど、なんせ小さい公園を大勢で掃除するもんだから、ちょっとやっただけですぐに終わってしまった。私が公園に行ったのは、10時。家に帰って来たのは10時40分。そんなわけで、今日の朝礼拝は休むことにして、午後からの役員会と夕礼拝に参加することにしたのです。
さて、掃除が終わってから、シャワーを浴びつつ風呂を洗って、教会に行くまで少し時間があったので、子供の相手をしつつ、久々にギターの練習をすることに。なんかしばらくさわってなかったので、チューニングしようと思ったら、どうやらチューナーの電池が切れかけていたようで、目盛りの針がたまーに表示されないのよね。まぁ、それでも無事に音も合わせられました。しかし、久しぶりにやると、指がうまく動いてくれないのよね。でも、やってうちになんとなく感覚を思い出してきた。
さて、時間になったんで家を出ようとすると、うちの奥様が気持ちが悪い、と言い出したので、結局ひとりで行くことに。どうも、最近お腹の風邪がはやっているようですな。おいらは元気なんだけどね。ま、健康がなにより。感謝、感謝。
役員会も今回は熱くなることもなく3時には終了。ってなわけで、夕礼拝までまだまだ時間があったので、さらにギターの練習に励む。教会だと周りに気遣いすることなく練習できるのでよい。また、牧師さんがギターうまいんだな。今日はAのコードを教えてもらいました。ひたすら練習あるのみ、って感じです。そうそう、今日はそれにドラムも少し教えてもらったな。私はあまり器用な方でもないし、音楽の成績も良くはなかったけど、でも音楽聞いたり楽器を演奏するのは好きだな。なんだかドラムにもはまってしまいそうだ!

恵みの時

使徒の働き14章。使徒パウロとバルナバの旅は続いてます。やってきたのはイコニオムという都。あまり聞かない名前なので、どこにある都かと思いきや、今のトルコのコンヤという都市らしい。思えば、キリストの時代から今の時代まで都市であり続けるとは、横浜なんて幕末開国の時に開かれた新興都市に住む私には想像の域を超えている。隣の鎌倉だって、頼朝公が鎌倉幕府を開いたのが1192年だから、まだまだ若い都である。すげぇー。


さて、それはそれでおいておくとして、ここでも使徒たちはイエスの福音を告げ、奇跡を行ったのであるが、やはりユダヤ人からの風当たりは強かったのである。結局イコニオムにしばらく滞在したものの、彼らを好ましく思わないユダヤ人と異邦人が結託して、リンチをしようと企てたので彼らはルステラ地方(今はトルコの高原地方)へと逃げてきたのだ。ここでも彼らは同じように活動した。ある時、一人の足なえをいやしたのであるが、それを目撃した人々が使徒たちの行う奇跡に驚いてしまい、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」とすっかり感激して、彼らにいけにえをささげようとし人々が集まってきたのだった。むしろ、驚いたのはパウロとバルナバである。必死になって、彼らを説得し自分たちは神ではなく、神のことばを伝えているだけに過ぎない者であることを告げたのだった。
彼らを説得するときの言葉がとても印象的なのである。 「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
今の時代においても、聖書のことばを聞いたことのない人々が多くいることだろう。しかし、そのような人々も神を知ることはできるのである。森羅万象が神について証言しているのであろうから。
信仰持つ私であるからこそ、雨が降ろうと風が吹こうと、朝になると日が昇ること、夜には日が沈むことに神がおられることを覚え、日々必要が満たされ、日々生かされていることに感謝して生きたい。

雛祭り

一日遅れて雛祭りのお祝いをしました。そう、まだお雛様は飾ったままです。お嫁に行き遅れると言うけれど、あまり気にしてはいないんだな。きっと桃の節句を過ぎて、何日も放置しておくようなだらしのない生活をしていると、お嫁に行けないよ、ってな感じなのでしょう。我が家はちゃんと明日には片付ける予定にしております。
さてさて、そんなわけで今日は我が家に私の実家の両親を招いて夕食を一緒にとりました。メニューはジャガイモのポタージュスープに鶏の唐揚げ、それにサラダ寿司でした。2歳の娘はアンティークの赤いドレスを着て嬉しそうにはしゃいでいたな。今日の主役は自分であることに気がついていたのかもしれないね。


毎日元気に過ごして、良い子に育って欲しいというのが、親としての単純な願いです。