あるキリスト者のつぶやき… -136ページ目

戸部新十郎「前田利家」

戸部新十郎の「前田利家」を読んだ。


前田利家について書かれた本を読むのは今回が初めてである。槍の腕に優れ、わずか14歳の時に織田信長に仕えて戦場に出て、武功をあげた。一時期浪人となったが、その後も織田信長、豊臣秀吉に仕えた。戦場における勇猛さと、主人に対して律儀に仕えることで周囲の信用を得た人物であると私の目には映った。


名もない青年が、加賀百万石の藩主となる姿に、戦国時代の人々の生き様を見ることができような気がする。


戦の最中は当然ながら、一見安穏と思える時でも、周囲の状況につねに目を光らせ、気を緩める暇もあまりない、といったところであろう。そうして力ある者や、堅気な者が人々の上にのし上がってくるのである。


その時代に生きることは大変なことであったかもしれないが、大変であったがゆえに日々張り合いがあったかもしれない。思えば、今を生きる私なんかは、毎日惰性で暮らしているようなものである…


物足りなくも感じるし、寂しくも感じるものだ。

将来の栄光

気付いてみたら水曜日の夜である。なんか今週はあれよあれよという間に時間が過ぎているような気がしなくもない。毎日が楽しいわけでもなければ、毎日が辛いわけでもない。そんな日々を過ごしているような気がする。一言で言えば平凡な日が続いているということかな。平凡ではあっても、退屈というわけでもない。良い表現が見つからないけど、どこか生きた心地のする今日この頃である。やはり連休を前にして心浮かれているのかな?


しかし、なによりもまず今日もこうして過ごしていられることに感謝。


今日はローマ書8章。前半部分は読んだけど、ちょっと難しいというか、夜のこの時間に読んで考えるには重たすぎる内容なので、今日はパス。また時間と余裕と気力と体力がある時に考え直してみよう。


というわけで、後半部分を見ていこうと思う。18章から、かな。


「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」 (18節)


言っていることが分かるような、分からないような…。一番読んでて首を傾げてしまうのが「私たちに啓示されようとしている栄光」ってところじゃないかな。私も何のことかよく分からない。というわけで、英語でここを読んでみた。本当は原語のギリシア語で読めばいいんだろうけど、そこまでするスタミナはない。あぁ、勉強不足だなぁ。


"I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us." (v.18)


なんとなく言わんとしていることは分かるような気がする。もっともその内容まで理解できたかというと、ちょっと疑問だけど。18節に書かれている「栄光」ってそもそも何だろうと考えてみる。日本語で読むと「神の栄光」とか「キリストの栄光」というような理解になってしまいそうだけど、英語で読むとちょっと違う。なんか日本語って曖昧なところがあるけど、英語ってはっきりしているから、時として助かることがある。…おっと、本題からはずれてしまった。


そうそう「栄光」が何かを見ていたんだった。この栄光とは「私たちのうちに現される栄光」ということになる。つまり、神の栄光ではなくて、私たちの栄光のことであろう。では、私たちの栄光とは何であるか…というと、難しい。難し過ぎるので、今日はパスします。でも、私個人の考えになるけど、神の栄光が私たちを通して現されるということではないだろうかと思う。つまりは罪や誘惑や情欲から完全に解放されて、ただ神の良さのみを現せるようになるということかと…。それこそ、体というものに束縛されている今は無理なことなのかもしれないけどね。だから「将来私たちに…」と書いてあるのかもしれない。


確かに、今の世の中では外的要因で辛い思いをすることがあるけど、それと同じに内的要因、つまり自らの内に善と悪の葛藤とでも言おうか、による苦労っていうのもある。そのような苦難が今はあろうとも、やがてそれらから解放されて、神の栄光を現せるようになるということだろうか。


キリスト者にとっては励ましになる言葉だと思う。

罪の虜

今日は朝から六本木、明日は赤坂。なんか都会人になったような気がする。でも、都会は嫌いです。あの人の多さには耐えられない。どうも圧迫されそうな気分になるんだな。うまく言えないけど。


さて、今日はローマ書7章を見ていこうと思う。


律法について書かれているけど、律法とは何だろう。字は似ているし、雰囲気も似ているけど、法律とはちょっと違う。でも、法であることは確か。聖書に書かれている律法とは、旧約聖書の時代に、神が人に与えた決まり事である。私自身もそれがどんなのであるのか、よく分かっていないので、律法の内容がどのようなものであるか詳しくは言えないが、有名なものとして「モーセの十戒」というものがある。でも、それ以外にも細かいのがもっとあるのだ。レビ記を見れば色々書いてあるけど、あれはなかなか難解である。私も何度か読もうとしてそのたびに挫折した記憶がある。


