雨が降って、地が潤い | あるキリスト者のつぶやき…

雨が降って、地が潤い

外は雨。なんか今週はずっと雨みたいだね。なんか気が滅入っちゃうわ。まぁ、雨が降って、地が潤って、草木が成長して…自然の摂理なんでしょう。


今日は初めて「ゆりかもめ」に乗ってみた。豊洲駅から新豊洲駅までのたった1駅の間だけどね。今日の作業場所が新豊洲駅前にあるテプコ豊洲ビル(ビッグドラムとも呼ばれているらしいね)だったからなのである。ここに行くときは大抵は豊洲から歩くんだけど、今日は遅刻しそうだったんで、せっかくなんでゆりかもめを利用してみただけのこと。


さすがに豊洲から乗車する人は少なかったね。乗ってた人はほとんど全員私と同じく新豊洲で降りてたよ。ちなみに乗り心地は良かったな。


さて、本題に入ろうか。昨日はクリスチャンの希望って何だろうと言ったところで終わったかな。では、新約聖書、ローマ書の5章の続き。


クリスチャンであろうとなかろうと、人は誰しも希望を持つことができるのである。しかし、クリスチャンが持つ希望というのは、失望に終わることがないのだ。なぜなら、私たちの持つ希望というのは神から与えられるものだからである。それでは、なぜ神が与える希望には失望ということがないのであろうか。それは、私たちが神は忠実なお方であることを知っているからだ。


天から雨を降らせ、地の作物を育て…当然の自然の営みであるが、天地万物を創造された神は、森羅万象の背後にあって人々の生活を支えているのである。などと言ってしまうと、"神秘的"な言い方過ぎるかな?確かに、自然界のあらゆるものは科学によってその仕組みなりを説明することができよう。しかし、考えてみれば、誰がそのような仕組みなり決まり事なりを最初に作ったのか?人ではないことは確かである。学者でないことも確かである。彼らは、それらを発見したに過ぎない。では、勝手に出来たのか?まぁ、そう言うこともできるだろうが、それはそれで"神秘的"とも言えるだろう。ここまで来ると信じるか信じないかの議論になってしまいそうだ。そうなると「自然界の掟はどこからともなく発生した」というのを信じるか「デザイナーである神が制定した」というのを信じるかのいずれかでしかないだろう。私は、後者を信じている。


天地を創造し、その中に存在するすべてを治める神がいる。そして、そのような神が、人を愛しておられるのである。ここに私たちの希望があるのではないだろうか。


「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (5節)