あるキリスト者のつぶやき… -137ページ目

最近不定期更新気味

どうも最近、定期的に更新ができていない。コメントにレスもつけていない…コメントをくれた方々に申し訳ない。すみません。とりあえず、記事を書く余裕がないので、エッセイの下書きを載せておきます。

イエスの数々の奇跡を見聞した後でも、やはり彼を信じない者がいた。しかし、彼を信じる者も出てきたというのもまた事実であった。そして、信じた者の中にはイエスを迫害しようと企んでいた指導者たちも幾人か含まれていたという。それまでかたくなにイエスのことを拒んでいたことを考えれば、やはり彼の言葉と行いは説得力があったのだろう。
ところが、彼らは信仰について公に認めようとはしなかったのである。彼らはその信仰の故に、神殿から追放され、仲間から迫害されるのを恐れていたのである。裏切り者と罵られることは目に見えて明らかであっただろう。しかし、彼らが恐れたのはそれだけでないようである。彼らはそれまでに築いてきた立場、富や名声といったものを失うのを恐れていたのである。彼らは神から認められることよりも、人から賞賛されることを好んでいたのだ。
だからといって、そのような彼らが不信仰であるかといえば、必ずしもそうであるとは言えないだろう。なぜなら、まずは信じることが大切だからだ。
イエスはまだ周りにいた群衆に向かって声を大にしてこう言った。おそらく信じた者、信じなかった者に関係なく伝えようと思ったのだろう。「私を信じると言うことは、私だけを信じるということにはならないのです。私を信じると言うことは、つまり私をこの地上に遣わした方を信じることにもなるのです。あなた方が私を見るとき、そこに私を遣わした方をも見ることができましょう。私はこの世界に光を与えるためにやってきたのです。私を信じる者が暗闇で迷わないためにです。」
イエスのこの言葉は、おそらく当時のユダヤ人たちには強烈な印象を与えたことだろう。彼らは確かに神を信じ、神を敬っていたのである。残念ながら、彼らの信仰のほとんどは形骸化していたようだが、それでも神を思う心はあったかもしれない。そして、そのような彼らの前に現れたのが、神から遣わされた救い主、キリストなのである。ところが、彼らの多くは、特に宗教的指導者たちや律法学者たちは彼を信じようとはしなかったのである。それはとりもなおさずキリストを地上に送った神をも信じないことになるのだった。私はけして彼らが不信心であったとは思えない。ただ、彼らには神への信仰よりも重要なものがあったのだろう。イエスが民衆の信仰を一身に集め、それを危惧したのがそのようないわゆる知識層の人々だったのである。彼らは自らの知識と社会的な立場に自らの存在の基盤を置いていたのだろう、そしてそれらが揺るがされそうになったことで、キリストに対して敵意を抱くようになったのだ。
そのような指導者たちが多くいた中で、イエスを信じた少数は、まだ自らが大事にしているものと神への信仰を天秤に掛けたとき、わずかに神の方へ天秤が傾いた人々であったのだろう。しかし、天秤の片方の皿が空っぽであったわけではない。まだ皿には俗世間での名声だのといったものが残っていたのである。それ故、彼らは自らの新しい立場というものを声に出して言えなかったのかもしれない。
そのような彼らの気持ちは、自然というか当然のものであるような気がする。信仰者の持つ天秤のひとつの皿には「神への信仰」があり、もうひとつの皿には「俗世間への思い」というものが載っかっているのではないだろうか。「神への信仰」が載った皿だけしかなく、もう一方の皿には何もない、そう言える人はまずいないだろうと思う。そう言えるのは偽善者か(もしいるとしたら)本当の聖人くらいだろう。実際は「神への信仰」がほんの僅かだけ重いというのが、信仰者の姿なのかもしれない。風が吹いたり、土台が揺らいだり、塵埃だのが皿に付着したりして「俗世間への思い」の方へ天秤が傾いてしまうことだって一度や二度とは言わず、もっとたくさんあるかもしれない。諦めというわけではないが、それはそれとして認めざるを得ないだろう。人である限り、仕方のないことだと思う。僅かではあっても神の方へ思いが傾けておくことが信仰なのであろう。
キリストは天秤がどちらに傾いているかで、人々を裁きにこの世にやってきたのではない。彼は、人々の持つ天秤が、神の側へと傾くことができるようにと、奇跡を行い、様々な話を語ってきたのである。彼にとっては、もう一方の皿になにが載っているかよりも、「神への思い」が載っている皿が重くなることを期待していたのであろう。

