復活!!
ブログを見ようと訪問して下さった皆様、なかなか更新できずにすみませんでした。さぼってたわけじゃないよ。なぜ記事が投稿できなかったかって言うと…
20日の朝起きたら気分が悪かったんで、しばらく休んだ後、結局遅刻しながら会社に行ったら、ますます気分が悪くなって…世界がふにゃふにゃ、雲の上を歩いているような気分になって体が火照ってしまい、挙げ句に食事する気も起きないという有様。結局午後2時に早退。どうにかこうにか家に帰って、ベッドで倒れ込むように休んでいると、幻覚幻聴…とまではいかないけど、脳が妙に興奮して頭の中で「変数」がダンスを始めてしまい、休もうにもなかなか休めず。気になったもんで体温計を取り出して熱を測ってみたら、39度もあるじゃないですか!そりゃ頭がフツーじゃなくなりますって。
そのまま翌21日も家族で出掛けるはずだったけど、すべての予定をキャンセルして一日休養。医者は当然やってないので、以前風邪ひいたときにもらった解熱剤を服用することで、なんとか夜には37度台まで戻る。(ちなみに私の平熱は36度台前半です。)そして、この二日間腹痛と下痢に悩まされ続ける。
翌22日、やっと熱は36度台後半まで治まったものの、腹痛&下痢は改善の様子が見られず、仕事を休むことに決定。そして、出勤する代わりに、医者に行く。結果、今年流行の「お腹の風邪」(ウィルス性腸炎)の疑いありとの診断を受ける。結局その日も整腸剤を飲んで、家で一日おとなしく過ごす。まだブログを更新するだけのパワーさえ出ず。
翌23日には、腹痛も一段落し、熱も平熱まで戻ったこともあるけど、何よりこの日は大事な業務があったので、多少無理してでも出勤。作業の内容を考えると、定時には帰れそうな予感がしたんだ。電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、当日の作業現場である東京の某所まで無事に辿り着く。…が、甘かった(T-T)…作業が一段落したの夜の11時。病み上がりでこの時間は死にそうである。と思うかもしれないけど、ショック療法というか何というか、体力的には問題なかったので感謝。帰宅したのは夜中の1時ちょい前。
というわけでした。
ちなみに今日はどうだったかというと…休んだ分の作業+納品準備+突然の作業依頼+お客さんと打ち合わせが絡み合って、またまた忙しい一日だったのでした。あ、でも、夜は2005年度年度末打ち上げ兼2006年度新人歓迎会があったので早くに会社は出れたけどね。それはよかったかな。ちなみに司会を務めたんだけど、緊張しやすくてたまーに言葉が出てこないことがあった。まぁ、それなりに楽しく過ごせたからよかったけどね。あまり飲み食いできなかったのは残念でした。結局2次会まで行ったので、帰宅時間は昨日と同じになってしまいました~(^-^;
無事に全員、上陸する
ローマ皇帝カイザルに上訴したために、パウロはイタリアへと護送されることになった。彼は他の囚人、兵士、百人隊長、水夫、弟子と共に船に乗り込んだ。航海の途中、パウロは旅の危険について警告するのであったが、さすがにパウロに好意的であった百人隊長ユリアスも、この時ばかりはユダヤの教師であるパウロよりも、船と海に精通している航海士の意見を優先させたのであった。残念ながらユリアスは、パウロを「善い教師」としか思っていなかったようである。航海の危険を告げたのはパウロであるが、その知識をパウロに伝えた存在については気付いていなかったようである。
さて、パウロが警告したように、彼らは暴風に巻き込まれ、「太陽も星も見えない日が幾日も」続いたのだった。当然ながら、人々は望みを失い始めたのだった。しかし、そのような状況であっても、パウロだけは望みを失わなかったのである。なぜなら、パウロは神の御使いからこのように告げられていたからだ。「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」この航海ではどのような危険が起こっても、誰も命を失わないことをパウロは確信していたのである。
やがて船はどこかの浅瀬に辿り着いたのであった。囚人が逃亡することを恐れた兵士たちは、囚人を殺そうと考えたが、なんとしてもパウロを助けたいと思ったユリアスは兵士たちを押さえ、全員が船から逃れることができるようにしたのである。
そして全員、無事に陸地に上がることができたのだった。
パウロひとりのために、その場にいた全員を神が助けたのである。パウロと使徒だけを助けることもできたのであるが、神はそれ以外の人々をも助けたのだった。神の慈悲深さとでも言おうか。すべての人々が救われることを望んでいる神はむやみに人を滅ぼすようなことはなさらないのである。
もしかしたら、パウロが乗船していた船の全員を救ったように、今でも同じようにして、神は人々を守っているのかもしれない。人がそれに気付かないだけで。
目は口ほどに…
使徒の働き26章を読みました。あと2章でこの書も終わりだな。さて、次はどうするか。
さて、囚われの身となったパウロはローマ総督の計らいで、ユダヤの領主アグリッパ王の前で自らの話をする機会を与えられ。彼は、自分が如何に熱心なユダヤ教の教えに従い、クリスチャンたちを迫害していたかを語り、そしてそのような自分がなぜ今は反対の立場にいるのかを説明した。そして、今、自分はエルサレム、ユダヤ地方、その他の諸地域に住んでいるユダヤ人たち、果ては異邦人たちにまでキリストにある救いについて述べ伝えていると話した。
それに対するアグリッパ王の反応は、どちらかというと否定的なものであった。王はパウロに対してこう言ったのである。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」
パウロはそれにこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
