あるキリスト者のつぶやき… -138ページ目

新テーマ追加!

今日から新テーマ追加。

「ネットで見つけたモノ」

いつも堅い話ばかりっていうのもなんなんで…。息抜きに、私がネットで見つけたモノを紹介。


まず第一弾は「サザエラップ」これ、笑っちゃいました。でも、結構すごいと思う。ある意味、天才だ。


http://blog.livedoor.jp/macchips_blog/archives/4210889.html

下書きですが

例によって、エッセイの下書き。ヨハネの福音12書からです。

イエスは自らの死が近いことを理解し、それがどのような形で訪れるかを語ったが、人々はそれを理解することができなかったようである。
「人の子は上げられなければならないとは、一体全体、先生は何をおっしゃっているのだろう。昔の預言者の言葉は、救い主は常におられるというではないか。では、上げられるとは、何を言っているのだろう。そもそも、人の子とは何を言っているのだろうか。」
イエスは彼らに言った。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」
イエスは自らのことを光にたとえている。太陽が天にいる間、世界は明るく照らされている。光があるから人は生活を営むことができるのだ。そして、日が沈み夜が訪れると、世界は闇に包まれ人々は活動することをやめるのだ。今でこそ、電気が当然のものとなり、昼夜関係なしに人は自由に活動することができるようになって、夜になっても闇で世界が包まれるということはなくなってきたが、だからといって夜の闇の存在を否定することにはならない。
コンビニがある生活になれた今に生きる私たちには、夜の闇というのがどのようなものであるか、あまり実感が湧かないだろう。私も闇夜というものを体験したのはいつの頃だか覚えていないくらいだ。もしかしたら、まだ学生の頃に、街の明かりの届かないところに流星雨を見に行った時が最後くらいかも知れない。便利になりすぎた今の世の中、暗闇というのが、どのようなものであるか、私たちには想像することしかできまい。
ところで、神の子であるキリストが地上で人々と交わり、多くの奇跡を行っている間は、この世は夜の闇に閉ざされることはあっても、霊的な闇に閉ざされることはなかった。夜の光であるキリストがいるところに、暗闇がはいる隙間はどこにもなかったからだ。もし闇が存在したとすれば、それは人が明かりを遮るために目を閉じるように、キリストに対して心のを閉ざした人々-例えばキリストに対して妬みをもった指導者たち-の内側だろう。必ずしも、世界がすべて闇に閉ざされていたというわけではない。
しかし、イエスが十字架に上げられることで、この夜から光が消えてしまうのである。一寸先は闇とはまさにこのことだろう。この世を照らす光であるキリストがいなくなってしまえば、人は闇の中で迷うことしかできないのである。
そのようなことになるのを不安に思ったから、イエスはこう言っているのだろう。「まだ光がある間に、光のことを信じなさい。そうすることで、あなた方自身も光の子となるのです。」
言葉にこそ出していないが、おそらくイエスの気持ちはこのようなものであったろう。「そして、あなた方も世の光となりなさい。私が去った後には、あなた方が世の中を照らす光となって、世界が闇に覆われないようにしなさい。」
イエスのそのような気持ちは伝わったのだろうか。考えてみると、世の中を照らしてきた人々がいたからこそ、今も人はキリストにおける望みを見出すことができるのではないだろうか。たとえわずかに光であっても、暗闇で輝くことができれば、暗闇を遠ざけることができるのである。輝きも集まれば世界を照らすのに十分なものになるではないだろうか。
夜の闇と言うが、夜は本当の闇ではない。明るく地上を照らす太陽が沈んだ後でも、小さく輝く星々がこの地上を照らしだすのだ。そして、夜は永遠に続くものではない。やがて朝が来ると太陽が再び世界を照らすのだ。
たとえ、キリストが地上にいなくても、それで私たちが光の子となって世を照らせば、人々は迷うことがないのである。

