善人とは程遠い私
家に帰ってきたら揚げたての唐揚げが台所に…奥様は子供寝かしつけて一緒に寝てしまった模様。こりゃ、食うしかない。やっぱ唐揚げってうまいよな。もう一個食いたいけど、我慢するか。
さて、お腹も満足したところで、今日はローマ書3章を読んだ。
なんか読んでいて思ったんだけど、ローマ書って「(神の)義」ってのがキーワードのような気がする。今日読んだ3章にも、その言葉が何度も出てくる。例えば22節から24節。「 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ちなみに前後の21節や25節、26節にも同じような言葉がでてきているのだ。ここまで書かれてしまうと、パウロが何を言いたいのか分かってくるような気がする。
それをまとめているように思えるのが28節。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」
義なる神に認められるのは、私たちの行いではないということだ。いくら私たちが善行を積んだとしても、神が私たちを見て「これは善い人だ。是非とも天国へ入れてあげよう。」などとは言わないのである。それは前にも書いてあるように「すべての人は、罪を犯した」からである。その時点で、天国に入る資格を失ったのである。百、千、万、億…いくら良いことをしても、たった一つの汚点をぬぐい去ることはできないのである。なぜって、神は完全に汚点のない方だからだ。それに、汚点が一つだけの人間なんて、まずいないだろう。クリスチャンの私にしたって、しょっちゅう人に腹を立てたり、不平や文句を言ったり、どこから見たって素直で純朴な人間ではないのである。
だから、行いによって人は義と認められないのである。
でも、人は信仰によって義と認められるのだ。では、何を信仰すればいいんだろう。それは「キリスト・イエスによる贖い」なのである。なぜって、キリストの贖いだけが、人を神の前において義とすることができるからだ。それを信じることで、神は私たち人間を善しと認めてくれるのだ。
こんな私でも義とされる、神の恵み、キリストの贖いに感謝することを覚えていきたい。
言葉と文字と書物と
言葉ほど優れたものはこの世に存在しないと思う。言葉は人類が今までに生み出したもっとも素晴らしい発明であろう。言葉があるからこそ、人は互いに意思の疎通が図れるのだ。言葉の存在のその裏には、その言葉を発した人の思いや気持ちや考えがあるのだ。これって、すごいことだと思う。極端な言い方になってしまうかもしれないが、言葉というのは人の分身であるとも言えよう。
また、私は文字の力も信じている。
なぜなら、言葉を表現するためのものだからである。文字とは言葉の次に優れた発明であろう。文字が持つ力で一番大きなものは、時代を超えて、場所を越えて、言葉を伝えてくれるところにあると思う。
そして、書物の力。
文字が集まったものが書物である。文字の次に優れた発明ではないだろうか。言葉が文字となり、文字が書物となり…。そして目に見える形となって、人の思いや考えといったものが、いつの時代までも残るのであろう。ブログでこんなことを書くのもなんだけど、メールやインターネットといった、薄っぺらなメディアは、とても書物に及ばないだろう。
しかし、如何に技術が進歩しようとも、書物はいつの時代でも存続するであろうことを、私は信じている。
天に向けられた指
やっと辿り着きました。ローマ書2章。
出端を挫くかのような1節の言葉。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」
人を指さす時、一本の指は相手に向けられているが、3本の指は自分自身に向けられ、1本は天に向けられていると聞いたことがある。
忘れてはならないのは、人を裁こうとする自分自身が、実は裁かれるに値する者であるということだ。私はクリスチャンである。でも、クリスチャンであるということと、義人であるということはまったく別である。いや、むしろ義人でないからキリストを受け入れたのである。そのような私に人を裁く権利があるだろうか。答えは明白である。私に人を裁く権利なんか少しもない。相手を非難する思いは、そのまま自分を非難することにつながるのだ。
また、人を裁くことは、その人を愛する神の気持ちを忘れていることではないのか。神はすべての人を愛しておられるのである。善人だから愛する、悪人だから愛さない…神はそのような分け隔てをする方ではないのだ。そのような区別をつけるのは、所詮、人の思いや気持ちや考えといったものでしかない。神の愛の深さというのは、まったく人の理解を超えたものであることを忘れてはなるまい。そのような神を差し置いて、人のことを裁こうとするのは、これはまさしく越権行為であろう。
もっとも、治安秩序を維持するために犯罪を裁くための司法制度は必要である。しかし、それはあくまでも法が裁くのであって、人が裁いているわけではない。
人は人を裁いてはいけないのだろう。しかし、それは本当に難しいことである。口に出すことがなくとも、私の胸の内では他人を裁こうとする気持ちがあるからだ。まだまだ、私は足りない者である。
学生時代を思い出す
今日は朝から牧師と教会に通う女の子と一緒に、御茶ノ水(御茶ノ水クリスチャンセンター)へ出掛ける。御茶ノ水駅の水道橋口から出たら、駅前に楽器屋がたくさんあるのにびっくり!色々見てみたいなぁと思いつつも、今日はそれを見に来たのではない。いや、楽器に詳しいわけじゃないけど、興味があるのだ。最近はギターよりもっぱらドラムであるが…。マンションじゃなければ、ドラムセットを買いそうな勢い(笑)でも、マイスティックを買うだけにしておこう。さてと、ここはひとつ、ドラムでも極めてみようかな~(汗)
なんか話が逸れたけど、牧師と私が卒業した学校Northwest University
(私たちが通っていた頃はCollege、つまり単科大学であったが、今はUniversity、つまりフツーの大学に成長したわけだ。)が説明会を開くというので、卒業生ということで参加することになったのだ。もっとも説明会といっても話を聞きに来た人たちと卒業生と学校から来た方々の比率が同じくらいだったので、始終和やかな雰囲気で話が進んだ。その後、みんなで食事に行って、結局3時くらいまで色々と話をしてきたな。ProvostのDr. Heugelという方の隣の席になったので妙に緊張してしまったけど。どうも私は社会性に欠けているようで、その辺は反省…。
色々と学生時代の頃が思い出された。思えば、あまり真面目な学生ではなかったな。今振り返ってみれば、実に勿体ないことをしたと思う。もう少し真面目にやっておけばよかったなと思うが、今となっては後の祭りである。やり直せるなら、もう一度勉強しなおしたい気分である。いや、大学院で真剣に勉強しなおしたいなぁ。いつかそのような機会が与えられたらと願わずにはいられない。
成せばなる…
今、藤沢周平の「漆の実のみのる国」を読んでいる。
「成せばなる 成さねばならぬ なにごとも 成らぬは人の なさぬなりけり」
誰でも一度は聞いたことがあるであろう、有名な言葉である。困窮する米沢藩の立て直しに尽力した元藩主上杉治憲(鷹山)公が隠居した後に、跡を継いだ藩主上杉治広に伝えた言葉である。この言葉は後の藩主にも伝えられたという。そして、今の時代でも人々の耳にするところにあるのだ。
それだけに、実に良い言葉だ。戒めを感じると同時に、励ましも読み取れる。行動をおこなさなければ、人は何も成し遂げることができない。夢と希望を追い求めるなら、それを実現するために行動するべきだろう。何もしなければ、そこからは何も生まれない。何も生まれないのは、人がいけないのでもなく、状況がいけないのでもなく、何もしない自分がいるからだ。求めるものが分かっているのなら、行動に移そうではないか。
さて、続きを読みたいけど、会社に本を忘れてきてしまったよ。とほほ…。