津本陽「火焔浄土―顕如上人伝」
いやぁ、難しかったです。
今までにも何度かとりあげた、戦国期における本願寺派と天下を取ろうとする信長の対立を描いた歴史小説なのだけれど、難しいことこの上ない。途中で挫折しそうになったよ、正直。
まず主人公っていうのが、誰だか分からない。タイトルからすると、本願寺のリーダーである顕如上人という人物なのだろうけど、この人がほとんど出てこない。かといって、敵対する信長が主人公であるかというと、これもまたほとんど姿を見せない。いずれの人物も書簡を通じてくらいしか物語に出てこないのです。臨場感というか、そのようなものが伝わってこない。
しかも、書簡等の記述が極めて原文に近い形で記載されているので、古文の成績が悪かった私には、いまいち何を言っているのか理解できないのである。今まで他の本で読んだので、出来事の流れは把握していたから良いものの、そのような事前の知識がなければ、何のことだかさっぱりだったろうと思う。
ひたすら難しすぎて、感想というものが…持てませんでした。
強いて言うなら、難しいっていうのが感想。もう、ほとんど歴史の教科書か、古文の教科書って感じでした 。次はもっと小説らしい小説(?)を読もう。
でも、分かる人が読んだら、きっと面白いんだろうけどね。
無限の神の力
GWも終わって普段の生活に戻りました。さて、連休中はブログも休みにしていたけど、こちらもまた普段通りに更新するようにしようかな。
皆さん、良い連休を過ごされましたか?私はあまり息つく間もなく過ごしましたけど、それなりに良い時を過ごせました。やはり家族と過ごす時間は貴重ですね。
では、聖書を読んでいこうかな。そういえば、連休中はあまり聖書を読まなかった…。いかん、いかん。ま、そんな時もあるでしょう。
前回から引き続いて、今夜もローマ書8章を読んで、考えてみました。
今日の箇所もなかなか良いですね。ことにクリスチャンにとっては大変に励ましになることが書かれています。8章の後半は、まさしくキリストに信仰を持つ私たちを励ますために書かれているようなものに思えますね。
「…神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 (31節)
まさしく、これは私がクリスチャンになったその時に思ったことでもあります。信仰を持つ前は、神が私の味方であるのか定かではなかったのだけれど、信仰を持ったその時に、神が私の味方であることをしっかりと感じる、いや、感じるだけではなくて確信することができたのです。その時の思い、確信は、今でも変わらずに持ち続けています。それが揺らいだことは信仰を持ったその日以来、一度もありません。確かに、神から離れているなぁと感じるときはあっても、神が私の味方ではないと思うことはないのです。まぁ、自分にとって都合の良いように考えているだけなのかもしれませんが…。
さて、自分のことばかり話してもしかたないので、聖書を見ていくとするかな。そう、神が味方である限り、私たちに敵対することのできるものは何もないのです。なぜって、神は全知全能なるお方だからです。つまり、神よりも力のある存在というのは存在しないから。天地万物を創造し、森羅万象を司る神の能力というのは、まさしく人間の理解を超えていると言えるでしょう。その様な神に逆らえるものはありますか?…ありません。
人は進歩し、多くを知り理解し、様々なことを行う能力を身につけたけれども、まだまだ神の足下には及ばないというのが現実。なぜって、人は有限だから。人はいつか死にます。どんなに健康に気を遣ったとしても、どんなに長生きしても、死は免れないのです。それが、人のある姿。そのような限りある人間が、どんなに力を尽くしたとしても、無限の神を越えることはできないでしょう。
では、天変地異は?…やはりそれらも限りがあるでしょう。この地球だって、いつかは滅びます。形のあるものはすべて形を失っていくのです。これもまた現実。やはり、無限の神を越えることはできないのです。
「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 (38~39節)
忍耐と希望…希望??
