あるキリスト者のつぶやき… -140ページ目

まったり日曜

今日は何となくのんびりとした一日を過ごせた。なんだかんだで、一日教会にいたな。礼拝後にドラムの練習をして、牧師とちょっくらお話をして帰ろうと思ったけど、結局英語礼拝まででてしまった。久しぶりに英語で賛美をして、メッセージを聞けたので、心がリフレッシュされた気分になった。感謝なことに、今月から英語礼拝の時間が早まって、4時半から6時までになったのである。おかげで、家族揃って参加することができるので、本当に良かったと思う。いつかアメリカに行くことも考えて、妻と子に英語に少しでも慣らしておかねばw


さて、私は役員なので、今朝は礼拝の司会の当番だった。シャイ(?)な私は人前で話すのが苦手であるが、礼拝の司会だけはなんとかこなせるのである。不思議なものだ。やはり神様が助けが下さるからだろうか。司会の時に、私が読んだ聖書の箇所は次の通り。(ちなみに私の教会では、礼拝を始めるときに読む聖書の箇所は司会が決めることになっている。)


その日、あなたは言おう。

「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
その日、あなたがたは言う。

「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。

御名があがめられていることを語り告げよ。
主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
イザヤ書12章


詩篇から読むことが多いけど、今日は珍しくイザヤ書から読んだ。いや、読むように導かれた…という方がいいかな。模範的なクリスチャンじゃない私が適切な箇所を自力で選べるわけがない。


「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」か…。もっと神を信頼していけば、文句とか不平とか愚痴とか、ネガティブなことを言うことはなくなるんだろうなぁ。まだまだ、未熟な信仰である。

13年目に気付いたこと

久しぶりに学生時代に使っていたNIV Study Bibleを出してきた。表紙は傷だらけでぼろぼろ。背表紙なんてすでに本体からはずれてどこかへ消えているという具合だ。中には学籍番号が書いてあったり、メモが書いてあったり…。


Study Bibleを眺めつつ、あの頃の気持ちに戻って、今一度聖書をじっくりと勉強することができたらいいなぁと思った。いや、そうしていきたい。


他にも2冊ばかり学生時代に読んだ本を探し出してきた。帰国する前に、ほとんどの本を古本で売ってしまったけど、どうしてもと思えるのは残しておいた。思えば、本は一生の財産になるのに勿体ないことをしたものだ。考え方がある意味、未熟であったのだろうなぁ。


やはり私が一番熱意を感じるのは聖書なのかもしれない。クリスチャンになって13年。今頃になって、やっとそのことに気付いた気がする。

毎週金曜の夜は

エッセイを書くことで費やされているような気がする。しかし、今日はどうもうまく書けなかった。まぁ、こんな時もあるかもしれないな。これからもう一度、見直してみよう。

イエスがベタニヤにいることを知った指導者たちは、イエスやラザロの口を封じてしまおうと、彼らのところへやってきた。彼らがイエスを憎んでいたのは、かなり前からのことなので驚くことはないが。彼らはラザロをも殺してしまおうと企んでいたのである。ラザロが死からよみがえったことで、多くの人々がさらにイエスに従うようになったからである。それほどまでに、ラザロの蘇りと、それについてラザロが語ったことが、人々に影響を与えたのだった。しかし、ラザロにしてみれば良い迷惑である。せっかく命を再び得たというのに、また命を奪われてしまってはたまったものではない。しかし、イエスとは直接に関係ないラザロまで狙うとは、彼らもよほど切羽詰まっていたのだろう。
さて、その翌日、過ぎ越しの祭りのために、イエスと弟子たちは、再びエルサレムへとやってきた。さて祭りのために集まってきた群衆は、イエスが自分たちと同じようにエルサレムに上ってくることを知ると、大騒ぎであった。イエスは驢馬の子を見つけると、その背にまたがり都へと入ってきた。人々は棕櫚の葉を手にして集まってきた。やがて、ラザロの蘇りを目にした人々は、その知らせをさらに広めたために、ますます多くの人々が集まってきた。律法学者たちはそれを見ると、互いに言った。「見なさい。すでに我々の手に負えない騒ぎになっているではないか。世界中が彼の後に従っているではないか。」
さて、エルサレムにはギリシア人であったがユダヤ教に改宗した人々が何名か滞在していた。彼らもイエスの噂を聞くと、弟子の一人であるピリポに是非ともイエスというお方にお会いしたいと願いでた。さて、相手が異邦人であったので、彼もどうしていいのか悩んだのだろう。アンデレに相談しに行くと、結局二人でイエスのところにギリシア人たちの要求を伝えにいった。
「先生、ギリシアから来た人々が会いたいと言っていますが、どうしましょうか?」
それを聞いたイエスはこう答えた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。…」
恐らくアンデレもピリポも、またそこに居合わせた人たちもイエスが何を言っているのか分からなかったであろう。幸いにも私たちには聖書があるために、イエスが何を言わんとしているのかを知ることができる。これは、イエスが自分の死を示して語ったことなのである。
全知全能の神の子であるイエスは、望むのならば死を味わうこともないのである。彼自身も神であるから、命に限りのある人とは違い、そもそも死ぬ必要などないのである。しかし、彼は死ぬことを受け入れようとしていた。その理由がここに書かれている。キリストが死ぬことは、すなわち豊かな実を結ぶためであると。それでは、豊かな実とは何であろうか。
私は農家をやっているわけではないし、生物学を学んだわけでもないので、麦について詳しいことは分からない。ある程度は想像しないといけないが、少なくとも麦の写真を見る限り一本の茎に数多くの麦の実がみのっているように見える。つまり一粒の麦が地に落ち、芽を出し、根を張り、成長し、何十倍もの実を結ぶのである。豊かな実とは、すなわち数多くの新しい命のことではないだろうか。イエスの死によって、多くの命が生まれるということなのだろう。

