ワンセグって何ぞや
ブログを始める前は、何が楽しくて携帯からブログを更新するんだろうと思ったけど、今ではなくてはならない手段になってしまった。
さて、作業を始めるのは夜中の1時から。もう準備もできたので、今は待機中。でもって、実際の作業もそんなに手間が掛かるもんじゃないので、ほとんど待機することになるでしょう…何も問題が発生しなければ。
ちょっと時間をもてあましているので、IT関連のニュースを見てみた。だって、それ以外に見ても良さそうなものってないんだもん。最近の話題っていったら「ワンセグ」かな。ところが、私は「ワンセグ」が何かよく分かっていないのである。SEをやっていながら…技術の進歩についていけてないよ。
私の中では「携帯でテレビが見られる」程度の理解でしかない。で、それでは何かみっともないのでちょっと調べてみた。まぁ、簡単に言っちゃうと「移動体向けの地上波デジタル放送」とまとめることができるらしい。ということは…やっぱ「携帯でテレビが見られる」ってことじゃん。
しかし…このありがたみが分からない。何が楽しくて携帯やカーナビでテレビを見るんだろうか…って考えちゃうんだよね。そこまでしてテレビを見たいのか!?はたまたテレビ局の陰謀!?
やっぱ私の考え方が古いのかな。よくわかんないや。まぁ、もともとがテレビを見ない人だからね、私は。使わないからありがたみが分からないのかな、モブログみたいに。
まぁ、情報を伝達する手段がいろいろあるのは、それはそれで良いことかな。メディアが多様化することに伴って、伝達される情報の質が高くなることにつながるといいかなと思う。ささやかながら私もブログを通して、わずかであるが情報(と呼べるほどのものかどうか?)を提供する立場なので、中身のしっかりとしたものを伝えていくように心掛けたい。
今一番欲しいもの
世間から隔絶され、誰からも何からも邪魔されることなく、じっくりと思索に耽ることのできる空間、本を読みあさり研究をするための空間、執筆をするための空間…そんな場所が欲しい。願わくば、壁の互いに向かい合っている二面が書架になって、読みたい本がすぐに取り出せるようになっており、もう一面は出入りをするための扉があって、それと向かい合う一面には大きな窓になっていれば最高である。さらにその窓から海を望むことができれば、もう言うことなし、って具合である。
とはいっても、書斎なんてどう考えても現実的な話じゃない。築20年以上経過しているマンションの、3LDKのちっぽけな家では、自分の机すら置けない。本棚も小さなモノしか置くことができず、ほとんどの本は別の場所に保管することを余儀なくされる。
しかし、どんなに非現実的であっても、やはり一人で物思いに耽ったり、ゆっくり本を読んだり、物を書いたりするための場所が欲しいのである。世の中の喧噪から距離を置いて、一人きりで静かに過ごせる場所はどこかにないのだろう か。書斎とまではいかなくてもいいから、せめて隠れ家的な場所が欲しい。
雨が降って、地が潤い
外は雨。なんか今週はずっと雨みたいだね。なんか気が滅入っちゃうわ。まぁ、雨が降って、地が潤って、草木が成長して…自然の摂理なんでしょう。
今日は初めて「ゆりかもめ」に乗ってみた。豊洲駅から新豊洲駅までのたった1駅の間だけどね。今日の作業場所が新豊洲駅前にあるテプコ豊洲ビル(ビッグドラムとも呼ばれているらしいね)だったからなのである。ここに行くときは大抵は豊洲から歩くんだけど、今日は遅刻しそうだったんで、せっかくなんでゆりかもめを利用してみただけのこと。
さすがに豊洲から乗車する人は少なかったね。乗ってた人はほとんど全員私と同じく新豊洲で降りてたよ。ちなみに乗り心地は良かったな。
さて、本題に入ろうか。昨日はクリスチャンの希望って何だろうと言ったところで終わったかな。では、新約聖書、ローマ書の5章の続き。
クリスチャンであろうとなかろうと、人は誰しも希望を持つことができるのである。しかし、クリスチャンが持つ希望というのは、失望に終わることがないのだ。なぜなら、私たちの持つ希望というのは神から与えられるものだからである。それでは、なぜ神が与える希望には失望ということがないのであろうか。それは、私たちが神は忠実なお方であることを知っているからだ。