明日から日曜まで休暇。休暇と言っても会社の仕事をしないでよいだけで、家のことを色々とやらなければいけないので、本当の意味では"休み"ではないな。一体、いつになったら私は本当の休暇というものを得ることができるのであろうか。
それでは、今夜も地道に聖書を読んでいこうか。まだローマ書8章の途中だったかな。時にペースが速くなったり、時に遅くなったり…本当に気まぐれである。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 (28節)
私の好きな箇所のひとつである。
今まで散々に、たとえ信仰があっても、人は罪に束縛されていると書いてきた。だからといって、それを負い目に感じたり、それを不安に思ったりする必要はないのである。人間として私たちに罪があるからといって、神は私たちを懲らしめようなどとは微塵も思っていないのである。
それどころか、私たちの心が神に向いている限り、神は私たちのために「すべてのことを働かせて益としてくださる」のだ。
これは必ずしも私たちが困った目に遭わないで済むようにとか、苦労しないで済むようにとか、そんな生易しいことを意味しているわけではない。それだったら、世のクリスチャンというのは苦労知らずで生きているはずである。歴史を見ても、クリスチャンはどちらかというと迫害にあったりして苦しんでいるようなことが多いようである。
いずれにせよ、自分自身を見ても苦労と困難の連続である。GWものんびりできないことだって、ある意味苦労であることに違いない。
そう、今の状況は必ずしも良いものとは言えない。これが現実なのである。事実なのである。お世辞にも「益」とは言えない。しかし、肝心なことは、神はこれらのことを通して、私たちにとって良いものを与えようと考えているということだ。それは果たして何であろうか。
色々な考えがあるだろうが、私はこう考える。それは、以前5章について書いた時に述べた「忍耐」のことではないだろうか。そして、この忍耐から希望が生まれるのだ。
では、希望って何だろうということになるかもしれないけど、それはもう一度5章を読み直すべきか…。なんか堂々巡りになってしまいそうな気がしなくもないが、それはじっくり整理してみる必要があるだろう。
罪からの解放
GWはカレンダー通りです。ってなわけで、5/1と5/2は普通に会社に行くことに。でも、普通に行っても、帰ってくるのはフレックスを使って4時とか会社を出ることにしよう。おかげで、今日は子供が起きている間に帰ってこれたよ。平日に家族揃って夕食を取るのは久しぶり。ここ最近やっていなかったけど、子供の寝付かせに挑戦。さすがに時間が掛かったな。
子供が寝た後に、ちから誌8月号のエッセイの見直し&清書。本当は昨日が締め切りだったんだけど、間に合いませんでした…。(しかし、雑誌の記事って将来のことを書かないといけないから難しい。)それが終わって、風呂に入って…。やっとブログの記事を書く時間ができたよ。でも、もう0時半を回ってるよ。日付も変わってしまった。
さてさて、聖書を見ていこう。まだローマ書8章だったな。
人の内にある善と悪の葛藤ということを前回書いた。クリスチャンといえども、まだ罪から完全に解放されているわけではない。確かに心の中では神を求め、神の目にかなった道を歩もうと望んでいるが、人の体というのは弱いもので、誘惑だの欲だので左右されたりするのである。いや、実際に罪を犯すということではなく(それをやったら今の社会、刑務所に送られてしまう)、心を惑わされるという意味であるが。
だから私たちは、私たち自身を悩ましている罪の束縛から解放されることを望んでいるのだ。これがパウロが24節と25節で言っている"目で見ることのできない望み"なのだろう。確かに、罪からの解放というのは、目で見ることはできない。それはむしろ心で感じ、知性で理解に至ることのできるものなのだろう。まだ私はそのような「境地」に至っていないので分からないけど…。果たして生きている人間がそのような「境地」に辿り着くことができるのか甚だ疑わしくも思える。しかし、少なくともこれだけは確かに言える。いわゆる「免罪符」というものは存在しない。なぜなら、神のみが私たちの心を内側から洗うことができるのだ。それもまた目に見えるものではない。
さて、なんとも抽象的な話になってしまったが、これがクリスチャンが待ち望んでいることなのである。いや、クリスチャンとして求めるべきものなのであろう。罪から解放されることはなくとも、やがて解放される日がくることを待ち望むことが、今私たちが出来る最大限のことなのかもしれない。その思いを心に持てば、僅かずつであろうが、この人生においても、罪から解放されつつあるのかもしれない。
そして、確かなことが一つある。それは、私たちは日々生きることによって、その解放の日へ一日一日と近づいているということだ。
自分発見、弱い自分だけどね
エッセイの下書きを載せようと思ったけど、ブログを更新する前に下書きを終えて、その勢いで見直しを始めてしまったので、珍しくブログより先にエッセイの方が先に書き上がってしまった。ブログに載せようかどうしようかと考えたけど、エッセイは基本的に個人サイトに載せることにしているので、後日サイトにて公開することに決定。
それはそうと、ストレスが溜まると、普段は私の内側でおとなしく鳴りを潜めている"物欲"というモノが騒ぎ出すらしい。ここ最近、仕事のことで面倒なことが多く、いらいらが溜まっていた。理想的なクリスチャンであれば、ここでストレスの解放からを祈るのであろうが、どうも私の信仰はまだまだ未熟なところがあるらしく、祈ることすら億劫に感じてしまうのである。
それでだ…久々に"物欲"が姿を現したのである。
私の"物欲"が目覚めると、どうも不要なものが欲しくなってしまうらしい。まぁ、物欲なんてそんなものだろうと思う。
んでだ…とうとう買ってしまったよ、デジカメを。去年の秋に買ったやつを下取りにだして。前のデジカメが壊れていたというわけではない。ちょっとしか使ってない完動品である。機能面でちょっと気に入らないところがあったけどね。
あぁ、でもおかげで気分がちょっと落ち着いたよ。ヨドバシのポイントが13%ついたから、結構得した気分。
ちなみに買ったのはSONYのサイバーショットW30
只今、充電中。早くいじりたい!