無罪よりも有罪 | あるキリスト者のつぶやき…

無罪よりも有罪

ここ二日三日、忙しくてなかなか聖書を読む時間がとれなかった。


なんか今週に入ってからというもの、毎日何かしら私を悩ませる嫌な出来事が起きている。まぁ、こんな時もあるかな。我慢我慢。前向きに物事を考えるように心がけないと。


とは言っても…嫌なことはやっぱり嫌なんだけどね。


さて、気を取り直して、聖書の続きを読むとするか。ローマ書5章の…前回の続きというと9節からかな。


神はキリストを通して私たちに何を与えてくださったのだろうか。それは神との和解である。つまり神と和解したことによって、人は神の怒りから救われるのである。神の怒りというと、なんかわかりにくいような気がしなくもないが、つまりは、義なる神が罪で汚れた私たちを見て、善しとしないことなのであろう。


ふと読んでて面白いとおもったのは、救いよりも前に神との和解があるということだ。落ち着いて考えてみれば、それは上にも書いたように当然のことなのである。ところが、私も含めてクリスチャンというのは「イエス・キリストによる救い」という"信仰"にばかり目を向けて、その前にある「イエス・キリストによる神との和解」という"信仰"というのを忘れてしまいがちであろうような気がする。そもそも、イエスは救い主という信仰を持っているから、どうしても「救い」という方に引きずられてしまうのだろう。


では「神との和解」というのは何であろうか。それは、神に義と認められることだろう。(ちなみに救いとは、私の理解では「永遠の命」の確約である。)本来なら「義」ではない私たちが「義」とされるためには、何かが私たちの「不義」を取り去らなければならないのである。それを取り去ってくれたのが、私たちの「不義」を一身に背負ってくれたキリストなのである。


それ故、私たちは神と和解されたのである。もはや、神の目に私たちは「不義な罪ある人間、罰するに値する者」とは映らないのである。その代わりに「罪が赦された者」として神は私たちを見ているのだ。


思えば、これはすごいことである!私たちは「無罪」とされたわけではない。むしろ私たちは「有罪」とされたにも関わらず、その罪が赦されたということである。これは「無罪」であることよりも素晴らしいことではないか。もし「無罪」であったら、いまは罪が認められなくて、もしかしたらどこか別の時に、まるで別の過ちを犯してしまい、それで咎められるかもしれないよいう不安、心配がつきまとうであろう。しかし、「有罪かつ赦免」というのは、どんな過ちでも神は赦される(注目!許される、じゃないよ!)ということを知っていれば、そのような不安から解放されるのではないだろうか。


…などと、思うままに書いてみたのでちょっと読みにくいかも。いつかきちんと整理して書き直そう。