人と罪の関係
先週はあわただしく過ぎてしまった。今週はどんな一週間になるだろう?少なくとも出だしは好調かな。今週も…いやいや、今週こそは…なるべく前向きに過ごしたいものである。とは言っても、そんなことができたら苦労はしないだろうな。どうにも愚痴っぽくていけない。
さて、聖書を読み進めていこうかな。今日はローマ書6章。5章はキリストによって義がもたらされたと書いて締めくくられていた。それを引き継ぐかのように、6章はキリストによって義とされた私たちと罪との関係が書かれている。読んでいるとチクチクと針で刺されているような気分になってしまう。
私たちは罪人である。それはそれで無視することのできない事実である。罪があるから、赦しがある。赦しとは、キリストによってもたらされた恵みである。それでは恵みを得るためなら罪を犯してもいいのかと、パウロは問いかけている。なんとも意地の悪い聞き方をするものだ。皮肉というか、なんというか…。どう考えても罪を犯して、赦しと恵みを得ようというのは、ピントのずれた考え方であるのは誰の目にも明らかであろう。
しかし、その関係を説明するのはちょっと難しいように思える。「なぜクリスチャンは罪を犯しちゃいけないの?」と聞かれて「いけないから、いけない」とか「よく分からないけど、いけない」では、説得力にいまひとつ欠けているような気がする。いけないのは分かっているけど、その理由がもやもやしてよく分からないことがあるかもしれない。
しかし、パウロは分かりやすく説明している。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)
キリストは、私たちすべての罪を背負って十字架につけられたのである。つまり、私たちの罪もその時イエスと共に十字架につけられたようなものである。これが、罪に対して死んだということなのだろうと、私は考えている。そしてイエスがよみがえった時に、私たちには罪のかわりに新しく命が与えられたのである。信仰を持つと言うことは、すなわち罪を持った"人"が滅び、神から与えられた新しい命によって生きる"人"が誕生するということなのだろう。
神によって新しく命を得たのである。それは罪、すなわち悪意や怒り、妬みや情欲によって束縛される命ではなく、神の哀れみと恵みによって満たされる命なのである。そのような命を得て、人はどのように生きるだろうか。神が良いもので満たしてくださっているこの人生、それを悪い目的のために生きられるだろうか…。それはできまい。
とは言っても、現実では様々な問題やら誘惑やらがあって、罪のない生き方を実践するのは難しい…というか、不可能にも思える。この世での人生を終えるまでは、やはり苦労は絶えないものなのだろうか。