天から雨を降らせ、地の作物を育て…当然の自然の営みであるが、天地万物を創造された神は、森羅万象の背後にあって人々の生活を支えているのである。などと言ってしまうと、"神秘的"な言い方過ぎるかな?確かに、自然界のあらゆるものは科学によってその仕組みなりを説明することができよう。しかし、考えてみれば、誰がそのような仕組みなり決まり事なりを最初に作ったのか?人ではないことは確かである。学者でないことも確かである。彼らは、それらを発見したに過ぎない。では、勝手に出来たのか?まぁ、そう言うこともできるだろうが、それはそれで"神秘的"とも言えるだろう。ここまで来ると信じるか信じないかの議論になってしまいそうだ。そうなると「自然界の掟はどこからともなく発生した」というのを信じるか「デザイナーである神が制定した」というのを信じるかのいずれかでしかないだろう。私は、後者を信じている。
天地を創造し、その中に存在するすべてを治める神がいる。そして、そのような神が、人を愛しておられるのである。ここに私たちの希望があるのではないだろうか。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (5節)
練り上げられる
おぉっと。またランキングが下がっているぞ。目立つようなキーワードをいれていないからかな?ランキングがあがったからどうってわけじゃないけど、やっぱ下がると悔しいじゃん。それじゃあ、何か目立つようなキーワードでも入れてみようかな。
今日のキーワードは…思いつかないし…。やっぱせこいこと考えるといけないのか!?
とまぁ、それはそれでおいといて、真面目(?)に書き進めて行きましょう。今夜もローマ書5章の続き。まだ2節で止まっているよね…ってことで、3節から。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」 (3~4節)
「患難」ってあまり聞く言葉じゃないよね。これが出てくるのはキリスト教関連のモノぐらいじゃないかな。さすがのATOKもこれは変換してくれなかったよ。意味としては「艱難」とさほど違わないと思う。字を見れば分かるとは思うけどね。つまりは、困難だの苦しみだの悩みだのといった、要するに人に辛い思いをさせるものなのである。
しかし、本当にそのような苦しみを喜ぶことができるのだろうか?
いくら何でもそれは無理である。超真面目なクリスチャンならいざ知らず、私のような自我の強い、まだまだ神様によって練られなければならないようなクリスチャンにはとてもじゃないけど、無理な話である。イヤなものは…やっぱイヤだ。辛いモノは、誰が何と言おうと辛いのである。
でも、読み進めていくと見えてくることがある。必ずしも、辛いことそのものを喜ぶ…というわけではないのである。人が本当に喜ぶべきものは「希望」なのである。この希望が何であるかっていうのは、後日見るとしよう。
しかし、ここだけ見てもこれだけは確かである。まずは艱難辛苦を耐えることが大事である。なぜなら、そこから忍耐することを人は学ぶからだ。そして、忍耐を学ぶことで、人は人として、さらに成長するのである。すなわち、人として練り上げられるのだ。そして練り上げられた人は、困難な状況にあっても自己憐憫に浸ったり、人に怒りの矛先を向けたりはしないのであろう。そのような人は、いかなる状況にあっても、目先の様々なものに惑わされることなく、今より先にあるものを見て、そこに希望を見いだすのかもしれない。
これについては、クリスチャンであろうとなかろうと、大事なことなのかもしれないね。明日は、クリスチャンの希望について見ていこうと思う。
将来のために
飴風呂って記事のバックアップをとることができないらしい。確認したわけではないけど、どうも管理者メニューにそれっぽいのが見つからない。他のブログサービスがどうかはよく知らないけど、少なくともseesaaは対応していたはず。とはいっても、seesaaは一度試していたんだけど、いきなり障害が発生して、半日アクセスできなくなったこともあるので、どうも好きになれない。ここまで記事を書いたし、ランクも上がったし、読者もついてきた今となっては、引っ越すことは考えていない。
そうなると、今まで書いてきた記事を自分でちゃんととっておかないといけないなぁ、と思う今日この頃。
"種々雑多な日記"や"読書日記"なら別に消えてもいいけど、"聖書日記"と"ものがたり"だけは将来ちゃんとしたものを書くときのネタにするつもりだからね。それにしても、今の勢いでブログを更新し続けて、それを元にしてひとつの"作品"に仕上げるのなら、結構なボリュームになりそうな予感。というか、仕上げる時間と気力はあるのだろうか…。