一人の人から出たこと

さてさて、ローマ書の続きを見ていきましょう。まだ5章だね。でも、今夜で5章は終わりかな。別に飛ばして読んでいるわけじゃないけど、5章の残りの部分はちょうどひとつの話題を扱っているようなんで、まとめて見ていこう。


「ひとりの人によって罪が世界に入り…」とは、すなわちアダムのことである。エデンの園で平和に暮らしていたのだが、食べてはならぬと言われていた木の実を食べたことで、夫婦共々園から追放されたあのアダムである。


さて、アダムが神に逆らったということで、彼が罪を犯したのは分かるが、なんで彼の罪が今を生きる私たちを罪に定めるのであろうか?うむ。改めて考えると不思議と言えば、不思議である。まるでアダムの犯した過ちの責任が私たちに押しつけられているような気がしなくもないが…。なぜこのようになってしまったのであろうか?と、考えては見るものの、正直その答えは私には分からない。


では、アダムが罪を犯さなかったら、私たちも罪に定められなかったのであろうか?さて、やはりその答えも私には分からない。


アダムの罪と私たちの罪の間にどのような因果が働いているのか、改めて考えてみようとすると、アタマが混乱してしまう。


しかし、確かな事が一つある。それは、私たちは罪人であるということだ。アダムがどうのこうの考えるのもいいけど、結局のところ、私たちにはアダムではなく私たち自身の罪があることに違いはないのだ。誰しも心の内で人を憎んだり、妬んだりすることがあるだろう。それが、罪なのである。当然ながら私も罪人なのである。人を殺したとか金を騙し取ったとか、そんなことではない。それ以前の、人の心の問題である。


今までも何度か書いてきたが、それがために、義なる神は私たちをよしとして下さらないのである。そして、これも何度も書いてきたが、私たちを神と和解させてくださったのがイエス・キリストなのである。が、これについては今更書くこともないだろう。過去の記事を読んでくれれば分かるはずだ。


なぜ一人の人の罪がすべての人々を罪に定めたのか…聖書に細かく書かれているわけでもないので、それは私にはよく分からない。しかし、一人の人がすべての人々の罪を背負って下さったのか…これは聖書によくよく書いてあることではないか。一人の人から始まった希望、それが聖書が伝える大切なメッセージなのではないだろうか。


って、書いたところで、当初書こうと思ったことからずれてしまった。どうも、最近はこのパターンが多いな。まぁ、下書き程度に読んでもらえればいいだろう。

無罪よりも有罪

ここ二日三日、忙しくてなかなか聖書を読む時間がとれなかった。


なんか今週に入ってからというもの、毎日何かしら私を悩ませる嫌な出来事が起きている。まぁ、こんな時もあるかな。我慢我慢。前向きに物事を考えるように心がけないと。


とは言っても…嫌なことはやっぱり嫌なんだけどね。


さて、気を取り直して、聖書の続きを読むとするか。ローマ書5章の…前回の続きというと9節からかな。


神はキリストを通して私たちに何を与えてくださったのだろうか。それは神との和解である。つまり神と和解したことによって、人は神の怒りから救われるのである。神の怒りというと、なんかわかりにくいような気がしなくもないが、つまりは、義なる神が罪で汚れた私たちを見て、善しとしないことなのであろう。


ふと読んでて面白いとおもったのは、救いよりも前に神との和解があるということだ。落ち着いて考えてみれば、それは上にも書いたように当然のことなのである。ところが、私も含めてクリスチャンというのは「イエス・キリストによる救い」という"信仰"にばかり目を向けて、その前にある「イエス・キリストによる神との和解」という"信仰"というのを忘れてしまいがちであろうような気がする。そもそも、イエスは救い主という信仰を持っているから、どうしても「救い」という方に引きずられてしまうのだろう。


では「神との和解」というのは何であろうか。それは、神に義と認められることだろう。(ちなみに救いとは、私の理解では「永遠の命」の確約である。)本来なら「義」ではない私たちが「義」とされるためには、何かが私たちの「不義」を取り去らなければならないのである。それを取り去ってくれたのが、私たちの「不義」を一身に背負ってくれたキリストなのである。


それ故、私たちは神と和解されたのである。もはや、神の目に私たちは「不義な罪ある人間、罰するに値する者」とは映らないのである。その代わりに「罪が赦された者」として神は私たちを見ているのだ。


