将来の栄光
気付いてみたら水曜日の夜である。なんか今週はあれよあれよという間に時間が過ぎているような気がしなくもない。毎日が楽しいわけでもなければ、毎日が辛いわけでもない。そんな日々を過ごしているような気がする。一言で言えば平凡な日が続いているということかな。平凡ではあっても、退屈というわけでもない。良い表現が見つからないけど、どこか生きた心地のする今日この頃である。やはり連休を前にして心浮かれているのかな?
しかし、なによりもまず今日もこうして過ごしていられることに感謝。
今日はローマ書8章。前半部分は読んだけど、ちょっと難しいというか、夜のこの時間に読んで考えるには重たすぎる内容なので、今日はパス。また時間と余裕と気力と体力がある時に考え直してみよう。
というわけで、後半部分を見ていこうと思う。18章から、かな。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」 (18節)
言っていることが分かるような、分からないような…。一番読んでて首を傾げてしまうのが「私たちに啓示されようとしている栄光」ってところじゃないかな。私も何のことかよく分からない。というわけで、英語でここを読んでみた。本当は原語のギリシア語で読めばいいんだろうけど、そこまでするスタミナはない。あぁ、勉強不足だなぁ。
"I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us." (v.18)
なんとなく言わんとしていることは分かるような気がする。もっともその内容まで理解できたかというと、ちょっと疑問だけど。18節に書かれている「栄光」ってそもそも何だろうと考えてみる。日本語で読むと「神の栄光」とか「キリストの栄光」というような理解になってしまいそうだけど、英語で読むとちょっと違う。なんか日本語って曖昧なところがあるけど、英語ってはっきりしているから、時として助かることがある。…おっと、本題からはずれてしまった。
そうそう「栄光」が何かを見ていたんだった。この栄光とは「私たちのうちに現される栄光」ということになる。つまり、神の栄光ではなくて、私たちの栄光のことであろう。では、私たちの栄光とは何であるか…というと、難しい。難し過ぎるので、今日はパスします。でも、私個人の考えになるけど、神の栄光が私たちを通して現されるということではないだろうかと思う。つまりは罪や誘惑や情欲から完全に解放されて、ただ神の良さのみを現せるようになるということかと…。それこそ、体というものに束縛されている今は無理なことなのかもしれないけどね。だから「将来私たちに…」と書いてあるのかもしれない。
確かに、今の世の中では外的要因で辛い思いをすることがあるけど、それと同じに内的要因、つまり自らの内に善と悪の葛藤とでも言おうか、による苦労っていうのもある。そのような苦難が今はあろうとも、やがてそれらから解放されて、神の栄光を現せるようになるということだろうか。
キリスト者にとっては励ましになる言葉だと思う。