人間観察
旅行会社のパンフレットを配っている人、パンフレットを拒否している人。「ぽい捨て監視員」なるたすきを掛けて突っ立っている人たち。あの人たち、ボランティア?それともお金もらってるの?あれでお金もらってたらある意味ずるい。カラオケ屋のティッシュ配りの若い兄ちゃん姉ちゃん。ティッシュを配るよりもおしゃべりに夢中である。よーくみると、違うカラオケ店なんだけど、仲が良い。古雑誌とおぼしきものを広場の片隅で販売しているおっさんたち。きっと拾ってきた雑誌を売っているんだろう。そして、そこに雑誌を売りに来たおぢさん。そもそもあそこで営業する許可を得ているのか疑問。袴姿の女の子。卒業式?ちょっと早い気がするけど、もう3月だもんね。
とにかくいろいろな人たちがいるのである。みんなそれぞれの思いや考えを胸に秘めて私の目の下を通り過ぎていくんだなぁ、と考えると不思議な気分になる。ふと、彼らの心の中を覗いてみたら面白いかも、と考える。でも、想像で人の内側を描いていくのが、物書きの仕事なんだろうね。今は自分の内側しか書けないけど、人の内側を書けるようになれば小説も書けるのかもしれない。
今日は会社休み!
先月の給与明細を見たら「有給休暇残日数 38日」と記録されていた。これは、休まなければ勿体ない。そんなわけで今日は会社を休んじゃいました。いや、ずる休みじゃないよ。ちゃんとお客さんにも、上司にも報告しておいたし。それに、仕事もきちんとやっておいたからね。
でも、今日は別に家でうだうだしていたかったわけでもないし、妻と子と一緒に何かをしようと考えていたわけでもない。休みたかった本当の理由は、あるキリスト教系のかなりマイナーな雑誌の原稿を仕上げたかったっていうのと、半自伝的なエッセイをまとめたかったってこと。そんなわけで今日は一日だけ、俄に作家の真似事というか執筆に情熱をかけることにしたのです。もちろん、作家になったことはないから、彼らの一日がどんなものかは分からないけどね。ちなみに私の一日はこんな感じ。
朝8時起床。「やべー、会社遅れる!」という気遣いもなく、子供と遊びつつ朝ご飯を待つ。10時に妻と子が教会に行くので、見送る。その後、洗濯モノを干す。干し終わったら「いざ!執筆!」と思って、まずは昔々に書いたエッセイに赤入れするためプリントアウトする。が!!プリンタのインクが切れている!!(´・ω・`)せっかくモチベーションがあがってたのにぃ。でも、ひとまず頭ン中に構想がわいていたので、雑誌の原稿を一気に書き上げることに!(`・ω・´)そして11時半、上大岡のヨドバシへ。この時間帯、京急デパートの中は女の人しかいません。ヨドバシでインクを買うなんぞ、SOHOの人みたいね。新しいインクを入れて、印刷。A4でトータル47枚+1枚(原稿)。かなりのボリュームさぁ。さて、どこで赤入れしようかと考える。図書館もいいかと考えたが、飲食はできないし、静かな雰囲気っていまいち好きに慣れん。ちょうど小腹も減ったし、横浜まで出てStarbucksへ。ちょうど楽器屋と東急ハンズも見たかったしね。
2時半から4時まで1時間半ほどスタバでぼんやり人間watchしつつ原稿とエッセイの赤入れ。とりあえず、原稿は終わったから一安心。エッセイの方は4枚見て今日の区切りをつける。こちらは締め切りがないのでじっくりやることに。
楽器屋をちらりと見て、ドラムって高いし場所とるから家に置くのは現実的じゃないなと思う。まぁ、道具からはいる必要もないでしょう。でも、せめて自分用のスティックくらい買っておけばよかったかな。さて、東急ハンズでは子供のキーホルダーを直すためのねじを購入。東急ハンズを出た後、奥様にメール。「何か食べたいものある?」しかし、返事なし。
そうそう、横浜まででてきたんだったら、例のオレンジチーズ
を探そうと思い、SOGOの地下にある洒落た店に行く。おぉ!ちゃんとあるじゃないですか!しかも200円。安っ。チーズと言ったらやはりパン。ってなわけで、同じくSOGOの地下のパン屋でお買い物。さぁ、帰ろう!と思ったら奥様からメール。「焼き鳥食べたい」だとさ。もうパン買っちゃったよ。ヽ( ´Д`)ノ しかし、焼き鳥いい!と思ってしまったので、焼き鳥も買うことに。しかし、SOGOで買うのは高そうなんで、途中の上大岡で下車して、こんどは京急デパートの地下へ。今日ここに来るの2度目じゃんと思いつつ、レバー&皮&ニンニクx2を購入。そんで無事6時前に帰宅。
そんなこんなで今日はなかなか充実した一日だった。まだ有休37日も残ってるよ。これからも月一くらいで作家やろうかな。なーんてね。
語り続けること
使徒が旅する先々で人々は信仰に入るのだった。なぜ、人々は改宗したのであろうか。それは、キリストの話を聞いたからであろう。確かに、使徒たちは奇跡も行ったこともあるので、それを見て神を信じた人々もいただろう。しかしそれでも多くの人々は使徒たちがキリストのことを伝え教えたからだろう。使徒たちはかつては同胞であったユダヤ人から迫害されながらも、くじけることなくキリストの話を人々に語って聞かせたのだった。思えば、赤の他人とも言える外国人や異教徒からの迫害なら、それなりに意見も違うだろうからと、悪口を言われたり、殴られたりしても納得できないといこともなかったであろう。ところが、同国人でありかつては同じ信仰を持っており、なお今でも同じ神を信じているにもかかわらず、イエス・キリストを信じているが故に牢屋に放り込まれたり、リンチされそうになったりするのは、どう考えても納得のいくものではなかったに違いない。
