あるキリスト者のつぶやき… -141ページ目

礼儀知らず

最近の日本人は礼儀っていうものが欠けているんじゃないかと思う。

例えば、歩きながらタバコを吸う人たち。私はタバコを吸わないし、はっきり言ってタバコはキライだが、タバコが好きな人は思う存分に吸ってくれて結構と考えている。だけど、歩きながら喫煙するのはやめてもらいたい。煙がちょっとばかりかかるのは大目にみるとしても、灰をまき散らすのはやめてもらいたい。

それに、電車の床に座り込む若者達も気になる。ドアの近くに座ると電車に乗れないし、降りられない。しかもそれだけではない。座り込んでお菓子を食い散らかしているんだから、見ていても非常に目障りである。そーゆーことは自分の家でやってくれと思う。

そもそも礼儀を重んずるっていうのは、日本人の持つ美徳じゃなかったっけか?どうしたことか、それが今では礼儀を知らない人の方が多いように見受けられる。

人に対する思いやりとか我慢をする心とか…そんな道徳心が欠如しているのが今の人々の姿なのかもしれない。このままではこの国がどのような方向に向かって進むのか一抹の不安がある。

私一人が憂い悩んでもせんのないことかもしれないが…それでも考えずにはいられないのである。さてはて、どうしたものか。

そういえば、私の勤め先のある川崎市では今月から歩行中の喫煙が条令で禁止されるとか。10月からは罰金2万円が課せられるらしい。ここまでしないといけないとは…これはこれで悲しい世の中だ。

神との平和!

今日はローマ書5章。今日の箇所、内容が実に濃い。感動的なくらいに濃い!せっかくなので、何度かに分けて書いてみようかと思う。一度だけで終わらせるのは、なんか勿体ないくらいだから。


まず出だしからして印象的である。前の4章は信仰によって人は義と認められるというところまで書いてあった。その流れを引き継いで、5章の始まりは「信仰による義」の結果として、私たちに何が与えられているかが書かれている。そう、信仰を持って義とされることが終わりではないのである。そこから信仰生活、神と共に歩むことが始まるのである。では、人は何を手に入れて信仰の歩みを始めるのだろうか。それは、「神との平和」である。


神との平和とは、すなわち"罪に生きてきた生活"と"神のいる生活"との間に描かれたラインがあるとして、そのラインを越えて神の側へと移ったことになるのだ。つまり、もはや自分の犯した過ちからくる不安や心配や悩みといったものから解放されるのである。(もっとも解放されるといってもすべての不安がなくなるというわけでもないが、心を暗くしていた大きな不安は取り除かれるのだ。)


そして神との平和とは、それらの罪のために神が私を罰すのではないかという恐れからの解放でもある。「私は数々の過ちを犯した。だから必ずやその見返りで何か悪いことが起こるに違いない。」そう考える必要がないのである。


もっとも「天罰」というのは、キリスト教的な考えではないが、それでもそのような恐れとか不安とかいうものは自然と人の心を蝕んでいるものであろう。事実、クリスチャンになる前の私がそうであった。神という存在は、常に恐怖の対象でしかなかった。そして、クリスチャンになって最初に感じたことは、まさしく「神との平和」なのである。


そう、信仰を持って義とされることは、神を恐れの対象として見ることから、神を頼れる友として見ることへの最初のステップなのである。


What a friend we have in Jesus,
all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry
everything to God in prayer!

六本木の夜

今日は夕方から六本木ヒルズに事務所を構える企業の担当さんと打ち合わせ。ヒルズにはまだ2回しか行ったことないけど、やっぱあの上籠・下籠のエレベーターって慣れない。2階建て電車、2階建てバスまでなら理解できるけど、あの2階建てエレベーターって…どうも慣れない。誰も降りる人がいないのにエレベーターが止まるもんだから、なんじゃこりゃ??って感じである。


さて、打ち合わせの後、その担当さんと一緒に実際の作業をしている同僚に会いに行く。せっかくここまで来たのに、顔も出さずに帰ってしまうというのは、どうも寂しい。ってなわけで、彼らと一緒に日の暮れ始めた六本木へと繰り出す。というか、彼らに案内してもらう。こういう時、私は酒を飲まないので「飲みに行こう」じゃなくて「晩飯食いに行こう」と言うのである( ・∇・)


さて、2時間ほど店に居ただろうか。デザートに「光るコーラーフロート」を飲んで、中から"光る物体"を取り出して、しばらくそれをいじくり回して遊んだ後、店をでる。(ごちそうさまでした~!)