思えば、これはすごいことである!私たちは「無罪」とされたわけではない。むしろ私たちは「有罪」とされたにも関わらず、その罪が赦されたということである。これは「無罪」であることよりも素晴らしいことではないか。もし「無罪」であったら、いまは罪が認められなくて、もしかしたらどこか別の時に、まるで別の過ちを犯してしまい、それで咎められるかもしれないよいう不安、心配がつきまとうであろう。しかし、「有罪かつ赦免」というのは、どんな過ちでも神は赦される(注目!許される、じゃないよ!)ということを知っていれば、そのような不安から解放されるのではないだろうか。


…などと、思うままに書いてみたのでちょっと読みにくいかも。いつかきちんと整理して書き直そう。

山本一力「損料屋喜八郎始末控え」

ちょっと趣向を変えて市井物を読んでみた。


しかし、思ったより難しかった…まず、登場人物が多い。いや、多いのは構わないとしても、みんな職業がばらばらなのである。どの人物が何の仕事をしていて、話の流れにどう関わってくるかということについて行くのが結構大変だった。そして、江戸時代の米経済が物語の底辺にあるんで、それを理解するのにまたもや難儀するのであった。いやはや、歴史の勉強になる。


さてさて、そのようなことにあまり深刻に悩まなければ、面白い作品であった。いわゆる勧善懲悪モノであるが、舞台が江戸の町であり、出てくる人のほとんどが町人であるため、どこか人情味が感じられる。おかげで読んでいて気分が良い。これが、武家ばかりが登場する物語だと、どこか血生臭さが感じられるのだけど、それがないのである。思えば、物語中で誰かがどこの誰それを斬ったとか、そんな記述が見当たらないのである。


ただ残念だったのは、全体としてテンポの良さというのが、感じられなかったということだ。まぁ、これは物語がどうのこうのいうよりも、複雑な人物関係を把握しきれず、米経済への理解度が足りない読者である私の責任によるところは大きいだろうが。


個人的には「大川わたり」のが好きだな。

イースターイブ

2時間くらいまとまった時間をとってドラムの練習をすることができた。家じゃないよ、教会でね。ドラム、面白いね。でも…難しい。ギターと合わせてみたんだけど、なかなかどうして…うまくいかない。ひたすら練習あるのみ。家にもドラムが欲しいけど、さすがに置き場所がないし、マンションじゃねぇ。せめて一軒家だったらいいんだけど、今はスティックだけで我慢しよう。また、よりによって一般家庭におくことのできないような楽器にはまってしまったもんだ。


明日はイースター(復活祭)だ。イエス・キリストの復活を祝うクリスチャンにとっては重要な日。でも、いつも思うことがある。金曜に十字架につけられて墓に葬られて、日曜によみがえって…じゃ、土曜日は!?って。墓の中?まぁ、イエスの肉体は埋葬されたままであっただろうけど、イエスの魂はどこに行っていたのだろうか。


使徒信条には「黄泉に下り」とあるけど、さてはて、本当はどうなんだろうか。色々な解釈があるけど、私の考えはこうである。あくまでも私の個人的な解釈だけどね。


使徒信条が伝えるように、イエスは「黄泉」、つまり天国でも地獄でもない場所(まぁ、強いて言えば「あの世」ということになるのだろうか)に行ったのだと私は思う。そして、地上で彼がそうしてきたように、福音を伝えたのではないだろうか。そして、黄泉にいた人々でもキリストを信じれば、やはり救われたのだろう。


自分もクリスチャンであるが、クリスチャンって「信じていれば天国に行く」と考えている。これはいいだろう。それが信仰というものだから。ところが、厄介なことに「信じていなければと地獄に行く」と単純に考えているクリスチャンもいるということだ。


ちょっと待った。これって無神経過ぎないか?


福音を聞いたことのないまま亡くなった人、福音を聞いてもなかなか決断をすることができずに亡くなった人だって大勢いるはずだ。みんな地獄に直行?それはいくら何でも残酷過ぎる。神学的にはそれが正論だとしても、神がそんな無慈悲なことをするとは思えない。聖書が伝える神のイメージにどうしてもそぐわないのだ。


だから私はこう考える。


信仰を持たないまま死んだら、人は黄泉の世界に下る。そして、そこで今一度福音を聞くのだ。そうすれば、全員福音を聞くことになって、全員に信じるチャンスが与えられるわけでしょ。それが公平だと思う。そこで信じれば、人は救われる。それでも信じなければ、それはその人の自己責任ということになる。


神が公平な方で、慈愛に満ちた方であるなら、そう考える方が自然だと思う。「未信者は地獄へ行く。」平気でそう考える人は、冷酷というか、信仰者としての驕りとしか思えない。