エッセイの下書きです、ヨハネの福音12章から
「地上を歩いた神」22回の下書き。携帯で暇を見つけちゃ書いていたんで、なんとか日付が変わる前に下書きまでできました。んで、これから見直し&清書するところ。これが結構大変だったりするんだな。
さて、ラザロを死から復活させたことで、多くの人々がイエスを信じるようになった。ところが、その反面、イエスの行いをユダヤ人の指導者や律法学者たちに告げ口をする者もいた。イエスが多くの奇跡を行い、人々が彼に従う様子を見ると、彼らはますますイエスを危険視し、彼に対する憎しみも日々増すばかりであった。そして、危険を感じたイエスは、弟子たちと共に砂漠の地方へと姿を隠してしまうのだった。
やがて、過ぎ越しの祭りの日が近づいてくると、イエスは再びラザロを生き返らせたベタニヤの村に姿を見せたのである。そしてマルタとマリアの家で、イエスを歓迎するための食事会が催されたのだった。
するとその食事の席でのことであるが、マリアが高価な香油の入った壷を持ってきて、その中身をイエスの足に注いだのである。そして、自らの髪で、イエスの足をぬぐったのである。なぜイエスの足を洗うためにに香油を使い、またそれをぬぐうために自らの髪を用いたのだろうか。単純に足を洗うためであれば、お湯とタオルさえあれば十分であるように思えるのだが、妙と言えば妙な行動である。
その場にいた他の人々や弟子たちがそれを見てどう思ったのかは分からないが、この行いを見咎めた弟子が一人いたのは確かである。その弟子はマリアにこう文句を言った。「あぁ、なんて勿体ないことをするのだ。それだけの香油は人が一年に稼ぐのと同じくらいの値段で売れたであろうに。それを売って、貧しい人に施すべきではないか。」
これが後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダであった。彼が本当に貧しい人のことを思っていたのかというと、実はそうではない。彼は弟子たちの中で会計を担当していたが、財布の中から金を抜き取っては自分のものにしていたという。おそらくユダがこう言ったことの本音は、それだけの香油を売れば、相当な金額になったであろうに。彼らの懐が豊かになれば、ユダはそれなりの金額をかすめとることができるのである。さて、ユダを弁護するわけではないが、どうやら彼は金銭にだらしない性格であったのかもしれない、イエスを裏切るときも、本当にイエスが憎かったわけではなく、銀貨三十枚に目がくらんだだけなのかもしれない。そんなわけで、今回も金になったであろう香油がむざむざとイエスの足に注がれているのを見るや、思わずマリアを叱りつけたに違いない。その言葉の裏には善意のかけらも見られないというのが真実であった。
さて、それを見たイエスは、ユダにこう言った。「彼女をそっとしておきなさい。貧しい人々はいつの時代でもいるものです。でも、私はいつまでもあなた方と共にいられるわけではありません。マリアは私の葬儀に備えて、香油を注いでくれたのです。」
ユダがこれを聞いてどう思ったのかは何も書かれていない。「葬儀とは…一体何を先生はおっしゃっているのだろう。」そう思ったかもしれない。この時、彼はまさか自分がイエスの死に直接的に関わりあうことになろうとは、夢にも思ってもいなかっただろう。
しかし、それは後ほど別の機会に見ていきたいと思う。今は置いておこう。それよりも、イエスの言ったことばに注目したい。なぜなら、この箇所を読んだとき、私にとってはマリアがイエスの足を香油で洗ったということよりも、そのような彼女の行いについてイエスが言ったことの方が印象深かったからだ。特にこの二つのことばが、いつも私を考えさせるのだ。「貧しい人々は常にいる。」「私はいつまでもいない。」まさにイエスが言ったことは、事実をそのまま語ったに過ぎないのであるが、これは、信仰者にとって、信仰と行動についての優先順位を教えているようにも思える。ともすれば、人という者は正しい行いをすることに重きを置く傾向にあるのかもしれない。義を行うことが問題ではない。確かに貧しい人に施しをすることは立派な行為であることに違いない。いや、むしろそのように正しい行いをすることが信仰に生きる者にとっては欠くことのできないものである。思うに私に欠けているものかもしれない。しかし、それよりも大切なことがある。それはまず何よりもキリストを礼拝することだ。正義を行うことは大切だ。しかしまずその前に、義である救い主、
神を求めよう。残念なことだが、助けの必要な人はいつでもどこにでもこちらが探すこともなくいる。しかし神は私たちが求めるその時にこそ、一番近いところにおられるのだ。その機会にを逃さないようにしよう。
ヨーヨーみたいな信仰
まだまだ1章から…怠けてるわけではないけど、思うところがいろいろあるから、なかなか先に進みませんね。本当だったら、1日1章のペースで進むはずだったんだけど、まぁ、たまには少し歩みを遅くしても構わないでしょう。
さて、29~31節にはこのようなことが書いてある。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」彼らとは、すなわち神を知ろうとしない者、神を知りたがらない者(28節)のことである。そのような者は、ここで書かれているような「悪い思い」に引き渡されるという。
