最近不定期更新気味 | あるキリスト者のつぶやき…

最近不定期更新気味

どうも最近、定期的に更新ができていない。コメントにレスもつけていない…コメントをくれた方々に申し訳ない。すみません。とりあえず、記事を書く余裕がないので、エッセイの下書きを載せておきます。

イエスの数々の奇跡を見聞した後でも、やはり彼を信じない者がいた。しかし、彼を信じる者も出てきたというのもまた事実であった。そして、信じた者の中にはイエスを迫害しようと企んでいた指導者たちも幾人か含まれていたという。それまでかたくなにイエスのことを拒んでいたことを考えれば、やはり彼の言葉と行いは説得力があったのだろう。
ところが、彼らは信仰について公に認めようとはしなかったのである。彼らはその信仰の故に、神殿から追放され、仲間から迫害されるのを恐れていたのである。裏切り者と罵られることは目に見えて明らかであっただろう。しかし、彼らが恐れたのはそれだけでないようである。彼らはそれまでに築いてきた立場、富や名声といったものを失うのを恐れていたのである。彼らは神から認められることよりも、人から賞賛されることを好んでいたのだ。
だからといって、そのような彼らが不信仰であるかといえば、必ずしもそうであるとは言えないだろう。なぜなら、まずは信じることが大切だからだ。
イエスはまだ周りにいた群衆に向かって声を大にしてこう言った。おそらく信じた者、信じなかった者に関係なく伝えようと思ったのだろう。「私を信じると言うことは、私だけを信じるということにはならないのです。私を信じると言うことは、つまり私をこの地上に遣わした方を信じることにもなるのです。あなた方が私を見るとき、そこに私を遣わした方をも見ることができましょう。私はこの世界に光を与えるためにやってきたのです。私を信じる者が暗闇で迷わないためにです。」
イエスのこの言葉は、おそらく当時のユダヤ人たちには強烈な印象を与えたことだろう。彼らは確かに神を信じ、神を敬っていたのである。残念ながら、彼らの信仰のほとんどは形骸化していたようだが、それでも神を思う心はあったかもしれない。そして、そのような彼らの前に現れたのが、神から遣わされた救い主、キリストなのである。ところが、彼らの多くは、特に宗教的指導者たちや律法学者たちは彼を信じようとはしなかったのである。それはとりもなおさずキリストを地上に送った神をも信じないことになるのだった。私はけして彼らが不信心であったとは思えない。ただ、彼らには神への信仰よりも重要なものがあったのだろう。イエスが民衆の信仰を一身に集め、それを危惧したのがそのようないわゆる知識層の人々だったのである。彼らは自らの知識と社会的な立場に自らの存在の基盤を置いていたのだろう、そしてそれらが揺るがされそうになったことで、キリストに対して敵意を抱くようになったのだ。
そのような指導者たちが多くいた中で、イエスを信じた少数は、まだ自らが大事にしているものと神への信仰を天秤に掛けたとき、わずかに神の方へ天秤が傾いた人々であったのだろう。しかし、天秤の片方の皿が空っぽであったわけではない。まだ皿には俗世間での名声だのといったものが残っていたのである。それ故、彼らは自らの新しい立場というものを声に出して言えなかったのかもしれない。
そのような彼らの気持ちは、自然というか当然のものであるような気がする。信仰者の持つ天秤のひとつの皿には「神への信仰」があり、もうひとつの皿には「俗世間への思い」というものが載っかっているのではないだろうか。「神への信仰」が載った皿だけしかなく、もう一方の皿には何もない、そう言える人はまずいないだろうと思う。そう言えるのは偽善者か(もしいるとしたら)本当の聖人くらいだろう。実際は「神への信仰」がほんの僅かだけ重いというのが、信仰者の姿なのかもしれない。風が吹いたり、土台が揺らいだり、塵埃だのが皿に付着したりして「俗世間への思い」の方へ天秤が傾いてしまうことだって一度や二度とは言わず、もっとたくさんあるかもしれない。諦めというわけではないが、それはそれとして認めざるを得ないだろう。人である限り、仕方のないことだと思う。僅かではあっても神の方へ思いが傾けておくことが信仰なのであろう。
キリストは天秤がどちらに傾いているかで、人々を裁きにこの世にやってきたのではない。彼は、人々の持つ天秤が、神の側へと傾くことができるようにと、奇跡を行い、様々な話を語ってきたのである。彼にとっては、もう一方の皿になにが載っているかよりも、「神への思い」が載っている皿が重くなることを期待していたのであろう。