今日からローマ人
ってなわけで、今日からローマ人への手紙。私はアメリカにいる頃、「ローマじん」への手紙と読んでいて、他の日本人クリスチャンの方に「ローマびと」と訂正されたことがある。んなこと言ったって、ずっと英語で聖書読んでいたんだから、分からないってば…(^-^;
まだ、この手紙の背景については見ていないが、ひとまず読んで行こうと思う。どうやら、ローマに住む信仰者たちに宛てて書かれた書簡のように思える。ということは、まだパウロがローマに来る前の話かもしれない。
読んでいて印象に残ったのが、12節「あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」という箇所かな。
信仰なんていうものは、神様と自分の間の関係がしっかりしていれば、それで十分ではないか、と思うことがある。そう考え始めると、なんでわざわざ日曜の朝に重たい腰を持ち上げて教会に行かなければならないのだろうか…と不謹慎というか不信仰なことを考えてしまうのである。そう思うのは私だけだろうか?要するに教会に行くよりも、だらだら休んでいたいというだけで、わがままなだけなのである。神様と自分の関係さえしっかりしていれば十分というのは、自己弁護であるにすぎないのではないか。
しかし、パウロの手紙を読むとそうでもなさそうな気がする。互いの信仰によって互いを励ましあう…それが信仰のあるべき姿なのかもしれない。神と自分自身との縦の関係も必要であるが、さらに信仰者同士の横の関係も大切なのだろう。それは常に互いを支え合うものなのだろう。
桜、華やぐ
じっと見つめるわけではなく、電車が通り過ぎるわずかな瞬間であるが、それでもその美しさを鑑賞することができる。まことに桜の花というのは、この季節に彩りを与えてくれる。この時期に花を咲かせる植物は数多くあり、たしかにそれぞれが独自の美しさを持っているのだが、桜には他の花にない独特の雰囲気を持っているような気がしてならない。
それは、桜の花の命の短さとでも言おうか、あっという間に容姿を変えていく鮮やかさとでも言おうか…。冬が終わり暖かくなり、蕾がふくらんできたかと思うと、あれよあれよと言う間に薄桃色の花を咲かせる。それから間もなく、晩のうちに吹いた風で花片の多くが散らされてしまうのである。そして丸裸にされてしまった桜の木から今度は青々とした若葉が茂るのである。移りゆく姿の中に華やかな瞬間がわずかにある。わずかであるが故に、その美しさが一層際立つのかもしれない。
私の人生、華やぐのはいつのことだろう…。
ぼんたん?ぶんたん?
職場の同僚に「文旦」を頂いた。会社の机の上で朝から、柑橘系の爽やかな香りを放っていた。まったくSEという殺伐とした仕事をしているだけに、自然の果実が放つ香りというのは、実に心癒やされるものである。
さて、家に帰ってきて奥様に「ぶんたん、頂いたよ」と伝えると「ぶんたん?ぶんたんって??」と返されてしまった。「だから、ぶんたんだってば。ほれ」と袋を渡すと「あぁ、ぼんたんね」と言われてしまった。「文旦」と漢字で書くから、すっかり頭の中で「ぶんたん」となってしまったのである。言われてみれば「ぶんたん」なんてあまり聞く名前じゃないよなと思った。たしかに「ぼんたん飴」とは言うけど、「ぶんたん飴」とは言わない。
ふと気になったんで、辞書をみると…なんと「ぶんたん」のが正式な言葉らしい。「ぼんたん」とはあくまでも「ぶんたん」の音変化したものらしいということがわかった。日本語っていうのは難しいものだ。ともあれ、文旦は今も甘酸っぱい爽やかな香りを放っている。明日の朝食時にでも頂こう。
パウロ、ローマに着く
なんとか食欲を除いては本調子に戻る。食欲は…もしかしたら、このままの方が良いのかもしれない。腹八分目って言うモンな。だいたい、今までが食べ過ぎだったんだよな。だから太るばかり…
さて、本題。風邪をひいたり、仕事が忙しかったりで、なかなか使徒の働きの最後の一章に辿り着けませんでしたが、やっと読み終わりました。
囚人であったパウロが乗船していた船が嵐に巻き込まれて難破したものの、奇跡的に全員が無事にマルタと呼ばれる島に上陸することができた。島の人々は彼らに親切であったという。さて、彼らが火をおこそうとしていると、まむしが一匹出て来て、パウロの手に噛みついたのであった。それを見た島の住人たちは「きっとこの人は人殺しに違いない」とささやきあったのだが、パウロが何ともない様子を見ると、今度は「きっとこの人は神様に違いない」と言い出したのである。それにしても、この態度の変化はなんとも滑稽に思われる。しかし、人の見る目なんて、所詮このようなものなのだろう。つまり、その場の状況で判断を簡単に下してしまい、大きな目で物事を見ないということだ。クリスチャンといえども、同じような過ち…とまでは行かなくても、同じクリスチャンに対して、そのような思いで目を向けることがあるのではないだろうか。異言で祈るからあの教会は怪しい…賛美歌しか歌わないから霊的に死んでいる…人というのは自分の価値基準でその時の状況だけを見てあれこれ判断してしまうものではないだろうか。気をつけたいことだ。
ところで、島に滞在している間、パウロは人々の病を癒やすこともあり、人々から大いに尊敬されたという。やはり、大事なことは信仰者として私たちがどのような行いをするかであろう。
さて、三ヶ月ほど島に滞在した後、彼らは再びローマへ向けての旅を続けたのであった。その航海は無事に終わった。ローマの地でかれは2年間の間、自由な生活を続け、福音を述べ伝えたのである。
明日からはパウロの書簡を見ていくとするかな。パウロの生き様、パウロが伝えようとした福音…いろいろと見えてくるかもしれないから。
池波正太郎「忍びの旗」
最近は幕末を舞台にした作品より、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康と天下を取る人々がころころと変わる、戦国時代を舞台にした作品を読むことが多くなったと思う。趣向の変化ではないけれど、一度、ある時代の話を読むと、なんとなくその時代が気になってしまうのだ。ただそれだけのことである。
今回の作品はタイトルが示すとおり、忍びの者が主人公である。この男、忍びであるにも関わらず、どこか妙に人間臭いのである。そこがまた好感が持てるところなのであるが。身分を偽ってある家中の武家の家来となって、その様子を探ることになるのだが、そこの娘と恋に落ち、結局子供までができてしまい、結婚することになるのだ。まぁ、今で言う、できちゃった婚。ところが、本気で相手の家族に好意を持ってしまうのである。忍びの頭領から、結婚相手の父親を討つように言われるのだが、それを無視して逆に命を助けてしまい、今度は我が身がかつての仲間であるはずの忍びに命を付け狙われることになる。しかも、命のある限りであるから、半端ではない。
さて、詳細はこれから読む人のために語らないでおくが、物語の展開が小気味良く、読んでてわずかな飽きもこないので、読んでて面白い作品であった。人には相応の身分、立場、役割というものがあるだろうが、何よりも大切なのは人としての思いであったり、気持ちであったりするのだろうと考えることができた。