神の義、人の不義 | あるキリスト者のつぶやき…

神の義、人の不義

本当ならば、今日はローマ書2章になるはずなんだけど、1章を読んでいると、色々と気付くところがあるので、昨日に引き続き、今日も1章から見ていこうと思う。


例えば17節「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」福音が何であるかが、この中に凝縮されているようにも見えて、私の心に残るのだ。福音というと、イエス・キリストが十字架につけられて、私たちの罪の身代わりとなって下さった。そのおかげで、人には救いが与えられれている…と、考えようによっては人にとって都合の良いように思われがちである。もっとも、人にとって都合が良いのは事実であるが、そこには神の人に対する慈しみだの哀れみだのという側面ばかりが目立っているような気がする。それはそれで正しいのだろうけど、福音には別の側面というのがある。それが、神の義である。つまり、罪人である私たちというは、到底清い神にとって受け入れがたい存在なのである。そんな私たちの罪を私たち自身に被せるかわりに、神はキリストを遣わしたのである…


…回りくどい言い方になったが、神の義とはこれであろう。(1)人は罪人。(2)神は清い。(3)人は清くならなければ神の御国に入れない。(4)人を清くするためにキリストの血が流された。つまり、神は私たちが可愛いから、という理由でキリストを身代わりにさせたのではない。むしろその反対である。私たちが汚れているから、私たちが義なる者ではないから…イエスを身代わりにしたのである。自分たちがどのようなものであるか、信仰者として忘れてはなるまい。


まだまだ読んでて思うことはあるが、続きはまた明日にしよう。