店を出てびっくり…外人の多いこと多いこと…ココはどこ!?って感じである。なんか妙な違和感を感じてしまうのでした。あぁ、海外なんて新婚旅行の時以来、どこにも行ってないなぁ。そろそろ、どこかに行きたいぞ。

藤沢周平「漆の実のみのる国」

藤沢周平の「漆の実のみのる国」を読み終わった。


素直な感想…難しかった。


藤沢周平の作品はつい最近になって読み始めたばかりなので、あまり細かいことは書けないが、少なくとも今まで読んできた藤沢周平の作品とはひと味違った雰囲気が感じられる。実在の人物や出来事について書かれているからだろうか。どこか重苦しい感じがするのだ。


しかし、考えてみれば貧困にあえぐ米沢藩を立て直そうと苦労を重ねた上杉治憲(鷹山)の物語なのである。他の作品が持っているような、爽やかな雰囲気がないのも納得できよう。


上杉治憲(鷹山)の生き様、物事への取り組み方、考え方には感心してしまう。国家の舵取りをする人たちにとっては良い手本となるのではないだろう。目の前の些細なことにばかり気をとられているばかりでは、問題というのは何も解決しないということだろう。何よりも、まずはできることから行動に移していき、指導者たる者がそれを実践し見本を示すということだろう。


とはいっても、私はそんなことよりも、このような米沢藩の事情を淡々と書き綴った藤沢周平という作家のすごさを覚えた。重苦しい話題は重苦しく、爽やかな物語は爽やかに…話の主題にあった文章を書けるのは、やはり作家としての才能なんだろうか。どんな文章の似たような雰囲気になってしまう私は、まだまだ物書きとしては未熟である。

あり得ない、起こり得ないコト

なぜか私は無性に「鯛焼き」が食べたくなることがある。でも、焼きたての鯛焼きってなかなか見掛けないんだよね。もちろん、大きなスーパーまで行けば、鯛焼きくらい売ってるけど、徒歩で行けるところにそんな店はない。ところが、今日は駅前のスーパーの前に鯛焼き屋がでているではないか!迷わず買っちゃいましたo(・∇・o)(o・∇・)o!それにしても、鯛焼きは小倉あんに限る。


ところで、今日はローマ書4章。やはり今日の箇所も「義」がキーワードのようだ。とは言っても、ここいら辺から「神の義」という視点から「人の義」に移っているような気がする。もっとも、人の義っていうのは、信仰に基づいたものであるんだけどね。


今日はアブラハムの話が載っている。聖書を読んだ事のある人なら誰でも知っているアブラハム。確かに信仰に生きた人物だ。彼が100歳のよぼよぼ爺さんで、その妻サラも同じようなしょぼくれた婆さんだった。ところがある日のこと旅人のフリをして神の使いがやってきてこう言った。「さてさて、あなたたちに子供が産まれるんだな、これが。」サラは笑って相手にしなかったが、アブラハムはこれを信じた。


アブラハムのすごいところは、こんなあり得ないような話を聞いても、「そんなことあるわけないじゃないか」と不信仰な思いを持たずに、むしろ「神様がそうおっしゃるならば、本当にそうなるに違いない」とさらなる信仰を持ったことだろう。


自分ならどうしたであろうかと考えてしまう。どう考えてもあり得ないような話をされたらどうするだろうか?良い例が思い浮かばないけど…「あなたは40代で日本の総理大臣になります」と言われたらどうだろうか。私なら「ありえねー」って思う。100歳の老夫婦に子供が誕生するのが現実では不可能なように、政治に全く興味がない私が首相になるなんて、まず普通じゃ考えられない。


信仰とは"普通じゃあり得ない"ことを現実に起こしてしまう神の力を信じることでもあるのだろう。そのような信仰を持つことによって、人は義と認められるのだろう。


…いやいや、あくまでも例でして、私が首相になるなんて神様は言ってません…