裏切り者は誰か

今朝の新聞に面白い記事が載っていた。

数年前に発見された、紀元3世紀頃の物と思われる「ユダの福音」の写本がこのたび修復され解読されたということだ。聖書を勉強する者としてきわめて興味深い。出版されたら読んでみたいものだ。

さて、新聞に書かれていた内容にによると、「ユダの福音」にはイエスがユダに自分を指導者たちに引き渡すように命じたというようなことが書かれている。その理由は、ユダがイエスの本質を見抜いたからであり、他の弟子より優れていたから、イエスを指導者に引き渡す役目を与えたという。どうも他の福音書とは様子が違うので、異端視され2世紀に禁書になったという。

しかし、禁書になったとは当時の人々の考え方に触れるというのは、それはそれで興味深い。

さて、ユダが実はイエスを裏切ったのではないという説が出てきたことで、それがキリスト教的信仰にどのような影響を及ぼすだろうかと考えてみた。しかし、あまり考えることもなく簡単に結論に辿り着いたのである。ユダがイエスを裏切ったかどうか…はっきり言って重要ではない。どちらかというと、それは些末事に過ぎない。キリスト教信仰の中心となることは、イエス・キリストの十字架での死なのである。それを忘れてはなるまい。

それにイエスを裏切ったのは、ユダだけではないということだ。確かに、ユダは金銭に目がくらんで、イエスを指導者たちに売り渡したが、考えてみれば他の弟子たちにしても群衆たちにしても、イエスが捕らえられた時に、イエスを見捨てて逃げ出したではないか。ペテロに至ってはその後、イエスのことを「あの人のことは知らない」とまで否定しているのだ。数日前にはイエスを歓迎した群衆たちも、十字架を背負うキリストに唾を吐き罵声を浴びせるのであった。

そして、私たちにも似たようなところがあるのではないだろうか。いくらクリスチャンであると言ったところで、キリストを顧みないことが時にはあるかもしれない。それを考えると、ユダが裏切ったかどうか…小さなことにしか思えない。

喜びの理由

なんか一晩でランキングがずいぶんと上がってしまった。ついでに訪問者も倍に増えている。まぁ、増えたと言っても、ここ最近一桁だったので、それが二桁になっただけであるが。なんでかなぁ。もしや「六本木ヒルズ」というキーワードがヒットしたのか!?などと考えてしまう。もしそうだったら、今夜もヒットするだろう。


が、私が書きたいのはヒルズのことではない。聖書のことである。というわけで、今日は昨日に引き続きローマ書の5章を見ていこう。今日は2節から~なんて言うとまるで牧師である。


2節から5節には、私たちが喜ぶ理由について書かれている。いや、喜ぶといっても本当にここに書かれていることで、私たちが単純に喜べるかというと…そうでもあるまい。クリスチャンとは言え、やはり人間であるから、素直に喜べない時があろう。でも、ここに書かれていることは、私たちが「なぜ喜んでいることができるのか?」という問いへの答えを示しているような気がする。この答えを知ることは、私たちへの励ましとなるのではないか。


まず2節にはこう書かれている。「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」なんか抽象的なことだ…と思うかもしれない。しかし、それはそれで良いではないか。神の栄光が何であるかを、具体的に理論立てて説明すること自体、無理なことのように思える。そもそも、神の栄光というのは、私たちの心で感じるべきものであって、頭脳で理解するよなものではない。神の力強さ、神の恵みの深さ、神の情けの深さ、神の正しさ、神の愛の深さ…それらをすべて混ぜ合わせたものが神の栄光と言えるだろう。そして、そのようなものを心の内に感じることこそ、私たちの喜びとなるのだ。


毎日、何気なく暮らしていると、そのような神の栄光を感じることが少ないような気がする。日常の様々なことに気をとられてしまい、なかなか神に目が向かないということだ。そうすると、煩悩ではないけれど、イヤな思いだの腹の立つ思いだのが心を占めてしまい、なおさらのこと喜びというものが感じられなくなるのだ。


常に…というのは、なかなか難しいことかもしれないが、どこかでほんのわずかな時間でもいいから、神に目を向け、神の良さを味わい、心に喜びを呼び戻したいものである。


5節まで見たかったが、今日はここまで。