あるキリスト者のつぶやき… -146ページ目

バトン受け取りました

知り合いの右狂さんから「バトン」をもらいました。
うーむ、いまいちよく分からない。これに答えればいいんですよね。
でも、右狂さんと同じく、私も酒は飲まないので、なんとも答えようがないんですわ。


Q1.酔うと基本的にどうなりますか?


飲まない。飲まないから酔ったこともない。
飲むと、必ず眠くなる。眠くなると飲めない…ってな具合なんで。


Q2.酔っ払った時の、最悪の失敗談はなんですか?


だから、酔わないってば。


Q3.その時はどの位飲みましたか?


「その時」ではないけど、ワインをグラス一杯飲むと、あとは続かない…


Q4.最悪の二日酔いはどんな感じでしたか?


飲んだ当初は酔わなかったけど、翌朝頭痛に悩まされたことがある。これが二日酔いっていうのか!?


Q5.酔っ払って迷惑を掛けた人にこの場で謝りましょう。


さすがに人様には迷惑かけてないよね。

迷惑を被った人がいたら、コメントしてね!


Q6.今、冷蔵庫に入っているお酒の量は?


親父が遊びに来た時用に缶ビール一本。


Q7.好きな銘柄は?


「カルーア」って、アレ銘柄か?商品名か?


Q8.最近最後に飲んだお店は?


ビールを一口飲んだだけでもいいなら、新横にある「TAPA」


Q9.良く飲む、思い入れのあるお酒は?


えぇー、そんなしょっちゅう飲まないもん。

その代わり、なんでもだされりゃ、口に一度は入れてみる。

普通は、その一口で懲りて、先に進まない。後は、ひたすら食べるのみ!


Q10.バトンのジョッキを渡す5人は?


このブログを見る人ってあまりお酒を飲まない気がするんだな。
それでも、バトンを受け取りたい人がいたら、是非ともコメントで名乗りを上げてください!

もったいなーい!

しばらく聖書日記を更新していなかったけど、聖書を読んでいなかったわけじゃないですよ。ちゃんと22章、23章、そして今夜は24章を読みました。ちょっと仕事が忙しくて家に帰ってきて、聖書を読んだ後に日記を書くだけの体力がなかったわけさ。「種々雑多」の方は会社で休み時間にこちょこちょ書いて携帯から投稿するからよかったのだけれど、聖書日記は聖書を家で読んだ後でしか書けないんだな。


さて、パウロがエルサレムでユダヤ人たちに捕らえられた後、一部のユダヤ人たちが彼を殺そうと画策していた。ちょうどその知らせが、千人隊長の耳に入ったので、隊長はパウロを保護せんがために護衛をつけてローマ総督のいるカイザリヤの都まで送り届けたのだった。そして、ローマ総督の前でユダヤ人たちとパウロは互いの意見を主張するのであった。まぁ、言ってみればユダヤ人たちが原告側で、パウロが被告側であったのだろう。


原告側の訴えは「ユダヤ人の間に騒ぎを起こしており、神の宮を汚そうとしている」ということであった。そして、パウロの弁護は「それはでたらめである」ということであった。で、判決が出たかというと、そういうわけでもない。なんだかんだで、結局パウロは2年以上も拘束されたままになるのである。


しかし、この総督…実に煮え切らない人物である。2年間にも渡って偉大な信仰者であり伝道者であるパウロと折を見て話あっていたわりに、良くも悪くも何も行動をしていないのである。悪ければ、パウロをさっさとユダヤ人に引き渡したであろうし、良ければ、パウロを保護して、その活動を支えて、自らも信仰を持つに至ったかもしれないが…結局そうもならなかったのである。要するに、話を聞くばかりで何もしなかったのだ。
だからといって、このローマ総督を馬鹿にすることができるかというと、そうもできない気がする。今までの自分の信仰の歩みを振り返ってみても、どこかこの人物と似ているところがあるような気がする。13年間クリスチャンをやってきて、最初の頃は信仰に熱心で、聖書を勉強することも多かったが、やがて時間が経つと、そうすることもなくなり、聖書を漠然と読むだけで「だからどうした?」ってな具合に日々過ぎていくことが多くなった。今でこそ、こうして読んだことを記録に残し、色々考えたり、反省したりしているが、そうでない日々の方が長かったようにも思える。


聖書という神のことばに日々接していながら、それを気にせずに過ごすとは、罪なことというより、勿体ないことと言えるのだろう。聖書という書物は、読む人に対してプラスに働くからだ。

なかなか書けない

一昨日挑戦してみて思ったのだが、物語を書くのって実に難しい。実際、どうにもあれから後が続かない。やはり想像力が足りないのだろうか。エッセイならいくらでも書けるのだけれど、100%の創作ってやはり難しい。何の手掛かりもないから、途中から何を書いていいのかさっぱり分からなくなるのだ。たしかに、作中の人物に物語を展開させるっていうのは重要だろうけど、作中の人物が中途半端な状態では展開のしようがない。