どうも極端な言い方に思えることは否定できない。それに現実のこととして、神を知らない者でも善い人というのはたくさんいる。神を知らない=悪い人、だったらこの社会は成り立たないはずである。それを考えると、この聖書の箇所の意味って何だろうって思う。ちゃんと調べて勉強すれば、その背景が見えてくるだろうし、その意味というのも分かってくるのだろうが、ぱっと見ただけ(読んだだけ)では、いまいち理解に苦しんでしまう。そもそも人を悪い思いに駆り立てるとは、どうも神様らしからぬ言いぐさである。
だから、細かいことは正直分からない。
でも、これは分かるような気がする。もし、私がここに書かれているような「悪い思い」を抱くことがあれば、それは私が神から距離をおいていることを意味するのだろう。
そう考えると、私の信仰っていうのは、まるでヨーヨーのような気がしてならない。神に近づき、神から離れ、神に近づき、また離れ…日々、そんなことの繰り返しのような気がする。
理想と現実、板挟み
とは言っても、やはり今でも自分の内のどこかに、仕事を変えたいという思いがあることも否定はできない。今でこそ、給料についてはそれほど不満に思わなくなってきたが(給料が上がったというよりも、私が充足するということを学んだから)、システムエンジニアという技術職にどうしても馴染めないのである。かといって、私に能力がまるでないというわけでもない、文系出身であるにも関わらず、業務を遂行するに足りるだけの技術力はあると思う。でなければ、リーダーにまでならないだろう。そう、要するに技術系の仕事に興味が持てず、好きになれないだけなのである。
では、私は何に興味があるのだろうか、何をしたいのだろうか?その答えはこれである。プロフィールや↑にあるブログの説明にもしつこく書いてあるように、作家…とまでは行かなくても、もっとアナログなメディア「言葉」や「文字」を扱うことをしたいのである。もっともそちらの業界の内情というか、実態が分からないので、私の個人的な理想や憧れでしかないのかもしれないが…。給料据え置きで、そっち方面の働き口があったらひょいひょいと移ってしまいそうである。
しかし、現実は厳しいものだ。家族を支えるという責任が私にはある。当然のことながら、自由気儘に多少のリスクを犯してでも理想を追求する自由は許されない身であるのだ。
理想と現実、自由と責任…人というのは常に相反するモノの板挟みとなって生きていくものなのかもしれない。
神の義、人の不義
本当ならば、今日はローマ書2章になるはずなんだけど、1章を読んでいると、色々と気付くところがあるので、昨日に引き続き、今日も1章から見ていこうと思う。
例えば17節「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」福音が何であるかが、この中に凝縮されているようにも見えて、私の心に残るのだ。福音というと、イエス・キリストが十字架につけられて、私たちの罪の身代わりとなって下さった。そのおかげで、人には救いが与えられれている…と、考えようによっては人にとって都合の良いように思われがちである。もっとも、人にとって都合が良いのは事実であるが、そこには神の人に対する慈しみだの哀れみだのという側面ばかりが目立っているような気がする。それはそれで正しいのだろうけど、福音には別の側面というのがある。それが、神の義である。つまり、罪人である私たちというは、到底清い神にとって受け入れがたい存在なのである。そんな私たちの罪を私たち自身に被せるかわりに、神はキリストを遣わしたのである…
…回りくどい言い方になったが、神の義とはこれであろう。(1)人は罪人。(2)神は清い。(3)人は清くならなければ神の御国に入れない。(4)人を清くするためにキリストの血が流された。つまり、神は私たちが可愛いから、という理由でキリストを身代わりにさせたのではない。むしろその反対である。私たちが汚れているから、私たちが義なる者ではないから…イエスを身代わりにしたのである。自分たちがどのようなものであるか、信仰者として忘れてはなるまい。
まだまだ読んでて思うことはあるが、続きはまた明日にしよう。
私が走らない理由
とにもかくにも、私は走るのがキライなのである。電車がホームに入ってきたとしても、私は走らない。約束の時間に遅れそうになっても走らない。雨が降って傘を持っていなくても走らない。電車に乗り損なったら、次の電車を待つ。約束に遅れたら、詫びる。雨が降ったら、ずぶ濡れになっても歩いて帰る。それくらいの心構えで私はいる。
その理由であるが、私の信念とでも言おうか、日本人男子たるものお家大事でもない限り人前で走るべきものではないと思う。いや、男子ではなくとも日本人であるなら、人前で走るべきではない。せいぜい例外が認められるのは運動競技においてくらいである。が、さすがにそのような考えを人に押し付けるわけにもいかないので、せめて自分自身だけは信念に従おうと思っているから、私は走らないのである。
そもそも、走るという行為は、自らの恥を世間に表しているような気がしてならない。普通に生活をしていたら、人に走る必要とは生じないのである。電車に遅れないように余裕を持って行動すれば、慌てる必要もない。約束の時間に間に合うように早めに出かければ、焦る必要もない。ちゃんと天気予報を見て傘を持っておけば、走らずともよい。…もっとも最後のは自然の力に左右されてしまうので、あながち慌てたところで、世間に自らの恥をさらすことにはならないかもしれない。とはいっても、やはり雨が降ったくらいで焦ってしまう姿というのは、人には見せられないということに変わりはないだろう。雨が降った降らないくらいで、あたふたしてしまうような動じやすい性格というのは、やはり私にとっては恥なのである。
さて、私はどれだけ走らずにいられるのだろうか?できる限り常に落ち着いて行動したいものである。