まぁ、今は律法の内容を見ていくつもりはないので、それは置いておく。


この律法であるが、これは人を罪に定めるという皮肉な役割を持っているのだ。なぜって、律法があるから「やってはいけないこと」というのが明確にされているからだ。そして、人というものは「やってはいけないこと」ほどやってしまうものなのではないだろうか。思えば、不思議な生き物である。


パウロでさえもこう言っている。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19節)


そして私もそうである。悪いと分かってはいるけど、人の悪口を言ったり、人を批判したり、自分の置かれている状況を嘆いたり…果たしてキリストによって新しい生き方を与えられた者として、それがふさわしい行いかといえば、そのようには思えない。もっともふさわしい行いとは何かというと、それはそれで悩ましく思えてしまうのであるが、それが何であれ、妬みだの怒りだの否定的な思いだの感情だのというのは、好ましいものではない。


そう考えると、やはり私を支配しているのは罪なのだなぁと思わざるを得ない。心は神に向いているとしても、やはり人間としての弱さがあって、罪の虜となってしまうのだろう。


「だからどうした?」と聞かれてしまうと困るのであるが…はてさて、善を行うことなんて私にできるのであろうか…?

いつもありがとう

個別でコメントに返事をするまでの体力&気力が残っていないので、この場を借りてここ数日の間にコメントを書いて下さった acceptanceさん、andygooさん、嶋田さん にお礼を申し上げたいと思います。


コメントを頂くと、頑張って続けようという気持ちになりますね。おかげで、聖書について以前よりも考える機会が増えたように思えます。私自身にとっても祝福となっています。


また、私の書いた記事を読んで下さっている皆さん(アクセス少ないけどw)にも、等しくお礼を申し上げます。ブログというメディアの関係上、お互いの素顔というものが見ることはほとんどありませんが、読んで下さる人がいるということが私には大変な励ましになっています。ありがとうございます!


つたない文章、未熟な発想かもしれませんが、今後ともよろしくお願い致します。

人と罪の関係

先週はあわただしく過ぎてしまった。今週はどんな一週間になるだろう?少なくとも出だしは好調かな。今週も…いやいや、今週こそは…なるべく前向きに過ごしたいものである。とは言っても、そんなことができたら苦労はしないだろうな。どうにも愚痴っぽくていけない。


さて、聖書を読み進めていこうかな。今日はローマ書6章。5章はキリストによって義がもたらされたと書いて締めくくられていた。それを引き継ぐかのように、6章はキリストによって義とされた私たちと罪との関係が書かれている。読んでいるとチクチクと針で刺されているような気分になってしまう。


私たちは罪人である。それはそれで無視することのできない事実である。罪があるから、赦しがある。赦しとは、キリストによってもたらされた恵みである。それでは恵みを得るためなら罪を犯してもいいのかと、パウロは問いかけている。なんとも意地の悪い聞き方をするものだ。皮肉というか、なんというか…。どう考えても罪を犯して、赦しと恵みを得ようというのは、ピントのずれた考え方であるのは誰の目にも明らかであろう。


しかし、その関係を説明するのはちょっと難しいように思える。「なぜクリスチャンは罪を犯しちゃいけないの?」と聞かれて「いけないから、いけない」とか「よく分からないけど、いけない」では、説得力にいまひとつ欠けているような気がする。いけないのは分かっているけど、その理由がもやもやしてよく分からないことがあるかもしれない。


しかし、パウロは分かりやすく説明している。


「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)


キリストは、私たちすべての罪を背負って十字架につけられたのである。つまり、私たちの罪もその時イエスと共に十字架につけられたようなものである。これが、罪に対して死んだということなのだろうと、私は考えている。そしてイエスがよみがえった時に、私たちには罪のかわりに新しく命が与えられたのである。信仰を持つと言うことは、すなわち罪を持った"人"が滅び、神から与えられた新しい命によって生きる"人"が誕生するということなのだろう。


神によって新しく命を得たのである。それは罪、すなわち悪意や怒り、妬みや情欲によって束縛される命ではなく、神の哀れみと恵みによって満たされる命なのである。そのような命を得て、人はどのように生きるだろうか。神が良いもので満たしてくださっているこの人生、それを悪い目的のために生きられるだろうか…。それはできまい。


とは言っても、現実では様々な問題やら誘惑やらがあって、罪のない生き方を実践するのは難しい…というか、不可能にも思える。この世での人生を終えるまでは、やはり苦労は絶えないものなのだろうか。