そこで、アプローチを少し変えてみようかと思う。完全なる創作ができないのであれば、自らの実体験や知識や考えや思いを土台として書いてみてはどうだろうか。これならば、多少のヒントも得られるし、書きやすくなるだろうと思う。私は歴史小説が好きなわけだが、それらの作品は史的事実に基づいており、書くためには事前の調査なり勉強なりが必要であろう。むしろ、そうすることが大事なのかも知れない。物語の土台が完成されたその時こそ、作品そのものに物語を展開させることができるのかもしれない。

…奥が深いものだ。

ひとまず、今の私の目標は書き続け、とにもかくにも完成させることにある。書き始めても途中で頓挫してはもったいない。また、どんなものでもひとまず書き上げれば、そこに良かれ悪しかれ何らかの物語が残るのである。まずは何かを残そう。

私の挑戦はまだまだ続く。

あったらいいな、なかったらいいな…

最近、私の勤め先で「新商品の企画」というネタがミーティングやら社内向けホームページの掲示板で取り上げられている。要するに「こんなものがあったら便利だろうなぁ、あったらいいなぁ」ということを考えていこうということらしい。もっとも今の私の会社で新商品なんか作れるわけないから、将来に備えて発想力だの企画力だのを鍛えようって気持ちがあるのだろう。

ところが、広い世の中、自分の周りを見回してみると「あったらいいいなぁ」と思えるモノよりも「なかったらいいなぁ」と思えるモノの方をたくさん見つけてしまうのである。

例えば最近の高機能な携帯電話。携帯なんて通話とメールができれば十分じゃないか。携帯で写真を撮るとか、音楽を聴くとか…はっきり言って無駄な機能としか思えない。そんな機能いらないから、端末を安くするとか、バッテリーの持ちを良くするとかして欲しい。

それに「電子辞書」もいらない。こんなモンに頼っていたら人間、辞書を引かなくなってしまう。辞書って意味を調べるだけのものじゃないと思うんだよね。目的の言葉を探して、その途中で関係ない言葉をみつけて、それに興味をもって、さらに知識を深めていく。知識を深めるためのモノだと思うんだよな。

話を大きくしていくと「国際宇宙ステーション」もいらない。あれって、何のために存在しているのかいまいち分からない。先進各国が莫大な時間と予算と人材を犠牲にしてまで、あれほど存在意義の不明確なモノを作り上げていることを考えると、人間の英知より愚かさの方が見えているような気がする。なんだね、結局自己顕示欲なのかね。宇宙に進出する以前に国家としてもっとやるべき事は沢山あるんじゃないのかって思う。

それに「小学校英語教育」なんていうのもいらない。だいたい、なんで小学校から英語を学ぶ必要があるんだ?それより大事なことが沢山あるだろうに。まずはガキどもに常識と社会のマナーを教えるのべきだろ。もっとも、本来ならコレは家庭が教えるべきことなんだろうけど、どうも家庭でそれを教えるところは少ないようなんで、学校でもやるべきである。それに学問を教えるならまずは母国語を優先させるべきじゃないのか。

どういうわけか、私の価値観は世間の基準とずれてるような気がする…

津本陽「雑賀六字の城」

津本陽の「雑賀六字の城」を読んだ。この本を読んだきっかけは、ちょっと前に読んだ司馬遼太郎の「尻啖え孫市」 と、同時代同郷の人物について書かれていたから興味を持ったからである。どちらの作品でも雑賀衆の兵士としての強さが書かれている。実際によほど強かったのだろう。信長との決戦の後、雑賀の兵士らがどのような道をたどったのか、興味があるので、いつかどこかでその辺についても読んでみたいものだ。
彼らの強さの秘密はなんだろうか。確かに、当時最新であった鉄砲(火縄銃)だの大砲を持っており、それらの武器を扱う類い希な才能があったからであろう。海に面していたから、操船の技術も巧みであり、水軍としても優れていたという。
しかし、それらが彼らの強さの秘密であったかというと、そうでもなさそうだ。やはり彼らの強さは、彼らの浄土真宗の門徒としての信仰心であろう。ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀如来を信じることで、死後極楽浄土へ行けるという確信があったからである。死後の不安も恐れも彼らにはなかった。同郷の者同士、同じ信仰の元で戦う彼の前に、高名と将来の栄光のために戦う信長の軍勢は、数の上では大いに勝っていたにもかかわらず、なかなか勝利を納めることができなかったという。最後には和睦という形をとることで戦は終わったのであった。
信仰する対象に違いこそあれ、信仰というものは良くも悪くも死をも恐れぬ人を作り出すということは、いつの時代でも、どこの場所でも共通なのであろう。