さて、今日は18章。パウロがコリントという都にいた時である。ある晩、神が幻(夢のことかな?)で彼にこう言ったのだ。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」そして、この幻を見た後、1年半の間コリントに滞在していたのである。そして彼はその間「神のことばを教え続けた」のである。
やはり信仰に生きる者として大切なことは神のことばを伝えることなのであろう。私は話し下手なので話すのは苦手である。そして、ペテロやパウロが語ったようには、神のことばを伝えることはできない。こうしてブログに聖書を読んだ記録を残し、自分のサイトで信仰者の観点から書いた随筆を公開することが、私にとって「語り続ける」ことなのであろう。小さな働きかもしれないが、これからも続けていきたい。
神の中に生きる
使徒の働き17章。まぁ、当然といえば当然なんだろうけど、使徒たちは実に色々なところへ旅するものである。キリストの福音を伝えるためであるのは分かるが、聞き慣れない地名ばかりで、どの辺りを旅しているのかさっぱり分からなくなってしまう。
さてさて、パウロたちは旅を続けて、ギリシア人たちが多く住む街までやってきた。アリストテレスやプラトンといった著名な哲学者がギリシア人であったように、どうやら学問好きというのが、彼らの性格らしい。そんなわけで、パウロたちが何やら「新しい話」を持ち込んできたことを知るや、ギリシア人の哲学者たちは彼らに「その新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか」と尋ねたのである。
そしてパウロが彼らに語って聞かせたことは「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」ということであった。
もっとも神が天地万物を創造された方であるということは、創世記から始まって、聖書の中で何度も言われていることであるから、何も珍しくもないのである。しかし、今日の箇所で私が面白いと思ったのは「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」とパウロが言っていることだ。あまり見かけるような表現ではない。
それでは一体、人が神の中に存在しているとは、どういうことだろうか?文字通りに人が神の中に存在していると考えると、人間っていうのはまるで寄生虫か何かのような存在になってしまい、なんだかパウロの意図していることとは違うような気がする。確かに創造主である神と比較して、人間というのはちっぽけなものであるが、だからといって寄生虫のように宿主(つまりは神様か)の体を蝕み、おこぼれをちょうだいするような下卑た生き物ではあるまい。そう考えると、ここでパウロが言っているのは、人は神の庇護のもとに日々の生活を営んでいるということになるのかもしれない。そう考える方が自然であろう。我々が耐えられないような試練を神は与えないと聖書には書いてある。やはり、何人であろうとも天の下にある限り、神が守ってくださっているのであろう。
人が溺れていたら…
ある晴れた昼下がり、あなたが川縁を散歩していると…なんとあなたの身近な人と、見ず知らずの人が泳いで…じゃなくて、溺れているではありませんか!「こりゃ、えらいこっちゃ!!」とばかりに、中学校の頃水泳大会に出た経験を生かして、あなたはざぶーんと川に飛び込みました。さて、そこで問題。あなたはどちらを先に助けますか?
「そりゃーやっぱ身近な人を助けるでしょ。」そう答えたアナタは普通の人です。誰でも身近な人を助けたいと思うでしょうね。人として当然です。
「いやいや、まずは他人を助けるよ。」そう答えたアナタは非常に義侠心の強い人ですね。尊敬しちゃいます。えらい!
さて、いずれも人としての行いは正しいでしょうが、どちらも回答としては"不正解"です。
では"正解"とはなんでしょうか?「岸に近い方」だそうです。助かる可能性が高い人の方を助けるというのが人命救助の鉄則らしいです。日本はどうだか知らないけど、アメリカには「この人助かる」「この人ダメ」と区別する専門職"triage"があります。思えば、就きたくない職業ではありますが。
今朝の新聞で見たのですが、政府が災害避難時に老人・障害者を優先するという方針を出しました。社会的弱者を優先して助けるという、その気持ちも分からなくはないですが、果たして政府の方針としての正当性については疑問に思わずにはいられないのです。只でさえ高齢化社会の問題が取りざたされているのに、あえて若い人よりも年寄りを大事にしようとするなんて矛盾しているような気がしないでもない。そりゃー、普段の平和な日常では社会的弱者を守るのは人として当然のことだろうけど、人の生死が関わってくる特殊な状況下ではルールが違うだろうと思うんだよなぁ。将来性のある人を優先させるというのなら納得できるんだけどね。