義を得るには?
鼻の下のヒゲが鼻孔をくすぐっていたので、思い切って剃ってしまった。というわけで、今はあごヒゲだけが残っている。まぁ、鏡を見てもそんな変でもなかったなぁ。というか、誰も気がつかないかもしれない。うちの奥様も全然気付いた様子でもなかった。
では、ちょっと遅くなってしまったけど、今夜も聖書を読もうかな。あぁ、いや、実はもう1時間ほど前に読んでしまった。というわけで、今夜思ったことをちょこっと書いておこうかな。ローマ書の9章の続き。9章は今夜で最後にしよう。
「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。」 (30節)
人はどのようにして、義を得ることができるのか。
もっともその前に「義」が何であるかを考えないといけないが、それについては今まで書いてきたところを見れば分かるだろうと思う。すなわち、罪を赦されて、神の目に正しいと認められることであろう。
では、罪を赦されて、神に認められるために、人はどうすればいいのか。
ここに書いてあることからすると、まずは義を追い求めないことである。追い求めるとは、つまり自分の努力で義を得ようとすることだろう。つまり人が主導権を取って、神に認められようとすることである。これは律法に縛られたユダヤ人たちが散々にやってきたことであるが、果たしてどうだろうか、それで神に正しいと認められたであろうか。
残念ながらそうではなかった。彼らは義に到達しなかったのである。行いでは、神の義に到達することはできないのである。人というのは、そもそもが義とは程遠い存在なのである。そのような人が、いくら頑張ろうとも、神の義に到達しないというのは、まぁ、冷静になって考えてみれば当然のことであろう。
そう、義を得るには、まずは信仰なのである。努力しても得られない義は、信じることによって得られるのである。何を信じれば義と認められるのか…。
その答えは今まで何度も書いてきた。だから、今更それを言うのもくどいような気がする。しかし、あえて言うならば、それはキリストを信じることである。なぜなら、キリストの働きによって、ただキリストの十字架での働きによってのみ、人の罪は赦されたからだ。罪が赦され、神と和解し、そして初めて人は神の目に義と認められるのではないだろうか。