あるキリスト者のつぶやき… -133ページ目

二つの義

先日書いたエッセイの清書したモノを、自分サイトにアップしておいた。興味のある方はご覧ください。感想なんかを残してくれると嬉しいです。でも、自分のサイトのエッセイも、いくつかの大きな作品にまとめていきたいですね。もっともまとめてどうする?って聞かれたら、返答に困るんだけど。本にできたらいいけど、自費出版できるほど経済的に恵まれておらんのです。


それでは、今夜も聖書を見ていこうと思う。


今夜からローマ書の10章。


「義」というものには、どうやら2種類あるらしい。まずひとつは「人の義」、もうひとつは「神の義」である。


パウロも言うように、ユダヤ人たちは彼らなりに信仰には熱心であったが、残念ながら「人の義」を優先させるあまり、神から遠ざかってしまった。つまり、律法をきっちりと守ることで、自らを神の前に良く見せようとしたのである。律法を守ること自体が悪いことだとは思わない。問題となるのは、自分たちの力だけに頼って、神の前に自らの潔癖さ、正しさというのを露わそうとしたのが、彼らの犯した間違えであった。その結果として、彼らは「知識」、つまり神を知ることよりも、律法に従った行いによって自らの義を求めることになったのだ。


彼らは「人の義」を追い求めるあまり、肝心の「神の義」から目が逸れてしまった。


キリストがこの世に来られたことによって、律法に終わりが訪れたのである。キリストが来られた後は、律法というものはすでにその役目を終えたのであって、律法を守ることに価値はなくなったものと言えよう。もはや律法を厳しく守ることで人が義と認められる時代は終わったのである。


キリストが来られた後、人は何によって義とされるのか…。


それは信仰である。「知識」なのである。キリストを知ること、そしてキリストを知ることによって神を知ること。それが、信仰であり知識なのであろう。キリストを信じて、神と和解することが「神の義」なのであろう。

身をもって学習

一昨日の土曜日…慌てていたせいか、近所のジャスコの駐車場でどこかの出っ張りにクルマを接触させバンパーに傷を付ける。

昨日の日曜日の昼メシ時、「エビフライ&ロースカツ定食」を注文…焦ってを食べていたら、またまた遠慮無く思いっきり唇を噛む。口から出した割り箸が真っ赤に血で染まって驚く。わずか一週間の間で唇を3度も噛む。

今日…昨年末から試しに始めてみたFX(外国為替証拠金取引)であるが、最近の円高を反映して痛い目に遭う。何もせずに利益を上げようと慣れないことをしたのがまずかったのか。

