罪からの解放 | あるキリスト者のつぶやき…

罪からの解放

GWはカレンダー通りです。ってなわけで、5/1と5/2は普通に会社に行くことに。でも、普通に行っても、帰ってくるのはフレックスを使って4時とか会社を出ることにしよう。おかげで、今日は子供が起きている間に帰ってこれたよ。平日に家族揃って夕食を取るのは久しぶり。ここ最近やっていなかったけど、子供の寝付かせに挑戦。さすがに時間が掛かったな。


子供が寝た後に、ちから誌8月号のエッセイの見直し&清書。本当は昨日が締め切りだったんだけど、間に合いませんでした…。(しかし、雑誌の記事って将来のことを書かないといけないから難しい。)それが終わって、風呂に入って…。やっとブログの記事を書く時間ができたよ。でも、もう0時半を回ってるよ。日付も変わってしまった。


さてさて、聖書を見ていこう。まだローマ書8章だったな。


人の内にある善と悪の葛藤ということを前回書いた。クリスチャンといえども、まだ罪から完全に解放されているわけではない。確かに心の中では神を求め、神の目にかなった道を歩もうと望んでいるが、人の体というのは弱いもので、誘惑だの欲だので左右されたりするのである。いや、実際に罪を犯すということではなく(それをやったら今の社会、刑務所に送られてしまう)、心を惑わされるという意味であるが。


だから私たちは、私たち自身を悩ましている罪の束縛から解放されることを望んでいるのだ。これがパウロが24節と25節で言っている"目で見ることのできない望み"なのだろう。確かに、罪からの解放というのは、目で見ることはできない。それはむしろ心で感じ、知性で理解に至ることのできるものなのだろう。まだ私はそのような「境地」に至っていないので分からないけど…。果たして生きている人間がそのような「境地」に辿り着くことができるのか甚だ疑わしくも思える。しかし、少なくともこれだけは確かに言える。いわゆる「免罪符」というものは存在しない。なぜなら、神のみが私たちの心を内側から洗うことができるのだ。それもまた目に見えるものではない。


さて、なんとも抽象的な話になってしまったが、これがクリスチャンが待ち望んでいることなのである。いや、クリスチャンとして求めるべきものなのであろう。罪から解放されることはなくとも、やがて解放される日がくることを待ち望むことが、今私たちが出来る最大限のことなのかもしれない。その思いを心に持てば、僅かずつであろうが、この人生においても、罪から解放されつつあるのかもしれない。


そして、確かなことが一つある。それは、私たちは日々生きることによって、その解放の日へ一日一日と近づいているということだ。