心のカレンダー

今日は「過ぎ越しの祭り」である。

…とは言っても、なじみの薄い祭りである。

古代エジプトで奴隷として使役を課せられ、厳しい生活を送っていた、ユダヤ人が解放されたことを覚えて祝ったのがことの始まりである。なぜ過ぎ越しの祭りと言われているのかは、長くなってしまうのでここでは述べないが、詳しいことを知りたい人は、旧約聖書の「出エジプト記」を読めば分かるだろう。あ、いや、ディズニーの「プリンス・オブ・エジプト」を見れば、もっと簡単に分かるような気がする。なかなか良くできたアニメだと思うよ。

そして、過ぎ越しの祭りと言えば、まさしくキリストが十字架に掛けられたのも、その祭りの日のことである。そう、今日は罪のないキリストが、人々の罪を負わされ十字架に掛けられて殺された日でもある。つまり、"罪と死"という束縛から、人々が解放された日でもあるのだ。

今日が何の日か記されているカレンダーはあまり多くないが、遠い昔に何があったのかを忘れないように、心のカレンダーに記しておこう。

神の愛って?

今日は「ちから誌」の5月号が10冊と図書カード1000円分が届く。これが、私がエッセイを書いて得られる収入。現金ではありません。とはいっても、執筆してなんらかの収入を得られるっていうのは嬉しいね。ひとまず、私が書いたエッセイが載っているのは確認しておいた。でも、やっぱ恥ずかしくって読めねぇや…。


昨日はずっと会社にいたので、聖書日記を書けませんでした。思うんだよね、なんか、場所をとらない聖書ってないのかねぇ。普通の聖書って辞書くらいあるじゃん。とてもじゃないけど、普段から携行する気にはなれない。それこそ、携帯で見ることができればいいんだけどなぁ…でも、ネットで見るとパケット代を払わないといけないんで、それくらいなら誰かアプリを開発してくれないかな。昔は、PalmOSで聖書をみるやつがあったけど、Palmなんて市場から消えたしなぁ。ん?エンジニアならそれくらい作れよ、って??


というわけで、本題に入りますか。ローマ書5章の続きを見ましょう。前回は神が人を愛しているから、希望を持てる…というところまで書いたかな。


それでは、神の愛って何だろう?それが6~8節に書いてある。


「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 (6~8節)


私があれこれ言うまでのことはないだろう。ここに書いてあることがすべてを語っているのではないだろうか。


人のために命を捨てることができるか、そう問われたら何と答えるだろうか。無条件にできると答える人はいないだろう。「愛する人のためなら」「家族のためなら」そう答える人はそれなりにいるかもしれない。「人のために死ぬなんて無理だね」と答える人もいるだろう。きっとこの答えが一番正直なものだと思う。いざ、人を助けるために自分自身を犠牲としなければならない状況になったらどうするだろうか。そんな状況になったことはないから分からないけど、想像するに、きっと自分自身の命が惜しく思えてしまうかもしれない。悪いことであるとは言わないが、それが人というものであろう。それがきっと当然の反応かもしれない。


しかし、ここに無条件に自らの命を捧げた方がいるのである。それがイエス・キリストなのだ。私たちに命を捨てるだけの価値を見い出したからではない。むしろ、私たちは見放されても当然の存在なのである。


これが神の愛である。

朝を迎える

さて、深夜作業も無事に終了。10時くらいまでは待機。何もなければ、そのまま帰ろう。仮眠を取ったとはいえ、やはり椅子の上で寝るのは辛い。

世間はどんな朝を迎えているのだろうか。ちらっとネットでニュースを見てみる。何かおもしろそうな記事はあるかな。

"<USEN>ライブドアの完全子会社化を検討"

ほほぅ、有線放送で有名なUSENがあのライブドアの株を全部買い取って、完全子会社化するらしい。今日を最後に、ライブドアは上場廃止となるわけだが、USENの子会社になってしまうということは、すなわちライブドアという会社が消え去るということだ。あれだけ色々な会社を買収し続けた企業も、粉飾決済が発覚するや、あれよあれよという間に地に堕ちてしまった。

なんというか…世の中って分からんもんだね。ついこないだまで栄華を謳っていた集団が、いまやその存続さえも危ぶまれているんだから。そう考える、富も名声も地位も、はかないもんだね。間違いひとつですべてが無になってしまう。やはり人は分相応の生き方をするのがいいのかもしれない。満ちて足るを知る、か。