神の中に生きる
使徒の働き17章。まぁ、当然といえば当然なんだろうけど、使徒たちは実に色々なところへ旅するものである。キリストの福音を伝えるためであるのは分かるが、聞き慣れない地名ばかりで、どの辺りを旅しているのかさっぱり分からなくなってしまう。
さてさて、パウロたちは旅を続けて、ギリシア人たちが多く住む街までやってきた。アリストテレスやプラトンといった著名な哲学者がギリシア人であったように、どうやら学問好きというのが、彼らの性格らしい。そんなわけで、パウロたちが何やら「新しい話」を持ち込んできたことを知るや、ギリシア人の哲学者たちは彼らに「その新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか」と尋ねたのである。
そしてパウロが彼らに語って聞かせたことは「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」ということであった。
もっとも神が天地万物を創造された方であるということは、創世記から始まって、聖書の中で何度も言われていることであるから、何も珍しくもないのである。しかし、今日の箇所で私が面白いと思ったのは「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」とパウロが言っていることだ。あまり見かけるような表現ではない。
それでは一体、人が神の中に存在しているとは、どういうことだろうか?文字通りに人が神の中に存在していると考えると、人間っていうのはまるで寄生虫か何かのような存在になってしまい、なんだかパウロの意図していることとは違うような気がする。確かに創造主である神と比較して、人間というのはちっぽけなものであるが、だからといって寄生虫のように宿主(つまりは神様か)の体を蝕み、おこぼれをちょうだいするような下卑た生き物ではあるまい。そう考えると、ここでパウロが言っているのは、人は神の庇護のもとに日々の生活を営んでいるということになるのかもしれない。そう考える方が自然であろう。我々が耐えられないような試練を神は与えないと聖書には書いてある。やはり、何人であろうとも天の下にある限り、神が守ってくださっているのであろう。