罪の虜
今日は朝から六本木、明日は赤坂。なんか都会人になったような気がする。でも、都会は嫌いです。あの人の多さには耐えられない。どうも圧迫されそうな気分になるんだな。うまく言えないけど。
さて、今日はローマ書7章を見ていこうと思う。
律法について書かれているけど、律法とは何だろう。字は似ているし、雰囲気も似ているけど、法律とはちょっと違う。でも、法であることは確か。聖書に書かれている律法とは、旧約聖書の時代に、神が人に与えた決まり事である。私自身もそれがどんなのであるのか、よく分かっていないので、律法の内容がどのようなものであるか詳しくは言えないが、有名なものとして「モーセの十戒」というものがある。でも、それ以外にも細かいのがもっとあるのだ。レビ記を見れば色々書いてあるけど、あれはなかなか難解である。私も何度か読もうとしてそのたびに挫折した記憶がある。
まぁ、今は律法の内容を見ていくつもりはないので、それは置いておく。
この律法であるが、これは人を罪に定めるという皮肉な役割を持っているのだ。なぜって、律法があるから「やってはいけないこと」というのが明確にされているからだ。そして、人というものは「やってはいけないこと」ほどやってしまうものなのではないだろうか。思えば、不思議な生き物である。
パウロでさえもこう言っている。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19節)
そして私もそうである。悪いと分かってはいるけど、人の悪口を言ったり、人を批判したり、自分の置かれている状況を嘆いたり…果たしてキリストによって新しい生き方を与えられた者として、それがふさわしい行いかといえば、そのようには思えない。もっともふさわしい行いとは何かというと、それはそれで悩ましく思えてしまうのであるが、それが何であれ、妬みだの怒りだの否定的な思いだの感情だのというのは、好ましいものではない。
そう考えると、やはり私を支配しているのは罪なのだなぁと思わざるを得ない。心は神に向いているとしても、やはり人間としての弱さがあって、罪の虜となってしまうのだろう。
「だからどうした?」と聞かれてしまうと困るのであるが…はてさて、善を行うことなんて私にできるのであろうか…?