つまり、パウロは自分の話によって、人々が彼と同じようにイエス・キリストを信じるようになることを望んでいるだけなのである。アグリッパ王が言うように、確かにパウロが語ったことはわずかな言葉であったのかもしれない。おそらく弟子の中でも正式な教育を受けて、一番高学歴であた者はパウロであっただろう。ペテロに至っては、漁師でしかなかった。それを考えると、パウロは相手を説得しようと思えば、あれこれ様々な話をして相手を説き伏せることができたであろう。しかし、そうすることを彼は望んではいなかった。つまり、信仰というのは、人から説得されて持つようなものではないということなのだろう。確かに、人からある程度のことを聞かされることは必要であろうが、だからといって、人に信仰を押しつけるわけにはいかないのだ。押しつけられたり、説得させられたりしては、本当に信仰を持つことは難しいだろう。なぜなら、信仰というものは、自ら進んでキリストを受け入れることによってのみ、得ることができるからだ。
クリスチャンとして、人にキリストのことを伝えるのは重要であるが、多くを語り過ぎたり、相手を説き伏せようとすることのないように気をつけたい。それよりも大切なのは、自分自身が信仰に生きることだろう。「目は口ほどにものを言う」と言うではないか。
ヨハネの福音、19日分下書き
またまたこんな時間。これからまとめにはいります。
エルサレム郊外のベタニヤという村に、イエスを信じていたマリヤとマルタという姉妹がいた。そして彼女たちには、ラザロという兄弟がいた。ラザロはこの時、重い病に冒されており、よもや長くは持つまいと思われていた。これを心配した姉妹は、イエスのところに使いを送った。ラザロのことを癒やしてくれるだろうと期待していたのであろう。「イエス様の愛しておられる兄弟が病に苦しんでおります。」との言葉を届けたと言うことは、おそらくラザロも以前にイエスに会ったことがあり、お互いに親しい間柄であったのかもしれない。そんなわけで、イエスがすぐに駆けつけてきて、彼の上に手を置いて祈り、彼を癒やしてくれるものだと、姉妹たちも期待していたのかもしれない。
ところが、イエスはすぐには動こうとしなかった。伝言を受けたのち、二日も今いる場所から動かなかったのである。これだけを考えてみると、イエスというのは意外にも薄情な救い主に思えてしまう。おそらく自分では助けを求めることができないほどに重症の患者を心配したその家族が、医者のところに助けてくれと懇願しに行ったにもかかわらず、医者が重たい腰を持ち上げないのと同じようなものである。これだけも、医者の資質を疑われてしまうが、さらに残酷とも思えることは、その患者が実は自分の友人なのである。医者でなくとも、友人が苦しんでいたらなんとかしてやりたいと思うのが普通であろうが、それでも、イエスは動かなかったのである。そう考えると、イエスは思いのほか冷淡な一面を持っているように思えても当然であろう。普通の人間の情を考えると、このようなことはありえない。しかし、忘れてはならないことは、イエスは普通の人間ではないということである。いや、神の子であるイエスは人間であるだけでなく、また同時に神でもあるのだ。だから、我々が理解できないことがあったとしても、それはむしろ当然なのである。なぜなら、神は我々の理解と想像を遙かに超えているお方なのであるから。
そして、このときのイエスも密かに考えていることがあったのだ。それを意味するかのように、こう言っている。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」
そして二日後、弟子たちに再びユダヤに行くことを告げたのだった。弟子たちは驚いたことだろう。ユダヤに行けば彼を妬んでいる指導者たちに捕まりかねないのに、なぜ危険を冒してまで出掛けていく必要があるのか不思議に思ったのかもしれない。どうやら、この頃には弟子たちもラザロのことをすっかり忘れていたようである。もし、覚えていたなら、きっとこう答えたことだろう。「わかりました。あのラザロという青年を助けに行くのですね。お供いたしましょう。」しかし、実際に彼らの口から出た言葉は違った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
イエスは彼らに答えて言った。「私は眠っているラザロを目覚めさせに行かなければならないのだ。」
思い出したように弟子は答えたのだった。「眠っているのならば、彼は助かるのですね。それはよかった。」
「違う。ラザロは死んでいるのだ。私がすぐに彼のところに行かなかったのは、これから起こることをあなたがたが見れるようにである。さぁ、ラザロのところへ行こう。」
死人のところへ行くと聞いた弟子の一人トマスが興奮して言った。「では、我々も先生と一緒に死のうではないか。」
彼らがマリヤとマルタのところに着いたときには、すでにラザロが死んでから、墓に埋葬されてから四日も経っていた。姉妹たちは悲しみに打ちひしがれていた。
祝・初活字!
外はすごい天気が荒れている…
さてさて、ちょっと(1ページ相当)であるが、私が原稿を書かかせてもらったキリスト教系の雑誌が刷り上がったのである。ほほぉ、なんというか自分の書いたものがこうしてちゃんとした雑誌(つまり第三種郵便物として認可されているもの)に載っているのを見ると、嬉しいとか、感動とかっていうよりも、照れくさくなるね。今、手元にその雑誌があるんだけれど、肝心の自分のページをまだ読んでいない。人に読まれるのはいいとしても、いざ自分で読むとなると…ひいてしまうよ(笑)
結局9月号まで担当させて頂くことになった。これからも面白く、そして中身のあるものを書いていくように心がけたい。あと、あまり長くなり過ぎないようにも気をつけないといけないね。4月号、5月号はちょっと長かったらしいので…。すみません。6月号の原稿は提出して、あとは今月末に7月号の締め切りが待っている。ちゃんとやらないとな。
ちなみに何を書いたのか興味がある方は、是非とも「ちから誌」を読んで下さい。ちょっと宣伝(^-^;