踏んだり蹴ったりの三日間。

学んだことは…焦るな、欲張るな。落ち着きをもって分相応の行動をしろってことかな。反省。

真面目なネタに

ふざけた(?)ネタの後は真面目(?)を…。

久々にエッセイの下書きを載せます。清書が済んだものは、日曜以降に私のHPでどうぞ。


この地上での命運が尽きようとしている時、イエスはこう言った。「私は葡萄の木です。そして、あなた方はその枝です。」
なぜか、この箇所は私の心に深く刻まれている。私が最初に、イエスのこの言葉を読んだのは、クリスチャンになる前だったか、それともクリスチャンになった後のことだったかは、あまりよく覚えていない。それだけ信仰が未熟な時期に読んだこの言葉なのであるが、忘れ去られることもなくしっかりと今の今まで私の頭と心に残っているのだ。きっと、私が生きている限り、いつまでも私の中に残っていることだろう。それくらい強い印象を私に与えた言葉である。
イエスは譬え話を用いて、色々と弟子達たちや彼のもとへと集まってきた人々に神の国のこと、自分自身のこと、信仰についてのことなどを教えることが多くあった。そして、その記録が聖書にも残されており、今日でもイエスの語ったことを読むことができるのだが、正直どちらかと言うと、理解するのに難しい話が多い。人から説明されたり、教えられたり、もしくは自分で調べてみたり、推測してみたりすれば、なんとなく言わんとしていることが分かる気がすることもあれば、それでも釈然としないことがよくある。「きっとこんなことを言っているんだろうなぁ」と思うことはあっても、その根拠は何であるかとか、なぜそのように解すことができるのかというもやもやとした疑問や思いがわだかまるのだ。しかし、そのような譬えが多い中で、この葡萄の木の話だけは、何の疑問も持つことなく、すんなりと私の中に入ってくるのである。十何年も前のことは分からないが、おそらく最初にこの箇所を読んだ時も、深く考えたり悩んだりすることなく、イエスの言わんとしていることが理解できたのだろう。それだから、私の内にしっかりと残っているのかもしれない。そして不思議なことに、読めば読むほどに、今まで気付かなかったことが見えてくるようにも感じられるのだ。昔読んでも、今読んでも、同じように私の内に入ってくるのであるが、その入ってくる内容は少しずつ変わっているようにも思える。
イエスは言っている。「私は葡萄の木です。そして、父なる神は、その庭園の手入れをしてくださるお方なのです。実を結ばない枝を見つけては切り取り、実を結ぶ枝を見つけると、より一層実を実らせるように剪定をして下さるのです。」
葡萄の木に限ったことではないが、木というのは、まず幹がある。幹はしっかりと地中に根を張り、そこから必要な水分や栄養分を吸収するのだ。枝はそのような幹から生えている。つまり枝にとって木の幹とは大切な栄養源なのである。枝というのは、木から切り離されてしまっては、もはや生きていくことさえできないのである。私たちにとって、イエスとはこの木の幹なのである。私たちは、イエスという幹に生える枝になることで、生きていく上で必要なものを得ることができるのだ。そして、十分な栄養を受けることで、枝は実を実らせることができるのである。
それでは、枝である私たちは、木であるイエスからどのような栄養を吸収することができるのだろうか。それは、単純に一言で言い切れるようなものではないだろうと思う。なぜなら、イエスが私たちに与えてくださる物とは、枝である私たちの成長にとって必要なすべてのものだろう。実際、話の中でイエスはこうも言っている。「あなた方が私の枝である限り、何でも望む物を願いなさい。それはあなた方に与えられるでしょう。」
もっとも、欲しい物が何でも手に入るというわけではない。あくまでも枝が育っていく上で必要なものに限られてのことである。しかし、枝である私たちにとって最も重要なことは実を実らせることにあるのだから、それはそれで良いのではないだろうか。
そして、実を結ぶ枝には、農夫である神が、しっかりと手入れをして下さるのだ。必要な栄養が実を実らせるために使われるようにと、余計な枝葉を切り取ってくださるのである。
木であるイエスが与える栄養が何であるか、枝である私たちが結ぶ実が何であるか、農夫である神が取り除く枝葉が何であるか…具体的に何を示しているかは、分からない。分からないけど、それは葡萄の枝がまったく同じ房を実らせることがないのと同じように、枝である人によって様々であるからだろう。しかし、これを見て分かることがある。それは、葡萄の木と葡萄の枝と葡萄園の農夫の関係である。枝がどんな枝であれ、これだけは変わらない。
そして、木と枝はキリストの言葉と愛で結ばれている。実を結ぶこともなく、切り捨てられてしまうことになる枝は、この結びつきが薄いからなのだろう。良い実を、朽ちることのない実を実らせる枝でありたい。

現金強奪計画~共謀罪ってどーよ

今話題になっている「共謀罪」。反対派も結構いるようで、どれほど可能性があるのか分からないけど、新しい法案として提唱されている。私の理解している範囲で簡単に言ってしまうと、実際の犯罪を行わなくとも、そのことについて複数の人間で話し合ったり計画しただけで、犯罪行為と見なされるアレである。結構きわどい。そうすると、こんなことをブログに書くだけでも犯罪になるのかな。発言者は私だけしかいないけど、閲覧者は複数いるわけで。


例えば…(あくまでも例ですよ!)


現金強奪の方法についてちょっと考えてみよう。


銀行のお金って保険で保障されているってどこかで聞いたことがある。だったら、盗んだところで、誰も損をしないわけじゃん。個人から盗むのはさすがにマズイだろうけどさ。しかし、銀行を直接襲うのは、難しそうだ。カメラもあるし、人もいっぱいいるし。原則、人には怪我を負わせたくないし。だったら、銀行ATMなんかどうだろう。重機で壊して奪うっていうのが、一時期はやったけど、あれも、銀行以外に迷惑がかかりそうだね。重機を使っている工事現場の人とか、ATMの入っている建物の人とか。部外者に掛かる迷惑をミニマムに抑えたい。


となると、警備会社の人がATMにお金を補充するその瞬間かな。今まで、何度か観察したことあるけど、あれって利用者が入金した貨幣を入れる「箱」と利用者が出金するための貨幣を入れる「箱」とに分かれているらしい。狙うのは後者の方。そっちのが沢山ありそうじゃん。この箱を「箱X」としよう。


今までのパターンだと警備員二人がかりで作業をしていることが多い。まぁ、さすがに一人はリスク高いだろうしね。お金の補充は定期的なものか不定期なものかはよく分からない。さすがにそこまでは観察してないからね。


もう少し現実味を持たせるために、具体的に私ならこうする、を考えてみよう。ターゲットは川崎にあるオフィスビル、ソリッドスクエアの2階にあるみずほのATM。普段私が利用しているATMですだ。


