一人の人から出たこと | あるキリスト者のつぶやき…

一人の人から出たこと

さてさて、ローマ書の続きを見ていきましょう。まだ5章だね。でも、今夜で5章は終わりかな。別に飛ばして読んでいるわけじゃないけど、5章の残りの部分はちょうどひとつの話題を扱っているようなんで、まとめて見ていこう。


「ひとりの人によって罪が世界に入り…」とは、すなわちアダムのことである。エデンの園で平和に暮らしていたのだが、食べてはならぬと言われていた木の実を食べたことで、夫婦共々園から追放されたあのアダムである。


さて、アダムが神に逆らったということで、彼が罪を犯したのは分かるが、なんで彼の罪が今を生きる私たちを罪に定めるのであろうか?うむ。改めて考えると不思議と言えば、不思議である。まるでアダムの犯した過ちの責任が私たちに押しつけられているような気がしなくもないが…。なぜこのようになってしまったのであろうか?と、考えては見るものの、正直その答えは私には分からない。


では、アダムが罪を犯さなかったら、私たちも罪に定められなかったのであろうか?さて、やはりその答えも私には分からない。


アダムの罪と私たちの罪の間にどのような因果が働いているのか、改めて考えてみようとすると、アタマが混乱してしまう。


しかし、確かな事が一つある。それは、私たちは罪人であるということだ。アダムがどうのこうの考えるのもいいけど、結局のところ、私たちにはアダムではなく私たち自身の罪があることに違いはないのだ。誰しも心の内で人を憎んだり、妬んだりすることがあるだろう。それが、罪なのである。当然ながら私も罪人なのである。人を殺したとか金を騙し取ったとか、そんなことではない。それ以前の、人の心の問題である。


今までも何度か書いてきたが、それがために、義なる神は私たちをよしとして下さらないのである。そして、これも何度も書いてきたが、私たちを神と和解させてくださったのがイエス・キリストなのである。が、これについては今更書くこともないだろう。過去の記事を読んでくれれば分かるはずだ。


なぜ一人の人の罪がすべての人々を罪に定めたのか…聖書に細かく書かれているわけでもないので、それは私にはよく分からない。しかし、一人の人がすべての人々の罪を背負って下さったのか…これは聖書によくよく書いてあることではないか。一人の人から始まった希望、それが聖書が伝える大切なメッセージなのではないだろうか。


って、書いたところで、当初書こうと思ったことからずれてしまった。どうも、最近はこのパターンが多いな。まぁ、下書き程度に読んでもらえればいいだろう。