必要な人数は4人とする。実行担当1(A)、実行担当2(B)、見張り兼被害者役(C)、運搬担当(D)ってな具合。次に、必要な物を考えてみる。A/Bが使うモデルガンと目出し帽。Dが使う台車と、「箱X」を隠すための段ボール箱。(ソリッドではよく見る光景だから怪しまれない。) 念のため、段ボールの内側は電波を通さないもので覆っておいた方が良いかも。


実行手順は以下の通り。


CがまずタリーズでATMの見える場所に陣取る。警備員が近づいてきたら、A/B/Dがポジションにつく。
A/BがATMのウラ、壁の反対側で待機。普通に会社員らしく振る舞う。
Dはタリーズのウラ口付近で待機。
Cは監視を継続、警備員が「箱X」を持ってATMの前で作業を開始したら、A/Bに連絡。
A/Bは目出し帽を着用し、Aが警備員を抑えている間に、B「箱X」を奪う。
Bはそのままタリーズのウラへあせらずに進む。D「箱X」を引き渡し、目出し帽を脱いで、エレベーターで上の方の階へ消え失せる。どこかのトイレで着替えて、何食わぬ顔で、ソリッドを離れる。
Dは用意した段ボールに「箱X」を入れ、エレベーターで上の方の階へ一旦移動。後、業務エレベーターで地下へ。
AB/Dが2階から去った後、逃げる。
Cは逃げるAを止めようとAの前に立ちはだかる。
ACを殴る。(Cが一番痛い役目を負うのだが…)Cはそのまま床にぶっ倒れる。たぶん、人の注意はCに向けられるので、その隙に…
Aは非常階段で、上の階へ逃げる。上層階専用エレベーターのあるフロアまできたら、上層階専用エレベーターを利用して、一気に地下まで移動。1階を経由せず、そのまま外へ抜け出し、電車にのっていずこへと姿をくらます。
Dはこれらの騒ぎの間に、クルマに「箱X」を積み込んで、いずこへと姿をくらます。
後は、何とかして「箱X」を開けて、中身を4人で山分けにする。カラになった「箱X」は横須賀か三崎の方の人気のない海に沈める。
なお、現場に遺留品を残さぬよう注意すること。目出し帽は後日、大根の皮、キャベツの葉っぱ、卵の殻、ちり紙等のいつもの家庭ゴミと一緒に何食わぬ顔で捨てる。モデルガンもばらして同様に処分する。段ボール箱は紙ゴミの日に出すこと。台車はホームセンターの駐車場に指紋を拭いて、置き去りにする。


さて、問題はそれだけの大金(?)をどうするか…である。


以上…!


と書いたけど、これだけで犯罪になってしまうとしたら、とんでもない世の中である。妄想だの想像だのを表現することができなくなっては、表現の自由が危ういものとなってしまう。

義を得るには?

鼻の下のヒゲが鼻孔をくすぐっていたので、思い切って剃ってしまった。というわけで、今はあごヒゲだけが残っている。まぁ、鏡を見てもそんな変でもなかったなぁ。というか、誰も気がつかないかもしれない。うちの奥様も全然気付いた様子でもなかった。


では、ちょっと遅くなってしまったけど、今夜も聖書を読もうかな。あぁ、いや、実はもう1時間ほど前に読んでしまった。というわけで、今夜思ったことをちょこっと書いておこうかな。ローマ書の9章の続き。9章は今夜で最後にしよう。


「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。」 (30節)


人はどのようにして、義を得ることができるのか。


もっともその前に「義」が何であるかを考えないといけないが、それについては今まで書いてきたところを見れば分かるだろうと思う。すなわち、罪を赦されて、神の目に正しいと認められることであろう。


では、罪を赦されて、神に認められるために、人はどうすればいいのか。


ここに書いてあることからすると、まずは義を追い求めないことである。追い求めるとは、つまり自分の努力で義を得ようとすることだろう。つまり人が主導権を取って、神に認められようとすることである。これは律法に縛られたユダヤ人たちが散々にやってきたことであるが、果たしてどうだろうか、それで神に正しいと認められたであろうか。


残念ながらそうではなかった。彼らは義に到達しなかったのである。行いでは、神の義に到達することはできないのである。人というのは、そもそもが義とは程遠い存在なのである。そのような人が、いくら頑張ろうとも、神の義に到達しないというのは、まぁ、冷静になって考えてみれば当然のことであろう。


そう、義を得るには、まずは信仰なのである。努力しても得られない義は、信じることによって得られるのである。何を信じれば義と認められるのか…。


その答えは今まで何度も書いてきた。だから、今更それを言うのもくどいような気がする。しかし、あえて言うならば、それはキリストを信じることである。なぜなら、キリストの働きによって、ただキリストの十字架での働きによってのみ、人の罪は赦されたからだ。罪が赦され、神と和解し、そして初めて人は神の目に義と認められるのではないだろうか。